- プロローグ
- 1人の天才と3人のマンチェスター・ユナイテッドサポーター
- ここはニューヨーク
- おれたちはロックバンドなんだ。ギターとドラムだけでいこうぜ
- ストーカー被害
- ロブを喜ばせるためなら何だって
- 以前ここに来たことがあるような気がする
- 誘惑に負けず、我々を悪から救い給え(マタイによる福音書 6:13)
- 騒音は磁石のように卑劣な奴らを引き寄せる
- あのクソ野郎が戻ってきやがった
- ゲロの真ん中に取り残されて
- 彼女は花火のように飛び上がった
- アーサーは本当にイカれてた…おれはやつが大好きだ
- OK、ピザ
- 休暇でも取ってこいよ、ユダ
- Love is the air that supports the eagle
- 帳簿は一目見るだけで十分
- おれたちは何か特別なものを作り上げた
- ビデオを観たとき、彼は怒り狂った
- ペドロ、おれたちを香港へ連れ戻してくれ
この本は真実であり、完全な真実であり、真実そのものである...おれが覚えている限りでは!
読者の皆様へ
ニュー・オーダーのレコーディング時間は、多くのウェブサイトに掲載されている時間と照らし合わせると、矛盾に気付く方もいるかもしれません。本書に記載されている時間は、私の知る限り、当時のレコーディング時のものです。
はじめに
ハシエンダについての本を書き始めた時、もしニュー・オーダーの物語を語ることになったら、それは間違いなく最も困難なものになるだろうと分かってた。ニュー・オーダーの26年間には素晴らしい瞬間もあったが、多くの痛みや失恋、自信喪失、フラストレーション、苛立ちもあった。おれたち全員がそれらを乗り越えられたのは不思議なことである。
ジョイ・ディヴィジョンがおれの人生を定義したとすれば、ニュー・オーダーはそれを形作った。セックス、ドラッグ、そして(インディーズ)ロックンロール、芸術、金、粗野な愚かさ、盲目的な信仰、そして驚くべき幸運な魅力的な物語。そして、素晴らしいミュージシャンによって書かれた本当に素晴らしい曲のサウンドトラックがそれを支えている。
グループを結成する際に必ずすべき10のこと
1. 友達と協力する
2. 志を同じくする人を見つける
3. 自分に絶対的な自信を持つ
4. 素晴らしい曲を書く
5. 素晴らしいマネージャーを雇う
6. マンチェスターに住む
7. どんな時も支え合う
8. 誰一人としてグループより偉大ではないことを理解する(これはジーン・シモンズの言葉です)
9. お金の流れに注意する
10. 署名する前に、必ずすべてについて個別に法的助言を受ける。それができない場合は両親に相談する
プロローグ
1985
「彼の時差ボケ解消法は、今まで見た中で一番長いコカインの列だったんだ。」
まずは物語から始めよう。この本の中で、ハリウッド女優、オーケストラ・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク、そしてマッシュルームのヴォロヴァンが登場するのはこの物語だけなので、その点でユニークだ。一方で、物語が進むにつれて、他にもいくつかテーマ(女の子、コカイン、バーニーの嫌な奴ぶりなど)が出てくるので、舞台設定にはうってつけ。物語は1985年、ニュー・オーダーはジョン・ヒューズが新作映画『プリティ・イン・ピンク』でおれたちの曲を2曲使うこと、そしてそれらの曲の代わりに映画のために特別に書き下ろした新曲が欲しいと告げられたところから始まる。
それはそれで良かったのだが、残念なことに、誰かがジョン・ロビーに新曲をプロデュースさせるという素晴らしいアイデアを思いついた。ああ、当時のおれはジョン・ロビーを心底嫌っていたんだ。彼は時に、いわゆる「とても面白くて扱いにくい」性格だったから。ニューヨークでアーサー・ベイカーとの『コンフュージョン』セッションで彼に会ったことがある。でも、ローディー仲間のトゥイニーが言ったように、「彼はおれたちとは違うよ、フッキー」。
カリフォルニア州サンタモニカにあるヴィレッジ・レコーダーというスタジオで、彼の『サブカルチャー』をミックスしていた時(フリートウッド・マックが100万ドル以上を費やした史上最高額のアルバム『タスク』をレコーディングした場所だが、後におれたちが自分たちのアルバムでそれを上回ることになる)、彼は女性に対して驚くほど大胆だった。それはおれにとっては夢のようなことだった。彼はレストランやクラブなどで女の子たちに声をかけ、「イギリス出身のグループ、ニュー・オーダー」とレコーディングしている曲のバックコーラスをやらないかと持ちかけていた。
彼女たちは必ずOKしてくれたので、毎晩スタジオはくすくす笑うバカたちでいっぱいになり、おれたちの取り巻き(この本を読む中で何度も出てくるフレーズだ)の何人かが安っぽいスーツのように彼女たちに覆いかぶさっていた。
それだけでなく、ロビーがバーナードに「この曲は君のキーじゃないって気付いてるよね?」と一言言っただけで、ニュー・オーダーの魔法の大部分を一気に破壊してしまったとおれは信じていた。もちろんバーナードは、この曲が自分のキーじゃないことに気づいていなかった。誰も気づかなかった。そんな技術的なことは何も知らなかった。おれたちはいつも曲作りを先にやっていた。バーニーのボーカルでおれがずっと好きだったのは、曲に合わせようと無意識に緊張しているような声質だった。イアンと同じく、彼も世界一の歌声に恵まれていたわけではないが、感情と情熱が込められていた。そしておれにとって、バーナードの声に宿る苦闘こそがバンドの魅力の大きな部分を占めていた。(「歌手の声が良ければ良いほど、彼らの言っていることを信じにくくなる」と言ったデイヴィッド・バーンに、おれも同感である。)
しかしロビーとの仕事の後はそうではなかった。彼が口を挟んだ後は、必ずバーナードのキーで曲を書かなければならなかった。それだけでなく、それは新たな目覚めを意味した。突然、バーナードはこう考えるようになった。「ああ、物事には正しいやり方があるんだ。正しいやり方ってあるんだ」と。そして時が経つにつれ、おれたちは全てを一つか2つのキーで書くようになっただけでなく、全ての曲にボーカルのバース、ボーカルのブリッジ、ボーカルのコーラス、ボーカルのミドルエイト(これは違った)が必要となり、ダブルコーラスで締めくくらなければならなかった。おれにとってそれは、おれたちがこれまで目指してきた全てに反する行為だった。おれたちはルールブックを破り捨て、書き換えることに専心していた。5分ごとにルールブックを参照するようなことはしなかった。おれたちはパンクであり、反逆者だったんだ。
おれに言わせれば、そのルールはおれたちを退屈させてしまった。「ブルー・マンデー」のような素晴らしい曲を書いていた頃は、9分間の独特なサウンドを作りたかった。もし誰かが「そんなことはダメだ」と言ったら、おれたちは「くたばれ」と言っていただろう。ところが今では「ジェットストリーム」のような型通りの曲を書くようになった。
さて、1985年の冬に話を戻すと、バンドの他のメンバーはロビーを気に入っていたし、彼とバーナードは親友同士だったから、ロビーはストックポートのイエロー・ツーで行われた『プリティ・イン・ピンク』のセッションに飛行機で来てくれた。そこはストロベリー・スタジオの真向かいだった。そこでロビーは「シェルショック」のベースを外して、代わりに弦楽器に乗せて、おれを怒らせることに明け暮れた。「分かってるだろ、フッキー」とニヤニヤしながら、夜遅くになるとハシエンダを闊歩していた。
おれたちは彼を女の子たちに紹介したが、彼が「ああ、ボッティチェリの天使みたいな顔をしてるね」みたいなセリフを言うと、呆然と立ち尽くしたものだ。
「失せろ」と彼女たちは言ったものだ。
アメリカでは女性たちが列をなしていたが、マンチェスターの女の子たちは彼を軽くあしらっていた。
ロビーには厳格なスタジオ・ルーティンがあった。毎晩8時になると、彼は二階へ行き、事前に注文しておいた中華料理のテイクアウトを食べていた。紐で縛られた、あのおかしな小さな椅子に座り、少しテレビを見て、食事を済ませ、それからまたニュー・オーダーを台無しにする仕事に戻るのだ。ある晩、夕食後、バンドメンバーが二階に集まって、ロビーがいつもあの椅子に座っていることを笑い話にしていた。その時、バーニーが、次にロビーが座った時に椅子が倒れてロビーも一緒に倒れるように、ウェビングを外してはどうかと提案した。
「素晴らしい、面白いだろう」とおれたちは思った。
そして彼はそれをやってみた。そして本当に面白かった。でも、ロビーはおれが彼を嫌っていることに気づいていたので、椅子から落ちて中華で全身を汚してしまった時、彼はおれを責めた。おれがどれだけ無実の傍観者だと言い張っても、彼は仕返ししてやる、復讐してやると言った。
「待ってろ、フッキー…待ってろ!」と彼はニューヨーク訛りでゆっくりと言った。
しかし、彼は待たなかった。少なくともそのセッション中は。『シェルショック』が完成し、ジョン・ヒューズに渡した。気がつけば1986年の初め、ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターで行われた『プリティ・イン・ピンク』のプレミア上映会に臨んでいた。サイケデリック・ファーズ、OMD、エコー&ザ・バニーメン、スザンヌ・ヴェガ(自分の曲がほとんど聞こえなくて号泣していた)、その他たくさんのバンドが出演していた。ロブ・グレットンは来られなかった。コカインによる精神疾患で病院に入院しているという些細な問題があったからだ。それで、ロビーと一緒に行ったのはおれ、テリー・メイソン、スティーヴ、ジリアン、そしてバーニーだった。当時、二人の間には紙巻タバコの巻紙さえ挟めないほどの仲良しコンビだった。ほとんど恋人同士のような関係だった。
まず、全員で映画を観た。『シーブズ・ライク・アス』と『エレジア』は使われていたが、『シェルショック』はたった6秒のクリップしかなかった。ジョン・ヒューズは古いトラックを差し替えていなかった。明らかに「シェルショック」が物足りないと思っていたようで、おれはそれが面白くて、後でロビーに文句を言おうと思った。その後、ナイトクラブのレセプションでOMDと話をした。ファクトリー時代以来会っていなかった彼らに、おれは時差ボケがひどいと文句を言っていた。
「一緒に来ないか」と、彼らの取り巻きの一人が誘ってきた。
「ちょうどいいものを見つけたんだ」
結局、彼の時差ボケ解消法は、今まで見た中で一番長いコカインの列だった。そして、さらにもう一本、さらにもう一本と、おれが完全にラリってしまうまでやり続けた。それまでコカインをあまりやったことがなかったので、その感覚は実に奇妙だった。それに、その時は大量に飲む前だったので、負担を軽くするものが何もなかった。確かに目が覚めるという効果はあったが、歯を食いしばったような嫌な女になってしまうという望ましくない副作用もあった。まるで尻に硬い棒が突っ込まれているような気分だった。とても静かになり、じっと一点を見つめるようになった。その後に起こったことは、全くもっておれが受けるべきことではなかった。おれ自身に何の挑発も無かったのだから。
その後、モリー・リングウォルドの向かいに座って、スティーブ、ジリアン、テリーと二人でお酒を飲んでいると、まるで棒のように硬直した様子で(上記参照)、ふと目に入ったのは、数フィート離れたところでバーニーがくすくす笑っている姿だった。「ああ、あのバカ、何やってんだ?」と思っていたら、次の瞬間、ロビーが目の前にいて「おい、フッキー、イエローツーの椅子、覚えてるか?」と言いながら、巨大なマッシュルームのヴォロヴァンをおれの顔にぶつけた。おれはショックを受けた。彼とバーニーは笑いながら立ち去り、おれはただ座って、それがゆっくりと顔面を滴り落ちていた。
おれはその夜のためにきちんとした服装をしていた。クロムビーに素敵なシャツとネクタイを着けた、おれにとってはとてもスマートなスタイルだった。顔中にマッシュルームのヴォロヴァンを塗るのは、おれが求めていたスタイルではなかった。すごくクリーミーなやつで、熱くてベタベタして、あちこちに飛び散った。スティーブとジリアンとテリーが手伝ってくれて、体を拭いてくれた時も、おれはまだショックから抜け出せずにいた。「あんなこと、とんでもない!」って。バーニーがやったのはストックポートのど真ん中で、しかもおれたちだけだったのに。ロビーは『プリティ・イン・ピンク』のプレミア上映で、モリー・リングウォルドの目の前で、おれにこんなことをしたんだ!
みんな同意した。「ああ、あいつはクソ野郎だ。お前はあいつをぶちのめすべきだ、フッキー」って。コカインでいっぱいのおれは「よし、よし、あいつをぶちのめしてやる」って。3人とも「ああ、ぶちのめしてやる、ぶちのめしてやる」って。
その時、おれはすっかり興奮しきっていて、赤い霧が降りてきた。もう完全に怒り狂っていた。「よし、あのクソ野郎はどこだ? ぶっ殺してやる!」って言って、奴を探しに階段を下り始めた。半分ほど降りたところで、ロビーとバーニーが二人の女の子とおしゃべりしながら「あら、君たち二人、バックシンガーにできそうね…」って言ってた。
「おい、この野郎」って言って、奴が振り向いた瞬間にぶっ放した。バンッ! 目の間を狙ったと思ったら、頬をかすめただけで、それ以上は何もなかった。とにかく、奴はまるでジャガイモ袋みたいに崩れ落ちた。
なんてこった。大混乱だ。サイケデリック・ファーズが逃げ出し、OMDも逃げ出し、スザンヌ・ヴェガがまた泣き出し、二人の女の子は叫びながら逃げ出した。辺りは一面空っぽになった。バーニーだけがそこに立っていた。「あんなことするべきじゃなかった、フッキー。本当に胸くそが悪い」って。「そして、このクソ野郎」って言ったんだ。「もう一言言ったら、次はお前だ!」とおれは言った。そしてゆっくりと振り返り、テリーが執事のようにおれのコートを優しく肩にかけ直してくれた。おれたちは2階に戻った。そこではおれの行為が噂になっていた。おれはその夜の残りを、ロビーに相応しいことをやってくれたと祝福してくれる人たちと握手しながら過ごした。胸が高鳴り、自分が3メートルも伸びたように感じた。コカインですっかりイカれた、小柄なたくましい男になった気分だった。そう、その通り。
そして翌朝
ああ、なんてことをしてしまったんだ!
テリーが早くにおれの部屋に来た。彼は緊張すると肉垂れを引っ張る癖があった。「バーナードがグループミーティングを開きたいそうだ、フッキー」と彼は言いながら、精一杯肉垂れを引っ張りながら言った。「バーナードは機嫌が悪いんだ!」
案の定、バーニーは機嫌が悪かった。美しいサンセット・マーキス・ホテルで、彼は尻を叩かれたような顔で座り込み、「お前のやったことはひどい。本当にひどい。よくもあんなことができたもんだ」と呟いていた。
でも、午前中ずっと電話がかかってきて、ドアの下にメモが挟まれていた。ロビーの件でいい知らせが届き、あのクソ野郎をヤッてくれたことへの感謝の言葉が山ほど届いた。少しは正当性が証明されたような気がしてきたので、ただ座って受け入れるのではなく、「いいか、彼はクソ野郎だ。映画のプレミアで、モリー・リングウォルドの前で、おれの顔にヴォロヴァンを突きつけるなんて。そもそもイエロー・ツーであんなことをしたのはバーニーお前だろ、このクソ野郎」と言った。
「まあ、それでもひどい」と彼は上品ぶって言った。「お前が謝りに行かないならおれはバンドを辞める」
おれは言った。「謝る? 頭をぶち割ってやるわ」
問題は、ロビーがまだ『シェイム・オブ・ザ・ネイション』と『サブカルチャー』をプロデュースしていたから、みんなロビーが必要だと思っていたことだった。ロブ・グレットンがいなくなったことでも、おれたちはリーダー不在となり、アメリカのレコード会社に彼の神経衰弱の件が知られてしまうのではないかと心配していた。だから穏便に済ますため、おれは謝ることに同意し、彼の部屋へ行った。
彼はドアを開けた。少し傷つき、ひどく落ち込んでいた。
「ああ、君か」と彼は言った。
「ああ」とおれは言った。「昨晩のことを謝りに来たんだ」
「わかった」と彼は頷いた。「入って座って」
おれは座った。彼はおれを見た。傷ついた小さな兵士のようだった。「お前のやったことは本当に最低なことだ、フッキー」と彼は言い始めた。
そして、まるで学生時代に戻ったようだった。彼がおれのことを卑劣で最低な人間だと執拗に責め立て、卑怯者呼ばわりし、不意打ちで殴りつけてきた時、新たな怒りが湧き上がってきたのを感じた。
「いいか。レッドカーペットのプレミアで、モリー・リングウォルドの前でおれをぶちのめしただろう?おれに言わせれば、あれは凶器を使った暴行だ」
彼は言った。「あの椅子、お前がやったんだろ。お前が…」
おれは言った。「椅子の件はおれじゃない、このクソ禿げ野郎め。椅子をやったのはバーニーだ!」
彼は激怒していた。「とにかく、お前は最低な奴だと思う。お前のやったことは本当に最低だ」
おれは言った。「そうだな、このクソ野郎」さあ、外へ出て。お前のクソみたいな歯をぶち壊してやる。廊下で、今すぐだ!
だが彼は動かなかった。
おれは怒り狂って、ドアをバタンと閉め、壁を蹴りながら、飛び出した。部屋に戻ると、ミニバーをミニハリケーンのような勢いで叩きつけた。もういいやと決めた。もうバンドにはうんざりだ。これ以上ひどい目に遭うのは嫌だった。帰ることにした。スティーブとジリアンに伝えに行ったら彼らも帰るという。
くそっ。本当にこれ以上ひどい目に遭うなんて?
ああ、なんてこった。
パート1
Movement
「1人の天才と3人のマンチェスター・ユナイテッドサポーター」
1973年、北ウェールズのリルで休暇中にコックニー・レベルの「セバスチャン」を聴いたことが、若きピーター・フックの音楽への情熱に真の火をつけた。フックは新進気鋭のセックス・ピストルズについて読み、すぐにこの「労働者階級のろくでなし」たちに共感を覚えた。当時、彼と学友のバーナード(バーニー)・サムナーはすでに定期的にライブに通っていた。そして案の定、1976年6月4日、ピストルズがマンチェスターのレッサー・フリー・トレード・ホールで演奏した時(チケット50ペンス)、フック、サムナー、そして学友のテリー・メイソンが観客の中にいて、同じく会場にいた大多数の観客(ミック・ハックネル、マーク・E・スミス、モリッシーなど)と同様に、彼らはバンドを結成することを決意した。マンチェスターの伝説的な楽器店メイゼルズを訪れた後、サムナーとフックはそれぞれリードギターとベースギターを手に入れた(メイソンは短期間ボーカルを務めた)。
マンチェスターの成長するパンクシーンで急速に顔見知りになったフックとサムナーは、市内のエレクトリック・サーカスでイアン・カーティスに出会った。「彼のジャケットには『Hate』と書かれていた」とフックは回想する。それで「すぐ気に入ったんだ!」
1976年12月18日のサウンズ誌の記事が、「スティッフ・キトゥンズ」の最初のプレス記事となった。その後まもなく、カーティスがリードシンガーとして加入。グループが「スティッフ・キトゥンズ」(「漫画パンクすぎる」)という名前を捨ててワルシャワに改名する前に、ドラマーのスティーブ・モリスが加入し、1977年8月27日にリバプールのEric'sでバンドとの最初のギグを行い、バンドのラインナップを完成させた。そして1978年1月までに再び名前を変更し、ジョイ・ディヴィジョンとなった。
1978年5月、地元のDJ兼パフォーマーであるロブ・グレットンがグループのマネージャーに就任し、翌月、ジョイ・ディヴィジョンはコンピレーションアルバム『ショート・サーキット - ライヴ・アット・ザ・エレクトリック・サーカス』にフィーチャーされた。比較的短期間で、彼らは街を代表するポストパンクバンドの1つになった。その後すぐに、グラナダ・レポートに出演し、トニー・ウィルソンが「シャドウプレイ」のパフォーマンスを紹介し、世界、少なくともイングランド北西部はカーティスの独特のダンススタイルを知ることになった。その後もリリースを重ね、1979年1月13日には、イアン・カーティスがNMEの表紙を飾った。しかし数日後、この問題を抱えたシンガーはてんかんと診断された。事態は急速に動き始めた。気まぐれなプロデューサー、マーティン・ハネットとレコーディングしたデビューアルバム『アンノウン・プレジャーズ』は6月に大絶賛を浴びてリリースされた。バンドは1979年の残りの期間、ライブやテレビ出演で成功を確実なものにしていった。当時すでに新米パパだったイアンにとって、過酷なスケジュールは大きな負担となり自傷行為にまで発展した。
1980年3月、バンドはハネットとセカンドアルバム『クローサー』のレコーディングのために集結した。しかし、その翌月、当時ベルギー人ジャーナリストのアニック・オノレと恋愛関係にあったイアンは自殺を図った。その後まもなく、夫の不倫にうんざりしたデビー・カーティスは離婚手続きを開始する意向を表明。
そして1980年5月18日、ジョイ・ディヴィジョンは解散した。ニューアルバム『Closer』とシングル「Love Will Tear Us Apart」のレコーディングとリリース準備が整った頃、ボーカルのイアン・カーティスは、バンドが全米ツアーに出発する数日前に自殺した。生き残った3人のメンバー、ベースのピーター・フック、ドラムのスティーブン・モリス、ギターのバーナード・サムナーは再集結し、イアンとジョイ・ディヴィジョンが残した2曲「Ceremony」と「Little Boy」(後に「In a Lonely Place」に改名)から活動を再開することを決めた。その間、3人組によるライブ活動の計画が立てられ、中止となったジョイ・ディヴィジョンの全米ツアーのプロモーター、ルース・ポルスキーがアメリカでの一連の公演をブッキングした。
イアンの死の経緯をここで改めて説明する必要はあるだろうか?
それらはよく記録されているし、ジョイ・ディヴィジョンの本でも既に書いているし、とにかく、すべての本はイアンの死について書かれている。おれたちはとても若かった。おれはまだ24歳で、今振り返ると20代前半。あの出来事に向き合うには、驚くほど若すぎた。おれたちはとても、とても不安だった。どうなるんだろう?イアンがいなくなったら、おれたちはうまくいくんだろうか?彼無しで、おれたちは大丈夫だろうか?おれたちは怖かった。深く話し合うことはなかったし、分析することもなかった。ただ、簡潔な言葉で表面をなぞるだけだった。一緒にいることで力を得て、最終的には、いかにも北イングランドらしいやり方で、イアンとお互いをからかうことになった。悲しみに向き合うことはなかった。周りの誰も、どうしたらいいのか、何を言えばいいのか分からなかった。おそらく、皆にとってあまりにも衝撃的だったからこそ、家族や友人たちはそれを無視して、そのまま続けさせてくれた方がずっと楽だったのだろう。振り返ってみると、おれたちの身近な人たち全員、ファクトリーのトニー・ウィルソンとアラン・エラスマス、ロブとピーター・サヴィルをとても誇りに思っている。彼らは誰一人として、これで終わりだとは言わなかった。彼らはいつも前向きで、まるでこれがおれたちの上昇軌道のちょっとした一時的な停止であるかのように、続けるように励ましてくれた。そのことには感謝している。
バンドとして、おれたちはとても孤立的になった。仲間がおれたちに何か言った記憶はあまりない。トニーとロブには言ったかもしれないが。ボノがその顕著な例だと思う。ファンからは、ショックと悲しみを表す手紙をたくさん受け取った。中には素敵なものもあれば、血で書かれたものもあった。当時、ついに自分の自宅電話を持つことができてとても嬉しくて、(愚かにも、あるいは真のパンクのように)電話帳に自分の名前を載せてしまった。すると、何ヶ月もの間、本当に奇妙な、どもりがちの電話がかかってきた。ついにおれは屈服し、電話番号を変え、名簿から外すしかなかった。
悲しいことに、デビーと彼女の娘ナタリー、そしてイアンの両親との関係もここで終わりを迎えた。おれは恥じ入り、彼らから身を隠すことで対処した。当時のおれの恋人アイリスは彼らと連絡を取り合っていた。おれの関係が再開したのは何年も後、デビーがロブとのビジネス上の問題に介入してほしいとおれに連絡してきた時だった。彼女はロブとのやり取りに非常に苦労しており、おれは喜んで協力した。それ以来、おれたちは良好な関係を保っている。
つまり、これは、長く引き延ばされた悲しみの過程の物語だ。彼の検死審問の数日後、おれとバーニー、スティーブ、マネージャーのロブ・グレットン、そして忠実な助っ人であるテリー・メイソンとトゥイニーは、サルフォードのピンキーズ・ディスコの隣にあるリハーサルルームに集まった。 3人がお茶を入れてマリファナを吸い、自分たちを憐れんでいる間、おれたち3人は唯一できることをやった。ただ演奏し、ジャムセッションをし、また曲作りを始めた。
なぜダメだったのか?だって、おれたちはまだプロのミュージシャンだったし、もう6ヶ月もそうだったんだから。プロのミュージシャンって、ツアーやレコード制作、プロデューサーとのやり取りをしていない時は、リハーサルルームでひらめきが訪れるのを待っているものだから。だから、ピンキーズが床に穴が開いた凍えるような寒さの穴場だったとしても、おれたちはそこと仕事に慰めを見出していた。それに、トニー・ウィルソンとロブが背中を押してくれた。特にロブは狂人みたいで、文字通りおれたちに演奏しろと命令してきた。彼にとってはまるでマントラみたいだった。「書け、さあ、書け!お前らが書く最高の曲は次の曲だ。さあ、さあ、カチカチと音を立てろ!」
彼は、おれたちがミュージシャンらしく振る舞い続ければ、しばらくすればただのミュージシャンに戻ってしまうと確信していた。今にして思えば、もちろん彼の言う通りだったし、結局そうなった。でも当時は「おい、何を言ってるんだ?もうダメだ。もう終わりだ。イアンは自殺したんだ」と思っていた。
でもロブが「指を動かして曲を書け」と言ったら、おれたちは実際にそうする、あるいはそうしようとした。「Ceremony」と「Little Boy」は既にテープに録音されていたので、歌詞を考えるために何度も何度も聴き直さなければならなかった。イアンの声を聴いていると、まるで彼がピンキーズに戻ってきたかのようだった。奇妙だ。
そして、彼がそうではなかったことに気づくことになる。
問題は、ジョイ・ディヴィジョンでは彼がおれたちの耳であり、指揮者であり、避雷針でもあったことだ。ほとんどの曲は、演奏中に彼が良い部分を拾い上げることで出来上がっていた。彼は時々おれたちのジャムセッションを止めて、「あれは最高だった。もう一度演奏して」と言っていた。
もうそうではなかった。おれたちは彼を探したが、彼はそこにいなかった。まるでバカみたいに何時間も演奏していたのに、誰も一言も発しなかった。ロブもテリーもトゥイニーも。おれもバーニーもスティーヴも。おれたちは彼を失い、自信も失っていた。
おれたちは新しい4トラック・テープレコーダーにジャムセッションを録音し始めた。後で聴いて、イアンがやったことを再現しようと。それは、ある意味うまくいった。問題は、誰もボーカルをやりたがらなかったこと。それで結局、壁に「アイデアNo.1」「アイデアNo.2」「ギター1」といったタイトルのインストルメンタル曲が山ほど出来上がった。でも、そもそも誰も歌いながら演奏するなんて無理だったので、ただ演奏するだけだった。ロブは歌詞とタイトルまで考えてくれた。本当にありがとう。
一方、待望のシングル「Love Will Tear Us Apart」がリリースされたが、おれたちはほとんど気にしていなかった。郵便局へ車で向かう途中、ラジオで聴いたのを覚えている。DJがチャート13位に躍り出たと言っていた。おれはラジオを止めて、車の税金を払いに行った。「Closer」がリリースされた時も、全く宣伝せず、レビューも読まなかった。何のためにやるんだ?もう終わったことだ。彼無しで何とかやっていこうと必死だった。我々は別のシンガーを雇うことを話し合った。ファクトリー・レコードのケヴィン・ヒューイックの曲「ヘイスタック」で3人で演奏したことがあったが、ケヴィンをボーカルとして起用する話は頓挫した。
ボノがトニーに協力を申し出たというのは作り話だ。そもそもボノが欲しかったわけではなく、U2が嫌いだったわけでもない(ロブはよく「アイリッシュのクソ野郎」と言っていた)。ただ、既に名声を得ているボーカリストが来て、自分たちの仕事のやり方を変えたくなかっただけだ。おれたちが欲しかったのはシンガーであって、イアンの代わりは欲しくなかった。
解決策はただ一つ。
おれたちのうちの誰かがシンガーになる。それを実現させるためにロブは、僕たちをマーティン・ハネットと一緒にスタジオに入れたらいいんじゃないかと考えた。ハネットがサイモン・コーウェル役を演じて、3人でポストパンクのXファクターみたいなオーディションをする、みたいな。でも、それはひどいアイデアだった。マーティンはイアンを崇拝していた。ファクトリー・ファミリーの中で一番ショックを受けていたのは彼で、スタジオに入ると、いつものようにマリファナとコカインで鬱を治していた。それに、彼が僕やスティーブ、バーニーをかなり低く評価していたのも、事態を悪化させた。彼はジョイ・ディヴィジョンを「天才1人とマンチェスター・ユナイテッドのサポーター3人」って呼んでいたんだ。厳密に言うと、スティーブはマクルズフィールド・タウンFCのサポーターだったから、これは真実ではないけれど、彼が何を言おうとしているのかはよく分かる。マーティンはイアンの天才の代役として僕たちがいかにひどい代物だったかを指摘することに、彼はそれほど抵抗はなかった。
「ああ、お前たちは本当にひどいな」と彼は、プレイバックを聞きながら頭を抱えながら言った。まあ、僕らはちょっと…衝撃的だった。だって、歌に関しては誰も勘違いしてなかったんだから。でも、そんなに下手じゃなかった。マーティンが嘆いていたのは、僕らの存在よりも、イアンの不在の方だったって、かなり早い段階で明らかになったんだ。
スティーヴは控えめに言っても歌うことに興味がなかったけど、それでもオーディションを受けた。おれとバーニーもね。二人とも密かにフロントマンになりたかったんだと思う。でも、マーティンに言わせれば、僕らはみんな下手くそだったらしい。ストロベリー・スタジオで「Ceremony」をレコーディングした時、マーティンは僕たちの3つのボーカルを同時にミックスしてトラックに使うことに決めていた。「これぞクズどものベストだ!」と彼は叫んだ。それから笑い出した。ところが、バーナードは「あと1回だけ」と言い張り、そのせいでおれとスティーブのトラックを全部消し去ってしまった。だからマーティンがついに諦めて手を上げて「出て行け」と言った時には、テープに残っていたのはバーニーのボーカルだけだった。こうして彼はおれたちのシンガーになったわけだ。
でも、おれだって結果的には良かったと認めざるを得ない。バーニーはみるみる上達し、優れたボーカリストになった。それに、彼が歌いながら演奏できなかったおかげで、おれたちはよりユニークなサウンドを生み出すことができた。彼が歌うのをやめてギターをかき鳴らし始めると、曲はいつも盛り上がっていく。まるで、彼のボーカルの不出来、フラストレーション、そして悲しみを、古びて哀れなギブソンのコピーギターにぶつけているかのように。
「1回のギグは10回のリハーサルの価値がある」とロブはよく言っていた。彼はおれたちを再びギグをやらせたくてたまらなかったので、ベルギーのバンド、ザ・ネームズがツアーをキャンセルした時、マンチェスターのビーチ・クラブで行われたファクトリー・レコード・ナイトで、彼は「ザ・ノー・ネームズ」としてやるべきだと言った。彼はそれがとても面白いと思ったのだ。夜になっても、観客も他のバンドもプロモーターも知らなかった。誰も元ジョイ・ディヴィジョンのメンバーだとは知らなかった。おれたちがセッティングして演奏している時の人々の驚きの表情は計り知れず、ア・サーテン・レイシオも驚いていた。覚えているのは、恐怖に震えながらセッティングして演奏し、おれが頼りになるテープレコーダーを操作してキーボードのパートをバックトラックに録り、スティーヴが3曲、バーナードとおれが2曲ずつ計7曲を歌ったことだけ…
そして、気を抜かないこと。これが一番重要だった。気を抜かないこと。
それで終わり。3人組として、初めてのライブを終えた。ロブはもっと何かが必要だと考え、アメリカにいるルース・ポルスキーに連絡を取ろうと提案した。「ジョイ・ディヴィジョンとして行くって約束したんだ。あのクソ野郎は自殺したけど、おれたちは行くって約束したんだ。だから、絶対に行く」
彼の考えは、マンチェスターで、いやイギリスのどこかで演奏するプレッシャーを少しでも軽減して、おれたちを少しリラックスさせることだった。機材に関してロブは、おれたちが元々少し不安定だったから、自分の機材を持っていないとさらに不安定になるだけだと考え、機材を全部アメリカまで飛行機で運ぶことにした。おれたちが一番得意とする機材で安心感を得て、まさに思い通りの音を出すために。そういうプランだった。リードシンガーと自信を失ったが、少なくとも素晴らしい機材はあった。だったら、それを持っていくのがいいだろう?
何が問題になるっていうんだ?
「ここはニューヨーク」
ピンキーズの練習室の近くに、ドーバー・キャッスルという小さな、本当に小さなパブがありった。ある夕食時に、ロブはその週のサンデー・タイムズから得たバンド名のアイデアをたくさん見せてくれた。
「さっさと終わらせよう」と彼は言った。
おれたちがまだ20代前半で、おれが2000ADやスヴェン・ハッセルの本を読んでいたことを考えると、彼がサンデー・タイムズを読んでいるのはかなり過激に見えた。とても大人びていた。
「そうだな」と彼は言った。「クメール・ルージュ?」
いや、テロリストっぽ過ぎる。
「The Shining Path?」
それもテロリストっぽ過ぎる。それにLPのタイトルみたいだ。おれとバーニーはそれが嫌だった。
「それって全部テロリストの名前なのか?」
「いや、そうでもない」とロブは続けた。「マウマウ、ジ・イモータルズ、フィフス・コラム、シアター・オブ・クルエルティ、イヤー・ゼロ、アラブ・レギオン…ああ、もしかしたらそうかもしれないな?」
たくさんあったけど、どれも気に入らなかった。
「さぁ、どれか1つ選ぶんだ!」とロブは言った。「今すぐだ!」いつものように、彼は要求というより脅迫のように言った。
ロブとスティーブは「ジンバブエのウィッチ・ドクターズ」に決めた。おれとバーナードは「ニュー・オーダー」を希望した。当初、ニュー・オーダーは「ザ・ニュー・オーダー・オブ・カンプチアン・レベルズ」だったが、余った「ザ」をマット・ジョンソンに譲り、カンプチアン・レベルズの部分は切り捨てた。しばらくの間、緊迫した対立があった。ロブとスティーブはニュー・オーダーなんてクソみたいな名前だと言い、おれとバーニーは「ザ・ウィッチ・ドクターズ・オブ・ジンバブエ」になったらバンドを脱退すると脅した。
我々は望みを叶え、すべて解決し、ロブは新しいバンド名をルースに伝えた。そして、正直に言って、我々はヒトラー氏とその忌々しい『我が闘争』について考えたことは一度も無かった。本当に!おれたちがいかに愚かだったかが分かるだろう。ただ、それがおれたちの新しいスタートを完璧に表していると思っただけだった。
それから、シェフィールドにあるウェスタン・ワークスというキャバレー・ヴォルテールのスタジオに行った。そこで彼らとレコーディングと作曲を行い、ロブがボーカルを務めた曲もいくつか作った。リバプールとブラックプールでもギグを行い、作曲とリハーサルを続けた。ニューヨークへ出発する頃には、「Ceremony」と「In a Lonely Place」に加えて、「Dreams Never End」、「Procession」、「Mesh」、「Homage」が完成していた。また「Truth」は、後におれたちの重要な武器となるドラムマシンを初めて使用した曲だった。
ギークアラート BOSS Dr. Rhythm DR-55
1980年にローランドから発売されたドクターリズムは、キック、スネア、ハイハットの3つのドラムサウンドに加え、アクセントサウンドと限られた数のプログラム可能なパターンを提供していました。アクティブトーン生成回路を使用したそのサウンドは、アナログで、鮮明でパンチの効いたものでした。バランスノブでキック、スネア、ハイハットのレベルを調整し、別のアクセントノブでアクセントステップの強調の度合いをコントロールしました。また、ボタンを交互に押すことで音符と休符を入力できるシンプルなステッププログラマーと、「タップライト」プログラミングモードを備えていましたが、タイムキーピング用のメトロノームクリックはありませんでした。メイン出力はモノラルでした。また、パターン内のアクセントステップごとにパルスを発する独立したトリガー機能もありました。パターンはバンクに分かれており、AとBはプログラム可能、CとDはプリセットです。各パターンは12ステップまたは16ステップ、3/4拍子または4/4拍子に切り替えることができ、最大128小節の2曲をプログラムできました。
スティーブが購入し、プログラムしたボス・ドクター・リズムは、新時代の先駆けとなった。彼とバーニーはジョイ・ディヴィジョンでエレクトロニカに傾倒しており、バーニーはトランセンデント2000シンセサイザー(Electronics Today誌に自作キットの形で配布)をゼロから製作し、スティーブはSynare Iドラムシンセサイザーを使用していた。彼らのエレクトロニックへの熱意はますます高まっていった。このドラムマシンは「Procession」のライブでもバックトラックとして使用され、スティーブは歌とキーボード演奏を行うことができた。
それは最悪な始まりだった。ニューヨークに着陸すると、ブリティッシュ・エアウェイズがおれたちの荷物を紛失していた。国旗を掲げて荷物を紛失するなんて、どういうことだろう?この旅にはおれ、スティーブ、バーニー、ロブ、テリー、トゥイニー、デイブ・ピルスの7人が参加していたが、4つの荷物が紛失した。犬の糞の桶に落ちてもバラの香りを漂わせるバーニーは動じることなく、いつものように同情的な態度でそこに立ち、「よし、荷物は届いた。じゃあ降りようか」と言った。おれを含め、荷物を紛失したおれたちは、書類が全部記入されるのを待たなければならなかった。
ニューヨークは素晴らしく、期待通りだったが地獄のように暑かった。マンチェスターからブーツと厚手のコートを着て到着し、ブリティッシュ・エアウェイズが着替えの入った荷物を紛失していたから大惨事だった。そのバッグは5日間も見つからなかった。その頃にはおれがどれほど臭くなっていたか、あなたは知りたくないだろう。それでも、我々はニューヨークにいた。ついに到着したのだ。マンハッタンを巡っていると、CBGBやマックス・カンザスシティなどイアンがきっと気に入ったであろう場所を目にするたび寂しく感じた。それでもニューヨークにいるのは素晴らしかった。特にホテルに着いて、そこが西44丁目にある悪名高いロックンロール・クラブ、イロコイだった時は特にそうだった。西23丁目のチェルシーに次ぐ人気店だった。
なぜかって?すごくいかがわしい場所だったから。
その時、ザ・クラッシュもそこに滞在していて、彼らはまさに絶頂期だった。ロンドン・コーリングとサンディニスタの間だった。ポール・シムノンはおれのベーシストとしてのヒーローの1人だったにもかかわらず、両者の間には瞬く間に憎悪が生まれた。彼らがコックニーでおれたちがマンチェスター出身だったからなのか、それとも彼らが自分たちを差別していたからなのか。とても真剣に、そしてめちゃくちゃだった、よく分からないけど、最初から激しいライバル関係があった。毎日午後5時にホテルはバーで無料のオードブル(おれたちは「ホース・ドゥーブル」と呼んでいた)を提供してくれた。そして毎日午後5時になると、ニュー・オーダーとクラッシュがそれを待ち構えていて、それを奪い合い、当時はエキゾチックに思えたチキンウィングとポテトスキンをバーテンダーがまだ置く前に奪い取っていた。おれたちが「くたばれ、コックニー野郎ども」と言うと、やつらは「ああ、くたばれ、マンチェスターのクソ野郎」って言うんだ。ニュー・オーダーが金欠なのは知ってた。おれたちは1日3ドルしか稼げなかった。でもクラッシュがおれたちと同じくらい飢えていたとは驚いた。(ちなみに、ロブの本には、彼が旅費として1日700ドルを支給したと書いているが、おれたちが実際に受け取った金額は1度もなかった。)
「日当」とは、古くからあるロックンロールの魅力的な慣習で、バンドメンバーやクルーのメンバーには給料に加えて、日々の生活費として現金が支給されます。実質的にはボーナスのようなもので、このお金はたいていドラッグに使われ、妻にも税務署にも申告されません。記録には領収書が添付されるはずでしたが、1985年にニュー・オーダーが英国歳入関税庁(HMRC)の調査を受けた際、ロブが領収書を参照したところ、ほとんどにM・マウスやW・チャーチルなどの署名が付いていたため、バンドは会計処理の不備で罰金を科されました(クルーは免責されましたが)。現在では、この慣習はPIID個人所得税申告書に個人所得として記載する必要があります。
ある時、バーニーとおれはホテルのエレベーターでジョー・ストラマーと一緒になった。ストラマーは黒いコートの肩にフケをびっしり乗せ、アメリカ人の女の子にぎゅっとしがみついていた。おれたちが自分の階に降りると、バーニーは振り返って微笑みながら「外は雪かい?」と尋ねた。
ドアが閉まると、ストラマーは「Fack off!」と怒鳴った。
一方、ロブはマネージャーのバーニー・ローズを見るたびに、バーの向こう側に向かって「コックニー野郎」と罵倒した。
その軋轢は理解できる。僕らはそれほど愛想良くはなかった。
とにかく、クラッシュと敵対関係になったことで、機材を積んだU-Haulのバンと、僕らミュージシャンが移動するためのシューティングブレークという車を借りることになった。水色のビュイックの8人乗りで、後部座席はリアガンナー風だった。ジョイ・ディヴィジョンの本を読んだことがあるなら、スティーブの運転がどれだけ下手だったかご存知だろう。バーニーは前の週に免許を取ったばかりで、全く自信がなかった。それでおれが運転することになったんだ。困ったことに、おれは免許証を忘れていたので、バーニーにレンタカーを借りてもらい、レンタカー会社を出たらすぐに席を交換して、残りの旅程はおれが運転するという計画を立てた。バーニーはただレンタカー会社を出て行くだけでよかった。たったそれだけ。9メートルほどのドライブだ。くそっ、ゾッとするほど怖かった。オートマ車で、彼は運転したことがなかったので、おれは彼の隣に座ってこう言った。「落ち着け、落ち着け。道に出たらすぐにおれが運転するから。さあ、ブレーキから足を離せ、アクセルを軽く踏め…」
「あああああああ!」車が交通量の多い通りに向かって激しくカンガルーのように急旋回を始めると、6人のマンチェスター人が恐怖の叫び声を上げた。バーニーはブレーキとアクセルを交互に踏み込んだ。出口に向かう間、彼はハンドルを握りしめ、顔と指の関節は恐怖で真っ白になっていた。
「バーナード、ブレーキを!」とおれは言った。「ブレーキだ、相棒。頼むから、ブレーキを!」
そして彼は間一髪でブレーキをかけた。バーニーが急ブレーキをかけ、車にぶつからずに済んだ時、6人のマンチェスター人は安堵のため息をついた。それからおれたちはマンハッタンをドライブしながら「やあ、みんな、おれたちはバンドやってるんだぜ!」などと窓から叫びながら楽しく走り始めた。その時、バーニーが道路脇のゴミ箱にスキー板を見つけ、それを拾うために車を停めた。「これは最高だ!」と彼は言ったが、実際はそうではなかった。ひどく古くて、塗装が剥がれかけたベニヤ板で、だいぶ黒くなっていた。一方、2台目の車はU-Haulのバンだった。運転していたのはテリー。彼の運転は上手だったが、神経質で、ニューヨークの交通量の多い道路ではなおさらだった。ニュージャージー州マックスウェルズでの初ライブでは、彼とトゥイニー、そしてデイブ・ピルスの3人が空港で機材をピックアップし、ホテルに持ち帰って、翌日のライブに持っていかなければならなかった。
翌日、おれたちは皆興奮して出発し、数時間後には仲間たちもおれたちも後を追った。しかし、マックスウェルズに着いた時、バンもテリーもトゥイニーもデイブも見当たらなかった。しばらくして彼らは車を走らせてきた。顔は真っ青で、悲鳴を上げていた。テリーは途中でバンを2度も事故に遭わせていた。バスとニュージャージーのトンネルの脇にぶつかったのだ。しかもパンクまでして。それでも、誰も死んでいなかったので、おれたちは変圧器を含む機材の荷降ろしを始めた。変圧器はイギリスとアメリカでの電圧差に対応するために必要な機器だった。テリーはこの機材をロブの指示で借りたのだが、2人とも電圧を上げる方法は全く知らなかった。大きな変圧器があれば間違いないだろうという前提で、ロブはテリーにできるだけ大きなものを借りるように言った(これは後にロブの習慣になった)。テリーは実際にピンク・フロイドの変圧器を借りてきた。彼らは当時スタジアムで演奏していたのだ。重さは1トン、いや2トンもあった。250キロワットの変圧器だ。それは巨大だった。どうやってバンに積み込んだのか神のみぞ知るだ。6人で持ち上げたんだろう。マックスウェルズで電源を入れると、マンハッタンの照明が暗くなったのが印象的だった。
3人組になってのギグはまだ4回目だったが素晴らしいギグになった。少し元気を取り戻したような気がした。3人でボーカルを分担することで、もしかしたら成功できるかもしれないと思い始めた。ホテルに戻るとバンドメンバーは皆、最高潮だったが、テリー、トゥイニー、デイブ・ピルスは会場までの悪夢のような旅を、スリル満点のドライブで締めくくっていた。おれたちより何時間も遅れてようやくホテルに到着し、44番街のすぐ外に駐車した彼らは、あまりにも疲れ果てていて、ベッドに潜り込むことしかできなかった。
翌朝、駐車違反切符を切られないようにバンを移動させるようテリーに頼んだ。彼は重い足取りでバンを移動させようとしたが、数分後、ひどく気まずそうに帰ってきた。
「あの・・・」と彼は肉垂れを引っ張りながら言った。「バンがどこかに行ってしまったんだ」
「何だって!?」
「バンが見当たらないんだ!」
「バンが見当たらない?」とおれは尋ねた。「一体全体、どうしてバンが見当たらないんだ?」
素晴らしい。
それでも、バンは交通違反でレッカー移動されたと結論付け、その日の残りをマンハッタン中探し回った。何度目かの警察に「楽器、重たい変圧器、古い木製スキー板が詰まったバンは見ていない」と言われ、ついにバンと機材が全部盗まれたという事実を突きつけられた。
ちくしょう!
それで、ロブとおれは急いで地元警察に向かった。おれは係員のところへ真っ直ぐに進み出て、ヒュー・グラントを真似て「失礼、お兄ちゃん、どうやら荷物が盗まれたみたいなんだよ」と言った。しかし、APB(緊急命令)を出すどころか、彼はニューヨーク訛りのひどい口調で「あっちに座れ!」と言い、ベンチを指差した。おれは愕然とした。「おいおい、君は何も分かっていないようだな。おれはイギリス人だぞ、イギリス大使館に電話するぞ!」おれが言い終わる前に、彼は同じことを繰り返した。今度はずっと大きな声で「とっととあっちに座るんだ!」
おれとロブは言われた通りにした。その後、彼はおれたちに紙切れを渡し、記入するように言った。できる限りのことを記入して警官に返したが、警官は顔を上げもしなかった。そして、おれたちが立ち去ろうとした時、警官が「おい!」と言った。おれたちは笑顔で振り返り、結局は彼が助けてくれるだろうという期待に胸を膨らませた。やったー!ロブとおれは互いに顔を見合わせ、それから警官の方を見た。「ニューヨークへようこそ!」彼はニヤリと笑うと、また下を向いた。
外に出て、正義感に燃えるおれたちは大使館に電話し、大使と話したいと頼んだ。きっと助けてくれるだろう? だっておれたちは納税者なんだから。受付に事情を説明すると、彼女はただ警察に行くように言っただけで、電話を切られた。
最悪だ!
次に保険会社に電話することを思いつき、ロブがホテルの電話口で電話を取った。冗談ではなく、こんなやり取りだった。
「もしもし、そうだ、ロブ・グレットンだ。ニュー・オーダーだ。保険に加入している。番号は○○だ。そうだ、そうだ…」
みな顔を見合わせた。相手は詳細を調べに行ったに違いない。ロブは親指を立てた。「心配するな、みんな。すべて解決できる」。男が電話に戻ってきた。
「ああ」とロブが言った。「保険に入っているんだな。よかった。機材が全部盗まれたんだ。まあ、補償されるんだな?」少し間を置く。「ああ、よかった」と再び親指を立て、少し間を置く。「バンには盗難警報が付いていたか?いいえ、付いてない。もしもし…もしもし?電話を切られた」
信じられない思いで口がぽかんと開いた。1万ポンド相当の機材が盗まれ、もう2度と戻ってこないかもしれない。
だが今さら悔やんでも仕方ないので、とにかくやってみた。当時ニューヨークでA Certain Ratioのセカンドアルバムをレコーディングしていたトニー・ウィルソンは、「なんて詩的なんだ、ダーリン。完璧な結末だ!」と言ってくれた。
おれたちは声も出ず、怒りが込み上げてきた。
次のステップはルースに伝えることだった。おれたちはダンステリアにある彼女のオフィスへ移動し、機材を借りるために電話をかけた。その間、ロブはおれとバーニーに新しい機材の購入をクレジットカードで支払わせることで埋め合わせした。48番街にある巨大なアラジンの洞窟のような楽器店、マニーズへ行った。そこでバーニーは、素敵なヤマハのギターコンボと、ヘッドストックの裏に「セカンド」と刻印されたギブソン335を手に入れた(誰もその理由が分からなかったが、550ドルなら安かったので黙っていた)。おれはヤマハBB800を431ドルで手に入れたが、シャーゴールドの6弦ベースの代替品を見つけるのに苦労した。アメリカには同等のものがなかったんだ。そして、どんなに探しても、レンタルできるのはフェンダー版しか見つからず、マンハッタンのダウンタウンまで取りに行くしかなかった。状況は一向に好転せず、血と汗と涙の日々だった。バーニーとスティーブは部屋で、全ての曲をもう一度覚え直し、書き直さなければならなかったのだ。
ギークアラート フェンダー バリトンベースギター
フェンダー社製の6弦エレクトリックベースギター。1961年に発売され、それ以前のフェンダープレシジョンベースとは、6弦の軽いゲージ、短いスケール、機械式ビブラートアームを備えている点で異なっていました。当時のほとんどのフェンダーと同様に、指板半径は74インチでした。オリジナルのBass VIには、ストラトキャスターのシングルスタイルコイルピックアップが3つ搭載されていました。コントロールは、一般的な3ポジションスイッチではなく、3つのオン/オフスライダースイッチパネルで操作します。フェンダーバリトンベースギターは通常のギターの4度低いBEADFBにチューニングされていますが、シャーゴールドの6弦ベースギターはコンサートピッチのEADGBEにチューニングされています。
レンタル担当者はおれに警告していた。「これはバリトンですからね」と彼は何度も念を押した。
「気にしないよ。おれは歌っているわけじゃないんだ、ただ弾いているだけだ!」
ホテルに戻ってEADGBEにチューニングしたが、弦を締めすぎたせいで、1本ずつ切れてしまい、ネックがバナナのように曲がってしまった。片目を失わなかったのは幸運だった。全く役に立たなかった。おかげで、おれはパニックに陥り、スティーブが隣でスネア代わりの電話帳を叩きながら、6弦ベースの曲を全部4弦ベースで覚え直さなければならなかった。だが窮地に立たされたからこそ、特別な仲間意識が生まれるのは確かだ。
とにかく、残りのギグはなんとかこなすことができた。機材のほとんどを盗まれたことで1つ言えることがあるとすれば、それは、それを管理する責任から解放されたことだろう。おかげで、そうでなければできなかったほど思いっきりパーティーをすることができた。
そして、ニューヨークに戻ると、警察からバンを見つけたという知らせが届いた。
「ブルックリン・エクスプレスウェイの真ん中だった」と言われた。
犯人たちは、ドアが開いたままエンジンがかかったまま、中央分離帯にバンを捨てていた。
「まだ何か入ってる?」と尋ねる勇気がほとんどなかった。
警官は自信満々に頷いた。「ああ、何か入ってたよ。保管所に行けば取り戻せる」
おれたちは警察署の中で文字通り踊り狂い、喜びに浸りながら歌っていた。「中身は奥にある、中身は奥にある」と。楽観的な気持ちで保管所に向かうと、市職員がずっと行方不明だったバンまで案内し、新しい南京錠を外して、後部ドアを華麗に開けてくれた。
「ほら、ほら」と彼は言った。「荷物はここにある。」
後部には巨大な変圧器と、あのクソスキー板があった。
「素晴らしい!」バーニーはそう言った。彼は大喜びでバンに乗り込み、嬉しそうにスキー板を回収した。残りのおれたちは信じられないといった様子で口を開けて顔を見合わせていた。
変圧器は銅がたっぷり含まれていたので、スクラップとして売れば大金になっただろうが、バンから持ち上げることができなかったのだ。
それでも、初めてのツアーとしては最高だった。なんという冒険だったことか。マンハッタンの素晴らしいクラブを片っ端から回ったことは言ったっけ?「このクラブ、なんてシンプルなんだ。黒く塗られて、片隅にPAがあるだけだ」なんてロブは言っていた。素晴らしい!(そうしてハシエンダのアイデアが生まれた。)
最後の夜、おれたちの仲間の1人が売春婦にフェラチオをしてもらいたい一心で、ホテル近くの路地裏で15ドルという格安料金でいやらしい行為をした。ロブはこれに大興奮し、売春婦を連れ戻させ、おれたち全員にフェラチオをさせた。「おれが全員の分も払うぞ!」
それはワイルドで目を見張るような時間で、一瞬一瞬が楽しかった。最後に空港に向かうタクシーの中で、41番街の橋を渡っている時、肩越しにマンハッタン全体が巨大なクリスマスツリーのように美しくライトアップされているのが見えた。疲れ果てて目を開けていられないほどでだったので、それはまるで素晴らしい幻覚のようだった。他のみんなを起こそうとしたが、誰も起きようとしなかった。それからおれも眠り込んでしまい、空港に着いた時にタクシーの運転手に揺り起こされた。よろめきながら飛行機に乗り込み、すぐにまた寝てしまった。
帰りの飛行機はみんなずっと寝ていて、マンチェスターに着陸した時にだけ目が覚めた。それほど疲れていたんだ。家に帰ってアイリスが「それで、ニューヨークはどうだった?」と聞いてきたのを覚えている。僕は「穏やかだったよ。ほら…」と言って、ベッドに倒れ込んだのを覚えている。
あのツアーは浮き沈みが激しかったから、イアンが死んだ時の悲しみを吹き飛ばしてくれた。おれたちが真の意味で本物のバンドだったのは、あれが初めてで、今振り返ってみると、数少ない時の1つだった。ディーバみたいな癇癪もなかったし、ボーカルを分担していたから「序列」みたいなくだらないこともなかった。ツアーの浮き沈みが僕らを1つにしてくれた。より結束が固まった。あのツアーがなかったら、おれたちは続けられなかったかもしれない。
ところで、あのスキー板は戻ってこなかった。おれとトゥイニーがそれをゴミ箱に捨てたから。それをバーニーは決して許さなかった。
「おれたちはロックバンドなんだ。ギターとドラムだけでいこうぜ」
マーティン・ハネットはニュー・オーダーと同時にアメリカに滞在しており、トニー・ウィルソンに連れられてニュージャージー州のイースタン・アーティスト・レコーディング・スタジオ(EARS)でア・サーテン・レイシオのアルバム『To Each』をレコーディングした。ニュー・オーダーはまた、1981年3月に最初にリリースされ、後にジリアン・ギルバートと再レコーディングされ、同年9月に再リリースされたファースト・シングル『Ceremony』の制作もそこで完了させた。その間に、ニューヨークで盗まれた機材を補充する仕事もあった…
NYツアー後、リハーサルルームに戻ると、文字通り何も無かった。小さなアンプ2台、バーニーのギター、おれのベース、そしてスネアドラム、それだけだった。まるでおれたちを嫌っている誰かがそこにいるかのようだった…。まるでイアンがおれたちの機材に囲まれて天国で笑い飛ばしているかのようだった。
でも、可笑しなことに、ここからが面白くなってくる。ア・サーテン・レイシオから機材を借りることはできたものの、まだ他にも自分たちの機材が必要だったので、トニーに頭を下げてお金を出してもらいに行った。その結果、バーニーとスティーブは新しい機材に関しては少し野心的になった。ミスター・ロックンロールは「何をしているんだ?おれたちはロックバンドなんだから、ギターとドラムだけで行こう」と囁いていたが、スティーブは新しいパールのシンセサイザーキットを、バーニーはより大きなシンセサイザーとシーケンサーに目を付けた。ジョイ・ディヴィジョンのサウンドからニュー・オーダーのサウンドへの真の移行が始まろうとしていたんだ。
そして、おれたちが最終的に「シンセサイザーを増やす」ことになったもう1つの理由もあるが、それについては後で説明しよう。
他にここでの大きな出来事の1つは、バーニーがボーカルになったことだった。記憶を遡っても、どうやってそうなったのか思い出せない。当初、ボーカルは3人分担だったのに、すぐに彼だけになったような気がする。NYツアーで、ロブはおれたち全員が新しいことをすることでバンドは変化しているものの、決して良くなっているわけではないことに気づいたんだと思う。サウンドが変わりすぎて、自分たちの居心地のいい領域から外れてしまっていた。ロブにしてみれば、それは難しいことではなかった。リズムセクションはそのままに、バーニーに歌わせて、ギターとキーボードは別のメンバーを入れるだけ。シンプルなことだ。作曲の力学は変わらず、まず音楽、次にボーカル。
ロブがジリアン・ギルバートを推薦したのは、第一に彼女が以前一緒に演奏したことがあり(バーニーがリバプールのエリックで手を怪我した時)、それにザ・インデクエイツというバンドに在籍してたから。第二に、彼女はスティーヴのガールフレンドだったので、既に仲間内では有名だったから。第三に、経験が浅く、おれたちのスタイルやサウンドを変えることはないだろうから。そして内心では、彼が彼女に好意を抱いていると思っていた。
バーニーとおれに関しては、特に反対した覚えはない。ジリアンは物静かで、あまり口出しはしないから、無視するのは簡単だった。彼女がバンドに入ってきて、演奏の指示をしたり、音楽スタイルを変えようとしたりしないのは分かっていた。それは重要な点だった。ロブと、椅子もないオフィスの床に座って、彼女を試してみて、出版のことは後で考えよう、と話したことを覚えている。私はうなずきながら、心の中で「出版って何だ?」と思った。(そして、その無知さのせいで何百万ドルも損した。)
作曲された楽曲の報酬は通常2つに分かれている。作家への報酬は1つ、つまり「アーティストへの報酬」だ。出版料(通常はラジオや映画、広告/映画のサウンドトラックでの使用で実現され、現在でも非常に儲かる)と、それを録音した演奏者のための演奏料(通常はレコード販売、ダウンロード、ストリーミングなどで実現されるが、インターネットの普及により許可や購入なしに音楽を共有することが非常に容易になったため、今日ではあまり儲からない)である。
曲が作られると、誰が何を書いたかに応じて、作詞家と演奏者の間で分配する割合が合意されなければならない。ニュー・オーダーのような民主主義社会では、すべてが4分の1ずつに分けられ、それぞれ25%で、演奏料も同じだった。これは『Republic』まで続いたが、バーニーはもっと欲しいと思ったが、正直に言うと、彼はそれに値すると思った。彼は2つの仕事を掛け持ちしていたのだ。
「ストーカー被害」
初期の頃は、プロモーターにどれだけニュー・オーダーだと主張しても、彼らはおれたちをジョイ・ディヴィジョン、元ジョイ・ディヴィジョン、あるいは「かつてジョイ・ディヴィジョンだった」と宣伝した。振り返ってみると、観客には同情せざるを得なかった。ジョイ・ディヴィジョンを応援していたのに、ニュー・オーダーは新曲をテストするためのモルモットとして自分たちを使っていると知ったかわいそうな人たちだ。
その後は、スパイナル・タップの「ジャズ・オデッセイ」の日々が続き、観客は困惑した様子で顔を見合わせ、「これは何だ?」と考えたり、ジョイ・ディヴィジョンの曲名を叫んだり、おれたちにグラスを投げつけて不快感を示したりした。
だが彼らを責めることはできなかった。まだレコーディングしていなかったので、彼らは曲を知らなかった。それに、当時のおれたちはライブでは少し厄介者だった。隠れるための看板がいないと、無防備な気持ちになったんだ。問題は、ジョイ・ディヴィジョンには完璧なバランスがあり、4人それぞれが素晴らしい仕事をしていたのに対し、ニュー・オーダーには弱点があったということだ。ジリアンは演奏があまり上手くなかったし、バーニーはまだフロントマンとしての役割にうまく適応できていなかった。緊張のせいか、それとも生粋のプリマドンナ気質が開花し始めたばかりなのかは分からないが、彼はイライラすると物に当たって壊したり、たいていはペルノを飲み、薬漬けの日々を送っていた。ジョイ・ディヴィジョンにおける彼のペルソナはすっかり変わってしまった。クールで寡黙でよそよそしい。ショックだった。だから、おれたちは少し不安定な気分になり、ライブは良いものもあったが、ほとんどが酷いものだった。当たり外れがあるというおれたちの評判は当然のものになりつつあった。
会場では喧嘩や小さな暴動が何度も起った。特に、20分から23分という非常に短いセットしか演奏しないことが明らかになった時はなおさらだった。彼らは曲を気に入らなかったのに、もっと演奏して欲しがったのだ。皮肉でしょう?
最初は悪夢だった。しかし、いつものように頑張り続けた。おれたちについて言えることの1つは、キャリアを通して、おれたちは非常に頑固で、意固地だったということ。おれたちは心から音楽を信じていた。音楽は常に勝利すると信じていた。その他のことは何も問題じゃなかった。当初はジョイ・ディヴィジョンと同じように活動するつもりだった。シングルはアルバムに収録せず、ジャケットにはメンバー写真は掲載せず、グッズも出さなかった。メディアに対しては、曖昧で予測不可能で、扱いにくい存在になるだろう… おれたちはまだ若く理想主義的だったので、自分たちの信念を貫き通すつもりだった。新しいグループとして自分たちを証明したかったのだ。唯一の問題は、ニュー・オーダーの曲をまだレコーディングしていなかったことだった。
しかし驚くべきことに、ロブは私たちに報酬を与えてくれることに決めた。彼はおれに電話をかけてきて、「お前に必要なのは新しい車だ」と言ったのだ。
「何だって?」とおれは言った。
新しい車だ、バカ野郎。新しい車を買ってやるぞ!
おれたちの予算はそれぞれ5,000ポンドだったが、私とバーニーはすぐにそれを使い果たし、2人とも5,012ポンドを使った。信じられないことだった。世界はおれたちの思いのままだった。おれたちはすぐに集まり、どの車を買うかを議論した。すごく興奮し、家の金の問題を忘れてしまった。おれとバーニーは、いつものように実用的なスポーツカーの名前を次々と挙げた。最後におれたちはスティーブに尋ねた。「スティーブはどんな車を買うんだ?」
「ボルボだよ」と彼は言った。「退屈だけど頼りになる、おれみたいな車」
おれは黒のアルファロメオ・スプリント・ヴェローチェを選んだ。美しい車だった。唯一の問題は保険だった。どういうわけか、ミュージシャンは保険に関してはハンセン病患者のように扱われ、今でもそうだ。それは昔から変わっていない。いつもおれたちは300%の荷物を積んでいる。サルフォード・バン・ハイヤーにバンを借りに行くと、机の上に大きな文字で「行商人お断り。ジプシーお断り。ミュージシャンお断り」と書いてあるのがいつも面白くて仕方なかった。高リスクドライバーと若いドライバーを専門とするクローバーリーフ保険からの最初の見積もりは、5,000ポンドの包括保険で、車の購入価格より12ポンドも安かった。ディーンズゲートのバウアー・ミレットで車を受け取ったときのことを覚えている。おれは我を忘れていた。セールスマンがおれを道路に連れて行った。「こちらが、あなたの車です」と彼は言った。「なんて美しい車なんだ!」
でも、2台あったんだ。同じモデル、内装まで同じ。
おれは困惑した。すると、角を曲がって来たのは、なんとバーニーだった。
「こんにちは」と彼は微笑みながら言った。「お前と同じ車を買ったんだ」。本当にそうだった。おれのナンバーはNBU 140Wで、彼はNBU 141Wだった。おれにはストーカーがいたのだ。
年表1 1980年 4月~12月
1980年4月
ジョイ・ディヴィジョン:『Love Will Tear Us Apart』(ファクトリー・レコード FAC 23)
7インチ・トラックリスト:
『Love Will Tear Us Apart』3.25
『These Days』3.25
ランアウト・グルーヴ1:幻滅させないで
ランアウト・グルーヴ2:残されたのはレコード店だけ
「ランアウト・グルーヴ・メッセージは、歌詞の一部だったり、ちょっとしたパズルでリスナーを魅了する方法だった。ロンドンにあるマスタリング工場、ポーキー・プライム・カッツでインスピレーションを得た。カッティング・エンジニアのポーキー(ジョージ・ペッカム)は、自分がマスタリングしたレコードのランアウト・グルーヴにささやかなメッセージを刻み込むことで有名だった」
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオと、オールダムのペニー・サウンド・スタジオで録音。
エンジニア:クリス・ネーグル、ジョン・ニーダム
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル
1980年5月18日
ジョイ・ディヴィジョンがアメリカへ出発する前日、イアン・カーティスが自殺した
1980年5月23日
イアン・カーティスが火葬された。ファクトリー・レコードはパラタイン・ロードで通夜を執り行い、セックス・ピストルズの映画『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』を上映した
「本当に悲惨な出来事だった。葬儀の後に立ち寄ったらみんなマリファナを吸っていたので、おれは帰った」
1980年6月13日(金曜日)
イアンの死因審問はマックルズフィールドで行われた
「デビーの父親が『彼は別の飛行機に乗っているんだ!』と言ったのを覚えている。おれは、彼が乗るべきだった飛行機は分かっていると思った」
1980年6月16日(月曜日)
バンドはピンキーズに集合した
1980年6月19、20日
「The JDs」(ピーター・フック、スティーブン・モリス、バーナード・サムナー)は、プレストウィッチのグレイブヤード・スタジオで、スチュワート・ピカリングがエンジニアリングを担当し、ケヴィン・ヒューイックとレコーディングを行った。録音された2曲のうち、「Haystack」はその年の後半にコンピレーション・アルバム『A Factory Quartet』でリリースされ(ライブバージョン)、「A Piece of Fate」は1993年にヒューイックによって「No Miracle」にリワークされた。
「素晴らしいセッションだった。バーニーを含め、皆とても協力的で熱心だった。ケヴィンはとても興奮していた。素敵な少年だった。スチュワート・ピカリングと彼の素敵な家族は現在、チェシャーで「ヤード」というデリを経営している。そこでおれは安く肉を仕入れている。最高だ。」
1980年6月20日
ジョイ・ディヴィジョン:「コマキノ」
無料プレゼント
(FAC 28)
7インチ・フレキシディスク トラックリスト:
『Komakino』 3.40
『インキュベーション』 2.50
『As You Said』 1.55
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
初回プレス:25,000枚、無地の白いスリーブ入り(2回目のプレス25,000枚、1980年11月18日)
「素晴らしい曲ばかりで、未発表のまま残されるのは非常に残念だった。『As You Said』は主にマーティンの作品で、『Closer』の制作中にARPシーケンサーで作ったループとドラムを編集して1曲に仕上げた。タイミングのズレははっきりと聞こえるが、今日でも非常に現代的なサウンドだ。この時期のおれたちは利他的だった。レコード店は、LPを買ったファン全員にフレキシディスクを渡すように指示されてた。ちゃんとそうする店もあれば、そうしない店もあった。別売りする店もあれば、いい子なら誰にでも無料で渡す店もあった」
1980年6月27日
ジョイ・ディヴィジョン:「Love Will Tear Us Apart」 12インチ (FAC 23.12)
12インチ限定特典:
「Love Will Tear Us Apart」(ペニー・バージョン)3.14
ランアウト・グルーヴ1:スペクタクルは儀式
ランアウト・グルーヴ2:ピュア・スピリット
1980年6月28日にイギリスのチャートにランクインし、16週間チャートに留まり、最高位は13位。
マンチェスターのストックポートにあるストロベリー・スタジオと、オールダムのペニー・サウンド・スタジオで録音。
エンジニア:クリス・ネーグル、ジョン・ニーダム
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル
マーティンは『Love Will Tear Us Apart』のミックスに決して満足せず、それがペニー・バージョンを生み出した。彼はできる限り何度もミックスをやり直した。トニー・ウィルソンがイギリス全土のスタジオオーナーに対し、この曲のミックスは今後、どこであれ、一切費用を支払わないと告げたことでミックス作業は終わった。
1980年7月18日
ジョイ・ディヴィジョン:Closer(FACT 25)
ランアウト・グルーヴ1:オールド・ブルー?
ランアウト・グルーヴ2:該当なし
ロンドン、ブリタニア・ロウ・スタジオで録音。
エンジニア:ジョン・カフェイ、アシスタント:マイク・ジョンソン
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル、マーティン・アトキンス、クリス・メイサン
写真:バーナード・ピエール・ウルフ
「おれのお気に入りのアルバムの1つ。2011年におれのバンド、ザ・ライトで演奏した時は本当に興奮した。」
1980年7月26日にイギリスのチャートにランクインし、8週間チャートに留まり、最高位は6位。
1980年7月30日
ニュー・オーダーがマンチェスターのビーチ・クラブで初ライブ
1990年頃、ダヴズがおれたちのリハーサルルームであるチータム・ヒルを買収した。その後、ジミ・グッドウィンから連絡があった。「君のテープが入った袋を見つけた。欲しいかい?」すると、なんとその袋の中には、ビーチ・クラブでのギグで使ったバッキングテープが入っていた。
1980年9月2日
ジョイ・ディヴィジョン:『シーズ・ロスト・コントロール』(FACUS2/UK)
12インチ・トラックリスト:
『シーズ・ロスト・コントロール』
『アトモスフィア』
ランアウト・グルーヴ1:若者たちよ、ここにいる
ランアウト・グルーヴ2:しかし、彼らはどこへ行ってしまったのか
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
スリーブ写真:チャールズ・ミーチャム
タイポグラフィ:ピーター・サヴィル
1980年9月4日
ニュー・オーダー、リバプールのブレイディーズで演奏。スカフィッシュがサポート。「Ceremony」はスティーブン・モリスがヴォーカル
1980年9月5日
ニュー・オーダー、ブラックプールのスキャンプスで演奏
1980年9月7日
ニュー・オーダーはシェフィールドのウェスタン・ワークス・スタジオでキャバレー・ヴォルテールと共にデモを録音した。「Dreams Never End」、「Homage」、「Ceremony」(ヴォーカルにスティーブン・モリスをフィーチャー)、「Truth」、「Are You Ready for This」(キャバレー・ヴォルテールとの共作、バックボーカルにロブ・グレットンをフィーチャー)
1980年9月
ニュー・オーダー、北米ミニツアーに出発
1980年9月20日
ニュー・オーダー、ニュージャージー州ホーボーケンのマックスウェルズで演奏
1980年9月21日
ニューヨーク州西44丁目のイロコイ・ホテルの外からニュー・オーダーのバンが盗まれる
1980年9月22日~23日
ニュー・オーダーは、ニュージャージー州イーストオレンジのイースタン・アーティスト・レコーディング・スタジオに入り、マーティン・ハネットがプロデュースした「セレモニー」と「イン・ア・ロンリー・プレイス」を完成させた
1980年9月26日
ニュー・オーダー、ニューヨークのハラーでア・サーテン・レイシオのサポートを受けて演奏
1980年9月27日
ニュー・オーダー、ニューヨークのティア3でア・サーテン・レイシオのサポートを受けて演奏
1980年9月30日
ニュー・オーダー、ボストンのアンダーグラウンドで演奏
1980年10月24日
ファクトリーは正式に有限会社となり、ファクトリー・コミュニケーションズ・リミテッド(FCL)となった。取締役のウィルソン、エラスムス、サヴィル、ハネット、グレットンはそれぞれ20%の株式を均等に保有した。
「株は本来私たちのものだったのだが、ロブが自身の名前で保有していた。『もしおれたちが報酬を受け取らなくても、ファクトリーから何かを受け取っていることになる』と言って。しかしすぐに争いの種になった。法律用語では「利益相反」と呼ばれます。ご注意ください」
1980年10月24日
ニュー・オーダー、マンチェスターのスクワットで演奏。ジリアン・ギルバートをフィーチャーした初のギグ
「彼女にとっては非常に緊張したに違いない。とても短いセットだった。20分でアンコール無し。今では、20分演奏するためにどこかへ行くなんて考えられない。そうは言っても、「オマージュ」を除けば、それがおれたちの全曲だったんだ」
1980年11月
ブリュッセルより愛をこめて(TWI 007)
トラックリスト:ケヴィン・ヒューイック「ヘイスタック」&数人のミュージシャン 3.35
1980年6月、グレイブヤード・スタジオで録音。ケヴィン・ヒューイック作詞
マーティン・ハネット録音
オリジナルのカセットブックレットには、「ケヴィン・ヒューイック - ヘイスタック / グレイブヤード・スタジオでの実験。1980年6月。ケヴィンは数人のミュージシャンと演奏。マーティン・ハネットによる録音」と記載されている。「数人のミュージシャン」とは、後にニュー・オーダーとなるバーナード、ピーター、スティーブンのことである
1980年11月24日~28日
ニュー・オーダー、ロッチデールのカーゴ・スタジオに入る
「これは、主にボーカルパートに取り組み、いくつかの曲のデモを作成する目的だった」
1980年12月
ニュー・オーダーは、ジリアン・ギルバートと共に『セレモニー』を再レコーディングするため、ストロベリー・スタジオに入った
「ジリアンをグループに完全に組み込むというロブのアイデアは、結果として非常に似たサウンドになり、違いはほとんどわかりません。少し速くなったかもしれません。主な違いはジャケットの違いだった」
1980年12月13日
ニュー・オーダーは、ロブ・グレットンの旧友であるマイク・ピカリングが主催するロッテルダム・ホール4で演奏した
グループを結成する際に絶対にやってはいけない10のこと
1. 友人と仕事をする(そうしても長くは続かない)
2. ボーカルにバックボーカルを任せる(バンドをまとめる絶好の機会。放置すると危険。「ナルシシズム」も参照)
3. バンドにカップルを入れる(彼らは必ず陰謀を企てる)
4. A&Rマンの言うことを聞いてみる(ピート・トン以外、おれが今まで会ったA&Rは皆バカだった)
5. マネージャーにクラブやバーを開かせてみる(『The Hacienda: How Not to Run a Club』参照)
6. 出版とパフォーマンスの分割を口に出さない(レコーディングが終わったらすぐに整理し、書面で残す。これは最悪のことだが、最も重要なことで、多くのバンドは活動を始める前に解散する)
7. バスを降りる(ファッティ・モロイは一度これをやりました。それ以来ずっと後悔しています)
8. メンバーの1人がグループ全体より偉いと考える(これもジーン・シモンズの例え)
9. 「永久に」と書かれた契約書にサインする(つまり永遠に。たとえあなたがそんなに長生きしても)
10. レコード会社に借金をさせる(ファクトリー・レコードの例を参照)
11. 機材を発送する。必ずレンタルする(非常に有名なサブダンス・サブインディーズバンドが、解散後にマネージャーに電話をかけ、「お金はどこへ行ったんだ?」と尋ねたことがある。上記参照!)
12. 他のグループメンバーの睡眠を妨害する(彼らはとても意地悪になり、警察を呼ぶかもしれない)
13. 他のグループメンバーのガールフレンド/妻の邪魔をする(これは必ず暴力に終わる)
14. 自分のホテルの部屋でパーティーを開かない(必ず誰かの部屋に行く)
くそっ、多すぎる。もうやめておく
「ロブを喜ばせるためなら何だって…」
1981年5月、バンドはメロディー・メーカー誌のニール・ローランドにニュー・オーダーとして初めてのインタビューを許可した。「何事も真剣に受け止めようとせず、面と向かっての議論を避けるためにただベースをいじっていた」と評されるピーター・フックとのやや緊張したやり取りに加え、バンドのキャリアを通して繰り返し登場するテーマが取り上げられている。それは、「バンド名が示唆する」ファシズムへの非難、イアン・カーティスの遺産への執着、そしてバンドのライブ形式への関心です。(「ニュー・オーダーのライブは、例えばピンク・フロイドがラウンドハウスにいた頃のようなエネルギッシュさを持っている」)
家庭では、アイリスとおれは収入が1つしかないことに慣れつつあった。彼女は協同組合保険サービス(おれたちの機材代金の支払いを拒否したまさにあの会社)のマンチェスター事務所で事務員として働いていた。
この頃、おれたちはモストンのほぼ空っぽの家に住んでいた。家具といえば、デッキチェア2脚、マットレス、そしてビバという名の美しい白い子猫だけで、ビバは嬉しそうにそこらじゅうにおしっこをしていた。女の子たちはおれに群がってきた。おれがしょっちゅう家を空けては回復のために戻ってくることに慣れてきていた。おれは定期的に「家を離れて演奏」していたと言えるだろう。
1981年は、より多くの経験を積み、音楽でまだチャンスがあることを証明したいという思いから、慌ただしいギグでスタートした。ギグに関しておれたちが獲得していた評判は、人々がいつもよりも高い期待を抱いてやって来ることを意味していた。何かが起こるだろうと。必ずしも良いことばかりではないかもしれないが、何かが起こるだろうと。連中は本当にジョイ・ディヴィジョンの楽曲を無視して、新曲だけを演奏するんだろうか?先ほども言ったように、最初はほとんどのファンが純粋な好奇心から来ていたに違いない。
例えば当時のセットリストを見てみよう。あの時代のもの(そして公平を期すために言えば、バーニーが抵抗を始めた1987年までのほぼすべての時代)を見れば、常に変化していたことが分かる。その理由の1つは、ロブが楽屋で横になり、眼鏡を鼻に押し上げながらおれたちに向かって叫んでいたから。「おい、クソったれ、あのクソみたいな曲は何だ?「この部屋で、あの部屋で」って歌ってる曲は何なんだ?」すると、おれたちは「ああ、あれはもうしばらく演奏してない。リハーサルもしてない」って言うんだ。
「じゃあやるんだ。『Homage』をやれ。そう、『Homage』だ。」
ロブを喜ばせるためなら何でもした。でももちろん、リフや構成、バーニーは歌詞を思い出すのに苦労していた。チャンスに恵まれて魔法にかかった夜がある一方で、他の二晩はまったく酷い出来だったりした。確かに当たり外れはあったが、決して退屈ではなかった。おれたちはまだパンクだったし、喜んでそれに付き合っていた。
何年も後、アメリカでブルース・スプリングスティーンが同じツアーで2つの異なる都市で演奏するのを見たときのことを覚えている。彼は何時間も同じ曲を同じ順番で演奏しただけでなく、曲の合間にも同じことを同じ順番で言っていた。彼らがそこまで準備をしていたことに驚いた。なんてプロフェッショナルなんだろうと。
それから、当時おれたちは最長でも20分から30分しか演奏しなかった。それで十分に長く感じたから。観客を飽きさせないためというのがおれたちの言い分だった。おれたちはどれほど思いやりがあったのだろうか?しかし、おれたちの思いやりに報いるために、怒って暴動を起こす連中もいた。恩知らずの野郎どもめ。
だからおれたちには評判があった。おれたちのギグは、最悪な夜になるかもしれないし、素晴らしい夜になるかもしれない。それは誰にも分からない。唯一確かなことは、思い出に残る夜になるだろうということ。オーディエンスはたくさんの物語を持って帰っていった。
5月にヨーロッパツアーに乗り出し、フランス、ベルギー、ドイツ、デンマーク、スウェーデンで演奏した。素晴らしいツアーだった。バーニーは、歌手であることの大変さを嘆いていない時は、フロントマンとしての地位を利用して特定のファンに気に入られることを厭わなかった。ギグは非常に小規模で、汚い楽屋、ペールエール4缶とニシンの酢漬け、運が良ければそれだけだったが、それでも十分だった。懐かしく思い出すしかないようなギグばかりだった。いわば、代償を払っているようなものである。
ニュー・オーダーは1981年9月にシングル『プロセッション』、11月にアルバム『ムーブメント』を短い間にリリースし、12月にはファクトリー・ベネルクスから12インチシングル「エヴリシングズ・ゴーン・グリーン」をリリースした。当初は『プロセッション』のB面曲だった『エヴリシングズ・ゴーン・グリーン』は、当時のニュー・オーダーのシングルの中で最もエレクトロニックな曲で、バンドの新たな方向性を示した。
おれたちの作曲方法は、1989年の『テクニーク』まで、すべての作品でほぼ同じだった。アコースティックな曲は、3人でジャムセッションをし、一番良い部分を選んで大まかな構成を作った。そこにバーニーがキーボードパートを追加し、おれたちの1人がボーカルラインを担当し、それから一緒に歌詞を考えた。それは素晴らしい共同作業だった。エレクトロニックなシーケンサーが主体の曲では、最初にプログラミングしてからジャムセッションしていた。
ストロベリー・スタジオでマーティン・ハネットと新しいアルバムを作る計画だったが、彼はその頃には完全に嫌な奴モードに入っていた。スタジオでは「よし、モニタールームに行ってくる」とか言って席を外し、エンジニアのクリス・ネーグルがセッティングした小さなオーラトーン・モノラルスピーカーでおれたちが演奏している音を聴きながら、本を読んだりドラッグをしたりしていた。
「気に入った曲が聴けたら、出てくるよ」と彼は言っていた。
彼は決して出てこなかった。
ほとんどの場合、彼が家へ、あるいはドラッグを買いに行くためにスタジオの玄関ドアをバタンと閉める音が聞こえただけだった。たまに彼が出てくると、イアン無しではおれたちがどれほどダメ人間かを思い出させようとした。まるで真の天才の貧弱な代役であるおれたちがそこにいることに耐えられないかのように。彼がそんな風に振る舞うのは、胸が張り裂けるようだった。
おれたちの旅は、セックス・ピストルズを観ることから始まり、イアン、ロブ、トニー・ウィルソンと出会い、そして最後はマーティンと仕事をすることになった。すべての導きの光の中で、イアンとマーティンは最も明るく輝いていたが、今や片方は亡くなり、もう片方はおれたちを憎んでいた。おれたちと同じ部屋にいることさえ耐えられない、とおれたちは感じていた。今思えば、彼の行動の一部は薬物のせいだったと言えるかもしれないが、当時は本当に耐え難いものだった。
ある夜、ストロベリー・スタジオでバンドのメンバーとロブだけで話をした。ストロベリーはいつも凍えるほど寒く、蓄熱暖房器はほとんど動かなかったので、その夜、階下で考え込んでいたおれたちは一際寒く感じていた。おれたちは自分の気持ちを打ち明けた。人生で一度きりのような、そんな時間だった。結局、全員が泣いてしまった。抱き合ったりはしなかったが。ただ、それぞれが自分の小さな世界の中で泣いていた。少し血を流したようなものだったと思う。なぜだろう?おそらく、溜まった感情は遅かれ早かれ外に出さなければならなかったからだろう。あるいは、マーティンの状況が悪化し、彼がドラッグに溺れ、イアンのように失ってしまうのではないかと嘆き悲しんでいたからかもしれない。そんなバンドミーティングには凍えるような寒さのスタジオは、どこよりもうってつけの場所だった。
1981年初頭、ストロベリーでのアルバムレコーディングはなんとか完了し、今度はミックス作業が始まった。
奇妙なことに、トニーとロブはレコーディングの進行具合に満足していた。ボーカル的にも音楽的にも、そしてマーティンの行動についても。新しい作品に対して全くパニックに陥っていなかった。それはおれたちに大きな勇気を与えてくれた。しかし、それはすぐに変わることになる。
おれたちはロンドンのケンジントン・ガーデンズ・スクエアにあるマーカス・ミュージックという新しいレコーディング・スタジオに移った(マーティンについては、少なくともしばらくの間はマンチェスターから離れるのは良い考えだと考えていた)。おれたちも環境が変わったことを嬉しく思っていた。おれたちは角を曲がったところにあるホテルに滞在し、夜間に制作していた。今回はうまくいった。クイーンズウェイで夜明けに朝食をとり、午前8時頃に就寝するのだ。他の宿泊客は観光に出かけているので、ホテルは静まり返っていた。彼らが戻ってくると、おれたちは起きてインディーズ・ヴァンパイアのようにスタジオに向かうのだった。
初日、マーティンは仕事を始める前にコカインを1グラム要求した。おれたちは皆、全く信じられないという表情で彼を見た。当時、おれたちはコカインについてほとんど知らず、どこで手に入れられるかなど全く知らなかった。ましてや、ロンドンにいて誰も知り合いなどがいなかった。最初は冗談だと思い、抗議したり、理屈をつけようとしたりしたが、1時間ほど経つと本気であることが明らかになり、おれたちは愕然とした。そこでロブは電話をかけ始め、マーティンとクリス・ネーグルはまるで悪意に満ちた仏陀のように座り、マーティンはノブを回すことさえ拒否した。確かに天才かもしれない。だが、なんて間抜けなやつなんだろう。
そして、数時間後、ようやく薬を手に入れると、彼はそれをクリスに渡し、クスクス笑いながら「クリストファー、それを整理してくれ。そうすれば始めよう」
彼は最終的にいくつかの曲をミックスしたが、バンドとしては全く満足できなかった…
『クローサー』の制作中、おれたちはマーティンの肩越しで見守り、自分たちでやり方を学ぼうと熱心に取り組み、時にはアイデアを出し合った。そして今、おれたちは自分たちの意見を持ち、それが声となり始めていた。
『ムーヴメント』でおれたちが主に求めていたのは、ドラムの増量だった。マーティンは相変わらず、すべてを歪ませ、マーシャル・タイム・モジュレーターを通して録音し、それを元に戻すという、昔ながらのやり方を続けていた。しかし、おれたちはサウンドをもっとクリーンでパワフルにして、羽毛のような感じにならないようにしたかった。『アンノウン・プレジャーズ』の制作時には、ドラムの増量を求める勇気などなかった。『クローサー』の制作時には、それを提案する勇気があったかもしれない。しかし今、『ムーヴメント』の制作においては、おれたちはそれを明確に要求した。さらに、ロブが私たちのバックについてくれていた。ロブはプロデューサー席に座っているコカイン中毒のプリマドンナではなく、おれたちの味方になってくれた。マーティンはすべてのミックスを担当したが、家で振り返ってみると、いくつかの曲はもっとハードにして、より幻想的では無いものにできると感じていた。おれたちは自分たちのために立ち上がることを楽しみ始めていた。
マーカス・ミュージックの後、おれたちはノッティング・ヒルにあるトレヴァー・ホーンのサーム・ウェスト・スタジオに移った(そこでのテープ・オペレーターは、後にU2のレコード制作で有名になるフラッドという素敵な若者だったが、この時点では紅茶を入れることで有名だった)。そこでバンドが気に入らなかった曲をリミックスする予定だった。だがここでもマーティンの「突飛な」(つまり、間抜けな)行動は続いた。おれたちはまだアイデアを出し合っていたが、マーティンが気に入らない曲があると、「クリストファー、ちょっと散歩してくるから、おれがいない間にミックスをやっておいてくれ」と言って出て行った。そこでクリスにドラムの音量を上げて、ベースをもっと太く、大胆にしてもらうように頼んだ。クリスはマーティンに完全忠実だったので、彼は渋々従った。そしてマーティンが戻ってきて、「もうやったか?」と言うので、おれたちが「うん」と言うと、彼は「よし、じゃあ次の曲」と言うのだった。
彼はおれたちが何をしたのか全く聞きたがらなかった。知りたくもなかったのだろう。
彼とは何度か喧嘩した。一番言い争ったのは「Truth」と「Everything's Gone Green」の2曲だった。どちらも、ドラムマシンとシンセサイザーを力強く、大音量にしたかったんだ。(ちなみに、これらはおれたちの最初の「エレクトロニック」トラックだった。「Truth」はドラムマシンを使った最初の曲。そしてドラムマシンとパルスシンセサイザーを使った「Everything's Gone Green」)
それから「Procession」。
ある夜、イエロー・ツー・スタジオで、おれとマーティン、バーニーがボーカルを再録音していた。最初のテイクの後、トークバックでマーティンが「ひどい。もう一度やり直せ」と言った。
ブースの中のバーニーはまた同じことをした。
「ひどい。まただ。」
そうやってマーティンは彼を何度も何度も罰した。彼はバーニーがイアンではないことを罰しているのだ、とおれは思っていた。
「まただ。」
15回目か16回目には、おれは彼を説得しようとしていた。「マーティン、頼むよ」とおれは言った。「別の良いパートがあるから、それを使おうよ」
「いやいや」と彼は言い放った。「フルテイクだ。フルテイクにしないと。」
それから彼はバーニーにもう一度歌わせた。
「もう一度だ。」
そしてまた…
数えてみた。バーニーは43回歌ったが、ついに、バーニーの言う通り、あの頃は短気だった彼はついにパニックに陥り、セッションは突然終了し、おれたちは怒って出て行った。
何もかもがクソだった。マーティンはいつだって手に負えないタイプだったが、彼の狂気にはひどく欠けている手法があった。以前は実験していたが、その頃の彼は幸せそうで、イアンに43回も歌わせるようなことは決してしなかっただろう。今の彼は、良い結果を出そうとするのではなく、ただおれたちを怒らせるために残酷な方法でプロデューサーとしての権力を行使していると感じていた。「Procession」は良い曲で、バーニーのボーカルも良かった。その夜、スタジオで唯一の問題はマーティンだけだった。
後にマーティンはバーニーのボーカルが弱く、補強が必要だと考え、ジリアンにバックボーカルを依頼した。時代遅れなおれは女性的なバックボーカルが好きではなかったが、多数決で負けた。そして、B面に「Everything's Gone Green」を収録した。これが後にエレクトロニック・ミュージックのベンチマークとなったことを考えると、エレクトロニック・シングルの聖なる三位一体(「テンプテーション」と「ブルー・マンデー」に続く)の最初の曲としては少し不可解な動きだった。
しかし、それは後知恵であり、バンドが素材に近過ぎた、あるいは謙虚になり過ぎたという良い例でもある。だが幸いなことに、ファクトリー・ベネルクスがこの曲のポテンシャルを認識してくれたのだった。
ファクトリー・ベネルクスは1980年にミシェル・デュヴァルとアニック・オノレ(イアン・カーティスの愛人)によって設立されたが、奇妙なことに、マンチェスターのトニーと本家ファクトリーよりもワイルドで自由な発想を持っていた。1981年12月にリリースされた「Everything's Gone Green」の12インチバージョンを作る機会を与えてくれたのは彼らだったのだ。このバージョンはついにこの曲にふさわしい存在感と聴覚的インパクトを与えた。ファクトリーからの7インチシングルでは、この曲は短く編集され、B面曲としてマークされていた。
この頃には、ドラムマシンやパルスシンセサイザーを使っていたが、シーケンサーはまだ使っていなかった。これらの機材は素晴らしいサウンドだったが、セットアップには長い時間を要した。おれにとってこの時期は、バンドの他のメンバーがドラムマシンとシンセをプログラムしている間、エレクトロニックバンドのアコースティック奏者が耐えなければならない、果てしない座り込みの始まりだった。
何かをするのは好きだが、プログラミングには興味がなかった。ただ退屈で、目的を達成するための手段ではないと思っていた。「なんでただ演奏できないんだ?おれたちはバンドなんだぜ?何百曲も素晴らしい曲を書いてきたんだ。なのに、なぜただ普通に演奏できないんだ?」と思っていた。
他のメンバーはポップスを再発明するのに忙しかったが、おれはポップスは現状のありのままで十分だった。
でも、おれがクヌート王みたいなものだと思われてしまう前に言っておくが、プログラミングされた音楽に対するおれの反抗的なスタンスが、おれたちのサウンドを(自分で言うのもなんだが)ロックとダンスのハイブリッド、つまり未来のサウンドに仕立て上げたのだった。その代わりに、おれはレコーディングのプロセスに没頭し、バンドのレコーディング・エンジニアになることを決意したのだった。
マーティンにとって決定的な決定打となったのは、アルバムのマスタリングだった。マーティンは、バンドが使いたいかどうかに関わらず、自分のミックスだけをマスタリングした。彼はおれたちのミックスを聴こうとせず、アセテート盤やテストプレスにさえ入れることを拒否した。
ギークアラート
アセテートは、ヴァイナルの特性を模倣したラッカーコーティングされた金属ディスクで、ヴァイナルにプレスする前の音質確認のために使用されます。テストプレスでは、レコーディング工場で曲のマスターテープを使用して金属マザーが作られ、そこから品質向上のために限定数のテストレコードがいくつか作られます。これらが承認されると、より多くのレコードが生産されます。
レコーディングセッションの終わりまでに、アルバムのアセテートとテストプレスには2つのバージョンが存在した。マーティンのバージョンは彼が気に入ったミックス、バンドのバージョンはおれたちが気に入ったミックスが入っていた。彼はアルバムの最終バージョンを実際に聴くことはなかった。それでお終い。
それからおれたちはアメリカに舞い戻ることになる
「以前ここに来たことがあるような気がする」
「Everything's Gone Green」は、他のどの曲よりもマーティン・ハネットとニュー・オーダーの関係を過去のものにした。この曲を録音した後、おれとバーニーは新たな自信で胸がいっぱいになった。マーティンがいなくたって良いバンドになれるんだと感じた。もっと言えば、彼がいない方がもっと良いバンドになれると思っていた。
そこで、ロブ、トニー、スティーヴ、ジリアンに、もう彼を使わないと伝え、それで終わりにした。彼は解任され、おれたちは新しいバンドになったような気持ちでアメリカへ向かった。
再びルース・ポルスキーがおれたちのツアーのプロモーションをしてくれて、彼女とおれは不倫関係になった。彼女はニューヨークで最も人気のあるクラブ、ダンステリアとハラーを経営し、NYの音楽界で最もクールで人脈の広い人物の1人だったのに、おれはサルフォード出身のただのチンピラだった。おれの素晴らしい恋愛能力だったのか(だったらいいのだが)、それともY字型の体型ではなかっただけなのか?それとも、彼女が完全なコカイン中毒だったからなのか?当時のおれには理解できなかった。ルースは気性が荒かった。彼女はたくさんのバンド仲間と付き合っていたため『Under the Stars』という本を出版する計画を立てていた。彼女が亡くなって数年後、おれはそのタイトルをモナコでトリビュートソングとして使った。彼女は素晴らしい女性だった。おれは彼女の心を傷つけたが、今でも彼女がいないと思うと寂しい。
ある晩、彼女はおれたちをニューヨークのリッツに連れて行ってくれた。バウハウスか何かのバンドを見に行ったのだ。当日、おれたちは普通のライブハウスのように床がベタベタしていて、客たちがおれの足を踏みつけるだろうと思っていたが、それは大間違いだった。実際には、おれたちはプライベートな中2階の予約テーブルに座り、専用のバーサービスまで完備されていた。イギリスのように他の客から「お前は誰だ?くたばれ」と見られるようなことはなく、皆がスター扱いをしてくれた。「こちらへどうぞ」。まるでビリー・ビッグ・バナナズになった気分だった。思わず自分の体をつねって「これは本当なのか?」と思うような瞬間だった。
神よ、アメリカに祝福を。
厄介なのは、こういうことは注意しないと感覚がおかしくなることだ。
数年後、おれはテリー・メイソンと一緒にロンドンのクラブ、seOneの列に並んでいた。前に立っていたのは、Curiosity Killed the Catのシンガー、ベン・ヴォルペリエール=ピエロ。ベレー帽をかぶった嫌な奴で、ドアマンに「おれが誰だか知らないのか?」と全力で叫んでいた。彼らは当時、大人気だった。しかし、ドアマンは気にせず、「お前らはゲストリストに載っていない」と言い放った。おれたちは彼の後ろで大笑いしていたが、彼は振り返って顔をしかめ続け、ついにドアマンの忠告に従い、おれたちから野次を浴びながら去って行った。
さあ次はおれたちだ。おれはドアマンに満面の笑みで「ニュー・オーダーのピーター・フックだよ」と言った。
彼はゲストリストを見下ろした。
「ピーター・フックも、ニュー・オーダーも載ってないぞ」
列に並んでいた他の全員がおれを見て大笑いしていた。
しまった!カルマだ。必ず報いを受ける。
さて、1981年11月にアメリカに戻ると、バンドが新たに見出した目的意識と自信に貢献したもう1つの出来事がマイケル・シャンバーグとの出会いだった。2006年にミトコンドリア病を患い、悲しいことに2014年に亡くなったマイケルは素晴らしい人物だった。彼とガールフレンドのミランダは、ファクトリーのアメリカ支社であるファクトリーUSの運営で大きな成功を収めたわけではなかったが、素晴らしいミュージックビデオを通じてニュー・オーダーの国際的なイメージ形成に貢献したことは間違いない。
マイケルは新進気鋭のビデオ/映画監督を見つける優れた目を持っていた。『ザ・パーフェクト・キス』のジョナサン・デミを始め、『タッチド・バイ・ザ・ハンド・オブ・ゴッド』のキャスリン・ビグロー、『ビザール・ラブ・トライアングル』のロバート・ロンゴ、『トゥルー・フェイス』のフィリップ・ドゥクフレをビデオ監督に迎えたのも彼だった。多くの点で、彼はピーター・サヴィルがグラフィックイメージを表現したのと同じように、おれたちのビデオイメージを表現するようになった。おれたちは彼に完全な自由と完全な芸術的コントロールを与えた。言い換えれば、それらの仕事と関わることに煩わされずに済んだ。おれたちはそれらが本当に退屈な仕事だと思っていたから。また、それらは莫大な費用がかかり、レコード会社に多額の負債を抱えることになった。それはおれたちが苦労して学んだもう1つの教訓だった。それだけでなく、マイケルはアーサー・ベイカーとジョン・ロビーを紹介してくれたのも彼だった(まあ、誰しも完璧ではないのだが)。
当時、チャイナタウンにある破天荒なホテルに泊まっていた。なぜかって?振動ベッドがあったから。ヘッドボードのスロットに25セント硬貨を入れると、ベッドが30秒ほど揺れ、さらに硬貨を入れるまで動き続ける。どんな効果があるのかは分からないが、とても楽しくて、特にロブが大いに気に入っていた。彼はみんなに電話して「25セント硬貨ない?もう25セント硬貨ない?」と尋ねていた。
ある夜、おれたちは中華料理を食べに行った。ロブは中華料理に詳しいことをひけらかし、「中国の酒は最高だからきっと気に入る」と言った。ウェイターは「特別なワインがあるよ。特別なワインだ…」と言って運んできたのが、なんと鹿の胎児が入ったワインだった。おれたちは皆それを見て吐き気を催したが、もちろんロブはあくまでもロブなので、結局それを飲んでしまった。彼は普段から頑固な野郎で、酔っ払うとさらにひどい有様だった。
何年も後、ロンドンで、ギリシャ人のプロモーター、ペトロス・ムスタカスという名の抜け目のない小僧がロブにこう言ったのを覚えている。「お前の手の甲に50ポンド札を置いて、火のついたタバコをくっつけてやる。もし札が燃えるまでそこに保持できたら、それはお前のものだ」と。
ロブは怒り狂いながら「大丈夫だ、ペトロス。くそ、くそったれ。くそったれ、くそったれ」と言った。男は50ポンド札を手の甲に置いてタバコに火をつけた。
ロブは「さあ、クソ野郎、焼けろ」と言ったが、焼けなかった。レストランは焼ける肉の臭いで満たされ始めた。その間、ロブは激痛に顔をしかめながら座っていたが、ついに我慢できなくなり、手を引っ込めると、手の甲に大きな水ぶくれができていた。
ペトロスは「ああ、運が悪かったな、ロバート。反対の手で試してみないか?」と言った。
相変わらず好戦的で喧嘩腰のロブは、眼鏡を鼻に押し上げて「ああ、じゃあ、やれよ、この野郎」と言った。みんなは「ああ、ロブ、やめて、だめ、だめ」と言いながら、ロブが燃える悪臭を払いのけるために鼻に手を当てていた。
ペトロス以外、誰も知らなかったが50ポンド札に使われている紙は非常に優れた熱伝導体だった。紙幣を燃やすのではなく、その熱はロブの手の方に伝わっていたのだ。頑固なマネージャーは手の甲に2つの穴が開き、一生消えることはなかった。まるで十字架にかけられたかのような聖痕だ。
最後に彼はペトロスを見て、ただ「失せろ」と言った。
ロブはタフだった。彼は間違いなくハードコアだった。
『ムーヴメント』はおれたちが留守の間にリリースされた。レビューはまあまあで、年月が経つにつれてどんどん好きになっていったが、当時は満足していなかった。完成版を聴いたとき、プロデューサーの信頼を失ったバンドの音に聴こえたから。それは明白だった。アルバムは最終的に、ニュー・オーダーのボーカルを加えたジョイ・ディヴィジョンのアルバムのように聴こえた。
そうは言っても、名作とまでは言えないが最近ではあのプロダクションが好きになった。『パワー・コラプション・アンド・ライズ』の方がずっと上回ってはいるが、それでも良いアルバムだ。歌詞にはあまり深みが無いが、音楽は素晴らしいと思う。最近では、イアンなら『ドリームス・ネバー・エンド』や『I.C.B』でどんなことをしただろうか?あるいは『ブルー・マンデー』でどんなアイデアを思いついただろうかと想像したりする。もしそれが分かったら、どんなに素晴らしいことだろうか。
『Movement』 トラック解説
「Dreams Never End」: 3.13
恐怖に怯える者に逃げ場はない…
イアンの死後、最初のベースリフ、そして「Novelty」の後の最初のボーカルライン。1人で演奏するのは決して良い気分ではなく、すぐに心が折れてしまった。アルバムの冒頭にこんな曲があるなんて、まるで予言のようだ。6弦のShergoldベースギターが真価を発揮している。レコードでは、マーティンがおれのボーカルに苦戦し、ローテイクとハイテイクをミックスしているのが分かる。「ライブのように」録音されたこの曲では、3人で激しく演奏している。不思議なことに、マーティンはこの曲でドラムキットを完全に分解しなかった。彼はおれたちが一緒に演奏することを許可し、最高のテイクを使った。後に彼はクローズドとオープンの両方のハイハットをオーバーダビングした。ニュー・オーダーのロッククラシック。PA担当のオジーがかつておれに言ったのを思い出す。「あのイントロを最後にバンドは落ち目になったよ!」
「Truth」: 4.37
私を囲むノイズ
ドラムマシンを使った初めての曲。とても雰囲気のある曲。ARP Omniのストリングスは特に印象的。バーニーはメロディカも効果的に使っている。この曲には素晴らしいサウンドを期待していたが、マーティンとの争いで、まさに論争の真っ只中に放り出されてしまった。ジョイ・ディヴィジョンの「インサイト」を彷彿とさせる。冷酷なディストピア的ビジョン…新しい世界秩序。
「センシズ」:4.45
理由は示されない
この曲の核心は、おれたち3人の相互作用だ。それが何よりも重要である。ジョイ・ディヴィジョン風に曲のパートを重ねて新しい3番目のパートを作り出す、素晴らしいテクニック。スティーブのシンドラムと、マーティンのタムのタイムモジュレーションが非常にモダンな雰囲気を醸し出している。マーティンの一番嫌いな曲で、彼は理解するのに苦労していた。また、おれにとって初めてのベースのオーバーダビングに挑戦した曲で、4弦と6弦の2つが同時に異なるパートを演奏している。
「Chosen Time/Death Rattle」:4.07
信じて
ゆったりとしたボーカルが、この暗く陰鬱な曲を覆い隠している。6弦ベースによるメロディーは非常に力強い。ニュー・オーダーの曲の中で初めて、初期のアコースティック・ベース・パートから独立したベース・シンセ・ラインを採用し、バーニーの素晴らしいギターワークも加わっている。スティーブのシンセドラムは素晴らしく、Powertranシンセサイザーと相まって、曲の最後に素晴らしい効果を生み出している。マーティンのアイデアだった。ライブで行われたクラシックな録音スタイル。オーバーダビングはほとんど無し。
「I.C.B.」:4.33
天から降るマナ
この曲はジョイ・ディヴィジョン時代に作り始めたものの、完成には至らず、個人的には最もジョイ・ディヴィジョンらしいサウンドだと思っている。マーティンによるタムのエレクトロニックな処理が、この曲を素晴らしくモダンで刺激的なものにしている。バーニーのゆったりとしたボーカルは、自信の無さを改めて感じさせるが、それはすぐに修正される。スペースサウンドシンドロームによる素晴らしいビルドアップは、スティーヴがクランジャーズのファンだったことを示唆している。バーニーのバックで歌っている自分の低いボーカルを聴くのは興味深い。
「ザ・ヒム」: 5.29
生まれ変わった、とても素朴に、私の目には…
このベースラインが大好きだ。バーニーのARP Omniストリングスの重ね合わせも非常に効果的。マーティンの強い要望で、おれの低いボーカルが再び彼をバックアップした。彼がライブでこの曲を歌ったとき、最後のリフレインは、働き過ぎのシンガーにとって特に悲痛なものだった。「とても疲れた、とても疲れた、とても疲れた」
「Doubts Even Here」: 4.16
警告なしに崩壊…
アルバムの中で1番好きな曲。スティーヴがボーカルラインを書いたのだが、当時彼は歌う自信が無かった。バーニーは気に入らなかったので、おれに任された。素晴らしいメロディーとタム。ボーカルのエンディングはおれが考え、マーティンはジリアンが「主の祈り」を朗読するのをオーバーダビングした。シンセドラムのエンディングが終末的な雰囲気を醸し出している。
「Denial/Little Dead」: 4.20
突然現れては消え、私を怖がらせる
インタープレイとドロップアウトが非常に重要な曲。このトラックにはオーバーダブが最も多く、ベースキーボード、高音弦、スネアドラム、タムなどが使われている。その後のライブでは、スティーヴはスネアドラムを2つ使っていて、1つは彼の背後に置いていた。彼がロールでそれを叩いたとき、それは素晴らしい光景だった。おれはとても感動した。だが悲しいことに、ボーカルは酔っているように聞こえる。
アルバムが発売される少し前の夜、ロブから電話があった。
「いますぐロンドンに行ってくれ!」
「え?」
「ピーター・サヴィルが偏頭痛でジャケットデザインを仕上げられないから、代わりにお前にやってほしいんだ!」
当時、ピーター・サヴィルはロンドンにあるヴァージン・レコードの子会社ディンディスク・レコードで、キャロル・ウィルソンというとても元気で若い女性のために働いていた。普通のレコード会社で働くプレッシャーが彼にのしかかっていたようで、彼はプレッシャーからくる偏頭痛に悩まされ始めていた。それでおれがその救援に選ばれたのだ。おれはアスピリンを握りしめ、熱にうなされた彼の額を拭きに向かった。
その時、ピーターは2つのジャケットを依頼されていた。1つは両A面シングルの「Procession/Everything's Gone Green」、もう1つがMovement。ロブは最初のアルバムだったので、どうしてもリリースしたくて、いつも以上にピーターを急かしていた。
おれが電車でロンドンに着いたとき、彼はとても体調が悪く、おれは優しく彼を導き、なだめて、彼が何を作っているのかを見せてもらった。彼は頭を抱えながら、自分のアイデアを説明した。彼は1909年のイタリア未来派運動においての工業都市、機械、速度、飛行といった近代性の指標に関連するグラフィックイメージを探求してた。未来派は、新しく破壊的なものを称賛していた。
なんてこった、彼がひどい頭痛に襲われているのも無理はないと思った。
そこで、おれはアルテ・メカニカ(機械美学)に関する本を数冊見せられた。おれはぼんやりと見つめていた。1時間ほど後、ロブの言葉が耳に残る中、おれは2つのデザインをピックアップした。1つはムーブメント用のもので、「ピート、これの文字だけ変えられない?」と言った。もう1つはシングル用の、素晴らしく力強いデザインだった。彼は「わかった。任せてくれ。少し気分が良くなった。色は変えるかもしれない」と言った。
その後、彼はおれを彼のプライベートクラブであるザンジバル(ソーホーのグルーチョクラブの前身で、後ほど詳しく説明します)に夕食に連れて行ってくれた。そこで彼はロンドンでの生活について語り聞かせてくれた。ある時、「ロンドンで暮らすのがどれだけ大変か分かるかフッキー?ズボン1本に600ポンドも払わなきゃいけないんだぞ!」と言った。
「なんてこったい、ピート。週に30ポンドしか稼いでないおれが知るわけないだろ?」
考えてみると、ロブにとってお金のやりくりはとても大変だったに違いない。彼はニュー・オーダーをマネージメントしていたが、収入は全くなかった。ニューヨークで盗まれた機材を山ほど購入し、すべてジョイ・ディヴィジョンのお金で賄っていた。ロブは経理が上手かった。誰かが疑問を呈すると、彼はいつも「ポケットは2つある。左はバンドのもので、右はおれのものだ。絶対に間違えない!」と言い、両方のポケットを軽く叩いて見せた。不思議なことに、夜の終わりにみんなに飲み物などを買っている時、彼はどちらのポケットに手を入れたかをメモしていないようだった。でもおれたちはそれで満足だった。彼が飲み物を買っていたのは主におれたちのためだったので、どちらかのポケットに金が入っている限り、おれたちは気にしなかった。
ニュー・オーダーのプロデューサーを解任されたマーティンの苦悩は、ハシエンダ開業への反対意見が聞き入れられなかったことでさらに深まった。ファクトリーのディレクターとして、彼は利益をレーベルの最も重要な側面である音楽に注ぎ込みたいと考えていた。彼はレコーディング・スタジオ、あるいは少なくともケイト・ブッシュ、ジャン・ミッシェル・ジャール、そしてマーティンの宿敵トレヴァー・ホーンが使用していたのと同じモデルの、新しいフェアライトCMIシリーズIIシンセサイザーが欲しかったのだ。案の定、クラブのオープン直前、ファクトリーの音楽魔術師は、自身が設立に関わったレーベルを相手取り訴訟を起こし、オープンを阻止し、会社への出資額からさらに金銭を要求しようとした。それがファクトリーとの関係の終わりの始まりだった…。
マーティンはファクトリーにレコーディングスタジオを買ってほしいと考えていた。アルバム1枚でスタジオ代は回収できるし、残りのレコードはすべて無料で録音できると言っていたからだ。彼は完全に正しかった。レコード会社にとって最も愚かなことはクラブに投資することだった。その後、ハシエンダが赤字に陥ったとき、トニーは何度も頭を抱えてこう言った。「ああ、マーティン・ハネットの言うことを聞くべきだった…」
マーティンはフェアライトで何ができただろうか?『愛の狩人』みたいなものは作れただろうか?答えは永遠に分からない。ただ、ファクトリーの残りの役員たちが彼に反対票を投じたということだけだ。彼らは彼を追放した。皮肉なことに、まさに2011年にニュー・オーダー「他の連中」がおれにしたことと同じだった。
彼らはマーティンに総額2万5000ポンドでの和解案を提示し、ジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーを含むファクトリー所属の全アーティストのレコーディングで獲得したアルバムポイントを放棄することを条件とした。その価値は何年にもわたって数百万ドルにもなったはずだった。
翌年3月、彼はファクトリーに対して訴状を発行した。ファクトリーはそれに独自のカタログ番号を付け、馬鹿げているように見せかけた。だが訴状は彼にとって何の役にも立たなかった。マーティンには、高等法院に付託された訴訟で戦うお金がなかったのだ。彼には8000ポンドが必要だった。さらに薬物中毒も再び彼を苦しめていた。
今にして思えば、それは忌まわしい引ったくり強盗のようだった。おれたちは何も知らなかったし、ニュー・オーダーで同じことが起こった時に、彼のガールフレンドであるスザンヌが教えてくれなかったら、おれは決してそんなことはしなかっただろう。マーティンと別れた時にどんな気持ちだったとしても、彼がいなければ、特にジョイ・ディヴィジョンで、おれたちがこれまで築いてきたような永続的な影響は決して得られなかっただろうと分かっていた。だから、彼からそれらのポイントを奪い、彼を買収することは、特に彼が正しかったことを考えると、容赦ない仕打ちだった。彼はクラブを開店するなとは言っておらず、今は開店すべきではないと言ったのだ。まずスタジオを作ってからクラブをやれ、と。おそらくファクトリーと関わった人々が提案した中で唯一の賢明な提案だったが、彼の意見は黙殺されてしまった。トニーは正しかったのだ。おれたちはマーティンの言うことに耳を傾けるべきだったのだ。
ギークアラート 機材リスト
この時までに、おれは盗まれた機材を、マーティン・ハネットがベーシストだった頃に使っていたものとほぼ同じセットアップの、はるかに優れたバージョンに交換していた。より技術的なことに詳しい方のために説明すると、おれはヤマハBB1200Sの4弦ベースとシャーゴールドの6弦ベースギターを使用していた。どちらもAlembicのステレオ真空管プリアンプに接続し、モノラル出力でRoland Sip-301プリアンプに入力する。Rolandのモノラル出力は、ステレオAmcron DC300Aソリッドステートステレオアンプ(チャンネルあたり1,200ワットrms = 大音量)にブリッジされ、それぞれ15インチJBL 4560 1000ワットベーススピーカー2台を搭載した2つの特注フライトケースキャビネットに接続していた。
それは最高だった!
マーティン、ありがとう。
ベーシストにとってもう1つ、とても重要なギアは「弦」だ。おれはこれまで様々な種類を使ってきたが、成功の度合いは様々だった。しかし、かなり早い段階で、ロンドンのベースセンター(考えてみれば、おれの最初で唯一のスポンサー)のエリートベース弦に落ち着いた。この弦はとても明るく、しかも強いので、とても信頼できた。通常のベースギターは、平均して105、80、60、45の弦ゲージでE、A、D、Gにチューニングする。しかし、これではおれのスタイルには不十分だった!またかなり早い段階で、主に高音弦のD、Gを演奏していたので、より太い音にするために低音域の周波数をもっと増やす必要があることに気づき、105、85、65、65の弦を使い始めた。しかし、最後の弦は音程を取るためにきつく張られてしまい、切れやすく、顔を怪我することもあったので、すぐにG弦を60に下げた。それによって切れにくく使いやすくなったので、今でも使っているが、本当に指が硬くなる。ライブで弦が切れた記録は3本。強く叩いたので、AとDとGの3本が切れてしまった。若くパンクだった頃は、すべてのライブを命がけで演奏していた。最高に興奮した時代だった!だが最近は、なるべく1度に1本づつ鳴らすことにしている。
年表2 1981年1月〜12月
1981年1月2日
ニュー・オーダー、レットフォードのポーターハウスで演奏
1981年1月3日
ニュー・オーダー、チョーリーのタットン・コミュニティ・センターで演奏。レックス・サージェントが主催し、彼のグループPRSがサポート
「ジョイ・ディヴィジョン初期の頃からのファンだったレックスは、2010年に首吊り自殺した」(『So This is Permanence』には彼からのイアン宛の手紙がある)
1981年1月4日
ニュー・オーダー、リーズのファンクラブ(ブランニガンズ)で演奏
「ここでロブは、その夜のDJ、マンディ・Hに恋に落ちた。彼女は非常に尊敬されているパンクDJで、一目惚れだったようで、彼は恋に悩む牛のように一晩中彼女の後をついていった。あれはいいギグだった。リーズではいつもいいギグがあった」
1981年1月12日
ニュー・オーダーはグラスゴーのエグリントン・トール・プラザで演奏。サポートバンドはボンバーズ・オーバー・ウィーンとポジティブ・ノイズ
1981年1月14日
ニュー・オーダーはリバプールのプラトーズ・ボールルーム(ミスター・ピックウィックズ)で演奏
1981年1月21日~23日
ニュー・オーダーはファースト・アルバムのレコーディングの準備のためカーゴ・スタジオに入る。その後7ヶ月間、アルバム制作に取り組んだ
「ムーブメントの曲のほとんどは書き上がっていたけど、ロブがデモを作るのがいいアイデアだと思ったんだ。カーゴ・スタジオを選んだ理由は2つ。素晴らしいサウンドが得られたし、ジョン・ブライアリーはとても素晴らしいエンジニアだったから。そして、練習場所が最悪で、どうしても出て行かなければならなかった。以上、3つの理由だ!」
1981年1月22日
ニュー・オーダー:「セレモニー」(FAC 33)
ランアウト・グルーヴ1:ずっと見てる
ランアウト・グルーヴ2:今、君がここにいて一緒にいてくれたらいいのに
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
追加録音:EARS(ニュージャージー州トレントン)
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル
1981年3月14日にイギリスのチャートにランクインし、5週間チャートに留まり、最高位は34位
1981年1月26日
ニュー・オーダーは、ロンドンのマイダ・ヴェールにあるBBCランガムIスタジオで、ジョン・ピールとの最初のセッションを録音した
ジョン・ピール録音トラックリスト
エンジニア:デイブ・デイド
プロデュース:トニー・ウィルソン(別のトニー・ウィルソン)
「これは最高に光栄な事だったし、やってみて本当に良かった。文字通り『ごちゃごちゃすることは一切なく』、セッティング、マイキング、サウンドチェックを含めて最大3時間の予約だった。おかげで、アドレナリンが溢れる、まさにライブバージョンが生まれた。より真実味のあるバージョンだ。時間切れになると、文字通り追い出された」
1981年2月
ニュー・オーダーは、ジョイ・ディヴィジョンの次のアルバム『Still』に収録される「The Kill」と「The Only Mistake」のオーバーダビングのため、イズリントンのブリタニア・ロウ・スタジオに入った
「とても奇妙な感覚だった。『Closer』の後、ブリタニア・ロウに戻ってきただけでなく、ジョイ・ディヴィジョンの曲にも取り組んでいるだなんて。奇妙な、幽体離脱のような感覚だった。あの環境で再びイアンのボーカルを聴けて嬉しかったし、素敵な思い出が蘇ってきた。マーティンと再会するのは奇妙だったが、プロフェッショナルな関係を保っていた」
1981年2月6日
ニュー・オーダーはコマンチ学生組合で演奏。マンチェスター工科大学。サポートバンドはストックホルム・モンスターズとフォーリン・プレス
「ロブがハワード・“ジンジャー”・ジョーンズと初めて出会ったのもここ。彼は全く資格がないにもかかわらず、事実上その場で雇われ、後にハシエンダとなる場所を探すことになった。最終的に彼らは元ボートのショールームに落ち着き、ニュー・オーダーはクラブ建設のための融資に対して巨額の個人保証に署名しなければならなかった。彼らは建物を25年間借りた」
1981年2月7日
ニュー・オーダーはノーサンプトンのロードメンダーズで演奏。サポートバンドはストックホルム・モンスターズ
1981年2月9日
ニュー・オーダーはロンドンのヘブンで演奏。サポートバンドはセクション25とストックホルム・モンスターズ
「ロブはこのショーのために、ブリタニア・ロウからピンク・フロイドが考案した4チャンネルPAシステムを借り、マーティン・ハネットにサウンドミックスを依頼した。4チャンネルPAシステムは、ジョイスティックコントローラーで接続された2つのステレオシステム。観客の前に通常のステレオセットアップを1つ、後ろにもう1つのシステムを設置する。ジョイスティックを使うと、音響担当者の裁量で、4つの煙突と建物の周囲に音をパンすることができた。だが残念ながら、誰もヘブンの形状を考慮していなかった。そこは正方形の空間ではなかった。また、マーティン・ハネットの形状も考慮されていなかった。彼もまた正方形ではなかった。サウンドチェックの後、開場直前に到着した彼は、正気を失っていた。マーティンは楽しんでいるようだったが、やたらと効果音が飛び交い、バンドの音をかき消してしまう「非常に混乱した」サウンドだったという報告があった。おれたちは、このシステムを後に、より良い効果で使用していくことになる」
1981年2月14日
ピーター・フックがBBCラジオ1の『ウォルターズ・ウィークリー』でインタビューを受ける
1981年2月16日
ニュー・オーダーの最初のピール・セッションの放送
1981年2月17日
ニュー・オーダーがミドルズブラのロック・ガーデンで演奏
「おれたちが到着したとき、そこで働いていたヘルズ・エンジェルスが笑っていたのを覚えている。裏口に上がる階段はなかった。彼らは階段を隠していて、おれたちが中に入ると「靴を擦りむかないでくれよ、ナンシー・ボーイズ」と言って冗談を言っていた。少なくともワルシャワ時代のスキンヘッドは去っていった」
1981年3月10日~13日
ニュー・オーダーは、ストロベリー・スタジオとイエロー・ツーでマーティン・ハネットと共に『プロセッション』と『エヴリシングズ・ゴーン・グリーン』をレコーディング
1981年3月21日
ニュー・オーダーは、セクション25とICIのサポートを受けてベッドフォードのボーイズ・クラブで演奏。このコンサートは、長年のサポーターであり、『From Heaven to Heaven: New Order Live: The Early Years』の著者であるデック・ヒッキーが主催
1981年3月22日
ニュー・オーダーは、セクション25のサポートを受けてブライトンのジェンキンソンズ・バーで演奏
「ブライトンの海岸沿いにある小さな地下のパブだった。スヌーカールームを楽屋として使わせてもらった。30人くらい来た。ブライトンは大好きだ」
1981年3月27日
ニュー・オーダーはトンネルヴィジョンのサポートで、ブリストルのトリニティ・ホールで演奏。これはニュー・オーダーの最初のギグで、約1年後にレコードのブートレグ『ザ・ドリーム』に収録され、大きな賛辞を得た
1981年4月8日
ニュー・オーダーはミニー・ポップスのサポートで、ノッティンガムのロック・シティで演奏
「おれたちは可能な限りファクトリー所属のバンドにサポートしてもらうようにしていた。ミニー・ポップスはオランダ出身で、素晴らしいグループで、特にリードシンガーのウォーリーは素晴らしかった。おれは彼らのシングル「ナイト・トレイン」が大好きだったので、後にプロデュースも手がけた」
1981年4月10日
ニュー・オーダー、バーミンガムのシーダー・クラブでミニー・ポップスのサポートを得て演奏
1981年4月17日
ニュー・オーダー、ファイフのセント・アンドリュース大学でフォーリン・プレスのサポートを得て演奏
「仕返しだ。金欠の頃はフォーリン・プレスのPAをよく借りていた。だから彼らにギグを何本か貸してやったんだ。そしてまた彼らのPAを使った!諸刃の剣の仕返しだろう?」
1981年4月18日
ニュー・オーダー、アバディーンのヴィクトリア・ホテルで演奏。フォーリン・プレスのサポートで演奏
1981年4月19日
ニュー・オーダー、エディンバラのヴァレンティノズで演奏。ビジターズのサポートで演奏
1981年4月22日
ニュー・オーダー、シェフィールドの『アトモスフィア』でトンネルヴィジョンのサポートをで演奏
「アニックがこのギグに来てくれて、彼女に会えて嬉しかった。彼女は次の夜も来てくれた。おれはトンネルヴィジョンが大好きだった。マーティン・ハネットが最初のシングルをプロデュースし、おれは彼らの2枚目のシングルと、その後のいくつかのプロデュースを手掛けることになった。これが、おれとバーニーとスティーブがプロデュースを始める時期の始まりだった。バーニーはセクション25とハッピー・マンデーズを、スティーブとジリアンはシック・ピジョンをプロデュースした(ちなみに、シック・ピジョンはマイケル・シャンバーグのガールフレンドであるスタントン・ミランダと、後にコーエン兄弟の映画音楽で名声を博したカーター・バーウェルの2人)」
1981年4月23日
ニュー・オーダーはグラナダTVの『セレブレーション』に出演し、2セットを演奏した。1セット目:「トゥルース」、「プロセッション」、「セレモニー」、「ダウツ・イーヴン・ヒア」、「トゥルース」、「I.C.B.」、「チョーズン・タイム」、「デジタル」(インストゥルメンタル)、「チョーズン・タイム」、「デナイアル」(当時のタイトルは「リトル・デッド」)。2セット目:「ドリームズ・ネヴァー・エンド」、「ザ・ヒム」、「プロセッション」、「センシズ」、「I.C.B.」、「デナイアル」、「セレモニー」、「イン・ア・ロンリー・プレイス」。この番組は1981年6月18日に放送され、以下の曲のみが演奏された。「Truth」「Ceremony」「I.C.B.」「Chosen Time」「Denial」「Dreams Never End」
「音響デスクは組合が管理していたため、触ることは許されなかった。ロブはクリス・ネーグルに音響を担当させたかったので、ロブが何度も演奏を取りやめると脅し、組合代表と文字通り頭をぶつけ合うという、初めてのことではない大規模な対立があった。結局、代表が勝利した。この結果、デック・ヒッキーのダンスが主な原因となり、非常に不快な番組となった(YouTubeで視聴すれば、その理由がわかります)」
1981年4月24日~5月4日
ニュー・オーダーはストロベリー・スタジオに入り、マーティン・ハネットと共にデビューアルバム『ムーブメント』の制作を開始。その後、ロンドンのケンジントン・ガーデンズ・スクエアにあるマーカス・スタジオと、ロンドンのノッティング・ヒルにあるサーム・ウェストに移動してミキシングを行った
1981年5月6日
ニュー・オーダーは、ロンドンのケンティッシュ・タウンにあるフォーラム・ボールルームで演奏。サポートはトンネルヴィジョンとセーフハウス
「これは、コリン・フェイヴァーとケビン・ミリンズが設立したプロモーション会社、ファイナル・ソリューションがプロモーションしたニュー・オーダーの最初のギグだった。彼らは、本当に奇妙な場所で奇妙なことをするのが大好きだった。これはレイブの先駆けであり、レイブミュージックのないレイブだった。ギグのために人々をバスで奇妙な場所に連れて行くというアイデアだった。彼らとは親しい友人になった」
1981年5月7日
ニュー・オーダーはトンネルヴィジョンのサポートで、ロンドンのタルボット・タバナクルで演奏
「フォーラムが満席だったので、タバナクルが追加された。素敵な会場だったが、小さかった。まるでシークレット・ギグのようで、雰囲気は最高だった」
1981年5月8日
ニュー・オーダーはセクション25のサポートで、レディングのユニバーシティ・スチューデント・ユニオンで演奏
「これはニュー・オーダーにとって初のアンコールになるかもしれない。セクション25のラリー・キャシディの提案で、やってみようと思った!セクション25のメンバー全員ととても仲良くなれた。彼らはおれの意見では非常に過小評価されているバンドである」
1981年5月13日
ニュー・オーダーはヨーロッパツアーを開始し、フランスのパリ、パレ・デ・ザールでマラリアのサポートを受けながら演奏
「マラリアは女性だけのグループだった。ほとんどのメンバーとうまくやっていけたから最高だった。ニュー・オーダーの密造酒業者、ダンカン・ヘイサムも一緒だった。イギリスで彼と出会って、一緒にやってきて、バーニーの最初のキャビンボーイになったんだ。バーニーは無給の奴隷を持つのが大好きだった」
1981年5月15日
ニュー・オーダーは、マラリアのサポートを受けて、ベルギーのブリュッセルにある『ランシエンヌ・ベルジーク』で演奏した。このショーはアニク・オノレがプロモーションを担当した。「トゥルース」と「エヴリシングズ・ゴーン・グリーン」は、後に『ザ・ファクトリー・コンプリケーション』に使用された
「戻ってきたのは奇妙な感じだった。イアンとジョイ・ディヴィジョンの思い出がたくさん蘇った。彼らの亡霊がいたるところに潜んでいて、背筋がゾッとした」
1981年5月16日
ニュー・オーダーは西ドイツ、ハンブルクのマルクトハレで演奏し、サポートはマラリア
「このギグはクレイジーだった。観客は筋金入りの極右スキンヘッドでいっぱいだった。ステージに登場した時、人生最大のショックを受けた。彼らはおれたちを嫌っていて、おれはすぐに木製のナックルダスターで頭を殴られた。ステージのあちこちに瓶が飛び交っていた。おれたちは大失敗してしまったので、最後に「Everything's Gone Green」を何度も何度も演奏して仕返ししようと考えた。なぜかは聞かないでくれ。それは約25分続いた。おれたちは彼らを退屈させて従わせた。その後、楽屋に戻ると、スキンヘッドたちはおれたちのライダーを飲んで座っていた。おれたちは彼らを連れ出したが、その後、彼らがおれたちのバッグを全部盗んだことに気づいた。最後に笑う者は最後に笑う、そうだろ?」
1981年5月17日
ニュー・オーダーは、デンマークのコペンハーゲン、サルトラガレットで演奏。サポートバンドはBeforeとBasement Level Sounds
「ここのプロモーターは素晴らしかった。スカンジナビアツアー全体を回ってくれたんだ。『ピーター、君は度胸がないといけない!』って言って、ジャグリングを教えてくれたのは彼だった」
1981年5月19日
ニュー・オーダーは、スウェーデンのストックホルム、ロキシーで演奏。サポートはマラリア
1981年5月22日
ニュー・オーダーは、スウェーデンのヨーテボリ、ロボ・ディスコで演奏。サポートバンドはマラリア
1981年5月25日
ニュー・オーダーは、ノルウェーのオスロ、シャトー・ヌフで演奏。サポートバンドはCosmic OverdoseとBasement Level Sounds
1981年5月27日
ニュー・オーダーは西ベルリンのSO36クラブで、マラリアのサポートを受け演奏
「バーナードがステージで『フー!』と言ったのはおそらくこれが初めてだろう」
1981年6月
ベン・ケリーがハシエンダの建物を調査するため、初めてウィットワース・ストリートを訪れた
「ロブとトニーはピーター・サヴィルにハシエンダをゼロから設計するよう依頼していた。そのアイデアは彼を死ぬほど怖がらせたので、打開策を探して、ロンドンのディンディスク・オフィスで受賞歴のある『オーケストラ・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク』のジャケットで共同作業した際に出会ったベン・ケリーを推薦した。ベンは当初、この仕事に尻込みしていたものの、この素晴らしい機会を両手で掴んだ…サヴィルの安堵のため息が聞こえたことは間違いない」
1981年6月18日
ニュー・オーダー初のテレビ出演となる「セレブレーション」が放映。放送曲:「Dreams Never End」、「I.C.B.」、「Chosen Time」、「Denial」、「Ceremony」、「Truth」
1981年6月20日
ニュー・オーダー、グラストンベリー・フェスティバルに出演
「ホークウインドとの共同ヘッドライナーとして、その前に演奏した。終末後の世界を彷彿とさせる、開放的なフェスティバルの雰囲気で、バイカーやヒッピーでいっぱいだった。今とは全く違って、とても気楽な雰囲気だった。会場のいたるところでドラッグが公然と売られていた。これがグラストンベリーでの3回のヘッドライナー出演のうちの最初のものだった」
1981年7月
ニュー・オーダーのデビューLPの最終仕上げが行われた。一方、ウィットワース・ストリートにあるハシエンダ・ビルの賃貸契約が締結された
「我々の没落における重要な出来事だった。提示された賃貸契約は25年という途方もない期間で、費用と責任は莫大なものだった。ロブとトニーはより短い期間を求めたが、オーナーは「今は他に関心を持っている人がいる」と見事なダブルブラフを仕掛けたため、彼らは慌てて契約してしまった」
1981年9月
ニュー・オーダー:「セレモニーII」(FAC 33)
ランアウト・グルーヴ1:これが出来事が私を不安にさせる理由
ランアウト・グルーヴ2:あなたが今ここにいてくれたらいいのに
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
スリーブデザイン:ピーター・サヴィル
セカンドリリース。今回はジリアン・ギルバートをフィーチャー。
「ロブがバンドでの彼女の地位を確立しようと奮闘した」
1981年9月11日
ニュー・オーダー:「プロセッション/「エヴリシングズ・ゴーン・グリーン」両A面
ランアウト・グルーヴ1:ソフト
ランアウト・グルーヴ2:ハード
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
ロンドン、サーム・ウェスト・スタジオでミックス
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル
1981年10月3日にイギリスのチャートにランクインし、5週間チャートに留まり、最高位は38位。グレーの「チップボード」カード紙に、黒、赤、青、茶、黄、オレンジ、緑、水色、紫の9色のスリーブで入手可能
「「Procession」は「Ceremony」とは全く対照的だった。スティーブが歌詞とボーカルのフックを書いて、すごくポップで即興的なサウンドだった。また、アメリカで大金を払って買ったヤマハのアンプのいい使い道を見つけるのにも役立った。アンプにはスプリングリバーブが内蔵されていて、振ると素晴らしい音が鳴った。それで、思いっきり振って録音し、曲に取り入れた」
1981年9月19日
New Orderはフィンランド、ヘルシンキのKulttuuritaloで演奏。「Temptation」のライブ初披露
「「Temptation」はボーカルパートが出来ていなかったのでインストゥルメンタルだった。当時はボーカルと歌詞はグループで作っていたが、バーニーは酔っ払っていると「生」で即興で演奏していた。セクション25がサポートし、ギタリストのポールは陸路でギグに向かった。だから行きと帰りに1週間かかった。ギグ会場で、バーニーはポケットにウォッカのボトルを隠していたところを見つかり逮捕された。彼が連行される時、本当に可笑しくてたまらなかった。ヘルシンキでは酒類に関する法律が非常に厳しく、公共の場でのアルコール販売は禁止されていることが判明した」
1981年9月23日
ニュー・オーダーはシェフィールド工科大学フェニックス・ホールで演奏。セクション25とストックホルム・モンスターズがサポートアクトを務めた
1981年9月25日
ニュー・オーダーはウォルサムストウのアセンブリー・ルームズで演奏。エアストリップ・ワンとドクター・フィルスがサポート・アクトを務めた
1981年9月26日
ニュー・オーダーの「ミステリー・ギグ」、ケント州ボディアム城。洪水のため中止
「これはファイナル・ソリューションのプロダクションで、マーブル・アーチのスピーカーズ・コーナーからバスが出発する予定だった。誰も行き先を知らないようにするためだ。バスが乗客を乗せてギグ会場まで送り、そしてまた戻ってくるという計画だった。天候のせいで中止になってしまったのは残念だった。会場は素晴らしく、おれたちはそこで素敵な午後を過ごした。特典として、チケット購入者にはロンドンでケヴィン・ミリンズが経営するゲイ・ナイトクラブ「ヘブン」への無料入場券が配布された。この特典によって啓示を受けたファンもいたと思う」
1981年10月
ハシエンダの建設が始まる。株式の半分はFCL、残りの半分はニュー・オーダーの新しい有限会社ゲインウェストが保有
「これはおれたちにとって一大イベントだった。建設の当初の見積もりは7万ポンドだったが、すぐに14万4000ポンドに跳ね上がり、最終的には55万ポンドになった。なぜおれたちが驚かなかったのかは永遠に分からないだろう。すでに制御不能な状態だったのは明らかだった。問題は、おれたちには個人的なお金が全くなかったこと。そしてそれをどうにかしようとはしなかった。すべてが馬鹿げているように思えた。おれたちは週に30ポンドしか稼いでいなかった。ミュージシャンであるおれにとって、入場無料、ドリンク無料の自分のクラブというアイデアは、とてつもなく魅力的に思えたんだ。おれはすっかり魅了された。なんてバカなんだろう」
1981年10月8日
ジョイ・ディヴィジョン:Still (FACT 40)
ランアウト・グルーヴ1:鶏は止まらない
ランアウト・グルーヴ2:鶏は止まらない
ランアウト・グルーヴ3:鶏は止まらない
ランアウト・グルーヴ4:鶏はここで止まる
「ランアウト・グルーヴはイアンが自殺する前に見たとされる映画、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『ストロシェク』(鶏がホットプレートの上で踊るシーン)への言及。おそらく彼の気持ちのメタファーなのだろう」
ジョイ・ディヴィジョンの最後のアルバム。入手困難だった曲や正式に未発表の曲を含む2枚組LP。最後のコンサートのライヴ音源も収録
最初の5000枚には、コレクターズアイテムのヘシアン布カバーが付属
レコーディングとミックスは、マンチェスターのストックポートにあるストロベリー・スタジオと、ロンドンのブリタニア・ロウ・スタジオ
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル
1981年10月17日にイギリスのチャートにランクインし、5週間チャートに留まり、最高位は5位
1981年10月23日
ニュー・オーダーは、クリスピー・アンビュランスのサポートを受け、ブラッドフォード大学で演奏
1981年10月26日
ニュー・オーダーは、ビーチ・レッドのサポートを受け、マンチェスターのリッツで演奏
「Hurt」は、おれたちの最初の完全プログラムされたシーケンサー曲
「地元でのギグにしてはひどい結果になってしまった。ジリアンは「センシズ」を音程を外して演奏した。おそらくモジュレーションホイールをぶつけてしまい、どうしたらいいのか分からなかったのだろう」
1981年11月6日
ニュー・オーダーはカリフォルニア州パサデナのパーキンス・パレスで演奏
「アメリカに戻ってきて本当に良かった。到着してすぐに散歩に出かけたら、横断歩道を渡っていると思ったら、バイクの警官に止められた。道路を渡っていると思ったんだ。でも、イギリス人だと分かると、解放してくれたんだ」
1981年11月7日
ニュー・オーダーは、カリフォルニア州ロサンゼルスのマーケット・ストリート・シネマで、シンプル・マインズのサポートを受けて演奏
「シンプル・マインズが前座として出演してくれたのだが、彼らは自分達をヘッドライナーのように見せかけるために登場を遅らせるという小技を使った。テリーとおれはすぐに気づき、援護なしで彼らの楽屋に押しかけ、ドアを蹴り飛ばして「出てこい、クソ野郎!」と叫んだ。楽屋内の連中は少女のように叫んでいた。彼らが出て来て演奏を始めるまで、おれたちは蹴り続けた。マンチェスターのファスト・ブリーダーで一度騙されたことがあったので(『自伝アンノウン・プレジャーズ』参照)、二度とは騙されなかった。観客はまばらだったが、伝説によると両方のバンドの演奏は素晴らしかったらしい」
1981年11月9日
ニュー・オーダー、カリフォルニア州サンフランシスコのI-Beam Clubで演奏
「世界中で一番好きなギグ会場の1つ。歴史に満ちた、本物のファンキーな場所だ」
1981年11月10日
ニュー・オーダー、カリフォルニア州バークレーで演奏
「このギグは実現しなかったと思う」
1981年11月15日
ニュー・オーダー、オンタリオ州トロントのメイソニック・テンプルで演奏
「初めてのカナダ。素敵な場所だった。食事は素晴らしく、まるで故郷のようだったが、フランス風だった」
11月17日
ニュー・オーダー、マサチューセッツ州ボストンのザ・チャンネルで演奏
11月18日
ニュー・オーダー、ニューヨークのザ・リッツで演奏
11月19日
ニュー・オーダー:ムーブメント(FACT 50)
ランアウト・グルーヴ1:気に入ったものを聞いたら
ランアウト・グルーヴ2:出てくるよ!
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオとイエロー・ツー・スタジオ、ロンドンのマーカス・ミュージック・スタジオとサーム・ウェスト・スタジオで録音
エンジニアはクリス・ネーグル、アシスタントはジョンとフラッド
プロデュースはマーティン・ハネット
デザインはピーター・サヴィルとグラフィカ・インダストリア
1981年11月28日にイギリスのチャートにランクインし、10週間チャートに留まり、最高位は30位
トニー・ウィルソンはチャートの順位を「非常に悪かった」と表現している。OMD、ヒューマン・リーグ、ヘブン17、デペッシュ・モードはすべて、秋にチャート上位にランクインするアルバムをリリースした
「それほど気にしていなかった。ジョイ・ディヴィジョン後の反発は覚悟していた。楽しみながら、ありのままでやっていたんだ」
1981年11月19日
ニュー・オーダー、ニューヨークのウクライナ国立公会堂で演奏
「素晴らしいギグではなかった。ホールが大きすぎて騒々しかったのを覚えている。すべてが台無しだった。ビデオを見ればきっと同意してもらえると思うが、かなり抑制されたパフォーマンスだった。マイケル・シャンバーグが撮影と編集を担当し、ニュー・オーダーの最初のビデオ作品『タラス・シェフチェンコ』となり、最終的に約2年後にファクトリーとファクトリーUSからリリースされた」
1981年11月21日
ニュー・オーダー、ニュージャージー州トレントンで演奏
1981年11月22日
ニュー・オーダー、ニューヨークのペパーミント・ラウンジで演奏
マイク・ピカリングがロッテルダムから戻り、ハシエンダのブッキング担当を依頼された。開業日は1982年5月21日に決定
「ハシエンダの建設には多くの問題があった。まず、元の木製バルコニーを使用しようとした際に多額の費用がかかり、3つの異なる位置で試したにもかかわらず、消防隊から「耐火性」証明書の発行を拒否され、使用を断られてしまった。彼らはコンクリート製の新しいバルコニーを1から作らなければならなかった。トニーとロブはステージをどこに設置するかで議論した。ロブは端に置きたいと考えていたが、トニーは真ん中に置きたいと考えていた。結局トニーが勝ち、ステージはクラブの最も窮屈な場所に設置され、ひどい音響と視界の悪さを生じさせた」
1981年12月
ニュー・オーダーは、サンタクロースの格好でグラナダTVの特別番組に出演するという噂があったにもかかわらず、出演しなかった
「サンタクロースがたくさん出ていて、トニーが『サンタクロースの格好をしたニュー・オーダーだ!』と言ったかもしれない。でも、おれたちはそうしなかった。覚えている。バーニーがサンタクロースの格好をしているところを想像してみて。彼は、あのクソッタレ、スクルージみたいなもんだ」
1981年12月19日
ニュー・オーダー:「Everything's Gone Green」(FBNL8)
ランアウト・グルーヴ1:レグルスはなぜローマに戻ったのか?
ランアウト・グルーヴ2:向こう側へ
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
ロンドンのサーム・ウェスト・スタジオでミックス
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:ニュー・オーダー
デザイン:ピーター・サヴィル
マーティン・ハネットは弁護士に、ファクトリーに対する訴訟手続きを開始するよう指示
ベストベースリフ10選(実際は13選)
1. 「Age of Consent」
2. 「Leave Me Alone」
3. 「Recoil」
4. 「Waiting for the Sirens Call」
5.「Krafty」
6. 「Shine」(Monaco)
7. 「60 Miles an Hour」
8. 「Regret」
9. 「Vicious Streak」
10. 「Primitive Notion」
II. 「Someone Like You」
12. 「Too Late」
13. 「14K」(Revenge)
「誘惑に負けず、我々を悪から救い給え」(マタイによる福音書 6:13)
ニュー・オーダーの技術的革命は4つの曲を通して起きた。BOSS Dr-55のリズムに血を注いだ「Truth」、パルスシンセサイザーを初めて使用し、マンチェスターのバンドとして初のポストパンク/ダンストラックを制作した「Everything's Gone Green」、そして「Temptation」と「Hurt」だ。
曲作りを始める時はいつも同じプロセスを経ていた。どんな曲にしたいのか?速くて、ダンスっぽくて、力強くて、キャッチーなものにしたいのか?それは決して変わらなかった。速くてダンスっぽい曲は常に最も難しく、ほとんど無かった。その間、ドラムマシンの出力からの電圧制御でシンセサイザーをトリガーし、気に入ったものになるまでさまざまなリズムをプログラムする実験を始めた。それほど時間はかからなかった。それはとても斬新だったので、おれたちがやっていたことはすべて素晴らしく聴こえた。「Temptation」がすぐに続き、初めて完全にプログラムされたシーケンサー曲は「Hurt」だった。
ロンドンのAdvision Studiosで新たなスタートを切るためにレコーディングされた「Temptation」と「Hurt」は、マーティン・ハネット抜きでの最初の曲であり、セルフプロデュースとしてのデビュー曲であるだけでなく、「Truth」と「Everything's Gone Green」で学んだ教訓を活かして、さらに大きな飛躍を遂げた曲だった。
これらの曲は、クラフトワークとジョルジオ・モロダーへの愛を表現した曲でもあった。イアンが初めておれたちにこの冷徹なドイツ人グループを紹介してくれたのだが、すぐにモロダーへのさらなる憧れが湧いてきた。特にドナ・サマーとの「I Feel Love」や、スパークスの素晴らしい「Number One Song in Heaven」でのプロデュースが印象的だ。彼のソロアルバム『E=MC2』は大きなインスピレーションとなり、「Temptation」へとおれたちを導いてくれた。今振り返ってみると、これらの4曲は、誰にとってもそうでなくても、おれたちにとっては間違いなく画期的な出来事だった。ニュー・オーダーにとって、これらの曲は全く新しい作曲、レコーディング、演奏の方法の先駆けとなった。クラフトワークのSF的な未来主義と、ファクトリー・バンドならではの荒削りなエッジを独自に融合させたものだったのだ。例えば「Everything's Gone Green」を聴くと、曲全体を通して、論理に反する脈動の変化が見られるが素晴らしいサウンドだ。また、「Temptation」の12インチにはミスが散りばめられているが、打ち込みとアコースティックが融合し、これもまた素晴らしい効果を生み出している。まるで、おれたちが表現し、封じ込めようと苦闘していた素晴らしい何かを手にしたかのようだ。そのおかげで、曲はより繊細で、親しみやすく、人間味あふれるサウンドになった。
アドビジョン・スタジオでのセッションは順調に進んだ。おれたちの目標は、「Temptation」と「Hurt」(当初の曲名は「Cramp」)を録音し、完成させることだった。バーニーとおれは、録音とオーバーダビングを整理し、主導権を握った。キーボードとドラムマシンを録音し、メロディーの量と曲の構成に満足するまで、アコースティック楽器を重ねていき、ボーカルもジャムセッションした。バーニーは悪魔のようなアルコールの力を借りて「ライブ」で試され、最高の部分はスタジオで磨き上げられていった。彼はまた、技術的には「ダ・ディー・ディーイング」と呼ばれる手法を開発した。これは、バックトラックにハミング、口笛、スキャットなどを乗せて、ボーカルラインを仮入れするものだった。これが素晴らしい瞬間を生み出した。「Temptation」の「Oohs」がその最初の例だ。ためらいもなく、矛盾を恐れることなく、おれのベースラインはキャリアを通して多くのボーカルラインのインスピレーションとして使われることが多く、おれはそれをとても誇りに思っていた。バーニーは機嫌が良い時にはおれを「ミスター・メロディー」と呼んでいたが、残念ながらそのようなことはあまりなかった。「Hurt」は全く別の話だった。これはニュー・オーダー初のシーケンサー曲だった。これは、アナログのモノフォニック・ベースラインをシーケンサーにプログラムすることで実現させた。
ギークアラート シーケンサー
アナログシーケンサーは、プログラムされた音楽を記録・再生できるデバイスです。これは、アナログ電子機器を用いて、ノート情報や演奏情報を複数の形式(通常は電圧/ゲート情報やトリガー情報)で処理することで実現されます。シーケンサーは、クラフトワークやジョルジオ・モロダーのような、反復的な音楽、つまり反復によってトランスのような感覚が高められた音楽の作曲とライブ演奏の両方のために設計されました。プログラミングはステップごとに行われました。「ステップシーケンサー」では、音符は32分音符、16分音符、8分音符、4分音符など、異なる長さの等しい時間間隔に丸められます。シーケンサーにはスイングサウンド、つまりいわゆる「リアルな感覚」はありませんでしたが、後に実現されました。
シーケンサーは非常に硬く、正確で、ロボットのような出力をした。これはまさにバーニーが求めていたものだった。おれの記憶が正しければ、この最初のプログラミング方法はバイナリコードと呼ばれ、オンとオフの組み合わせだった。そして、電子工学の天才であるマーティン・アッシャーがおれたちのために作ったPowertranの部品を使って、最初の自家製シーケンサーを組み立てた。これに、多くの家庭用オルガンに搭載されていたドラムマシンであるClefバンドボックスをカスタムメイドで改造したものが加わった。マーティン・アッシャーはおれたちのために改造し、ドラムサウンドごとに個別の出力を持つプログラム可能なドラムマシンに改造した(当時マーティン・ハネットは、個別の出力は最高の空間録音とオーディオ分離に絶対に不可欠だとおれたちに「叩き込んで」いた)。マーティン・アッシャーは素敵な人物で、おれたちの最初のオーストラリアツアーに同行し、ボロボロのキーボードコレクションを正常に動作させてくれた。
エレクトロニカへの最初の一歩は、電子楽器(シンセサイザー、ドラムマシン、そしてすぐにサンプラーなど)を用いて作られた音楽と定義されていたが、電子音に支配されることで、全く新しい、固有の問題が生じた。ドラムマシンとシーケンサーはどちらもラックマウント型で見た目は良かったのだが、非常に信頼性が低かった。
セッションの終わりに、おれたちは完成したトラックに非常に満足していた。少なくともおれとバーニーはそうだった。数年後、スティーブは「Temptation」にどれほど満足していなかったかをおれたちに話した。スネアドラムが片側にパンされているように聴こえ、彼はそれを嫌っていたが、20年近く経ってからおれたちには言わないことに決めた。典型的なスティーブである。当時、おれたちは明らかに彼の沈黙を承認と受け取った。
エンジニアのピーター・ウーリスクロフトは、英国で初めて入手可能になったソニーPCM 1610デジタル編集システムの1つを用いてマスタリングを行い、技術的に革新的なEPを完璧に仕上げてくれた。これは、おれたちの新しい前向きな姿勢に非常に合致していた。同時に、7インチのショートバージョンもレコーディングするように説得された。おれたちはあまり乗り気ではなかったが、トニー・ウィルソンはそれが不可欠だと言った。トニーは、この曲はバーニーがイアンの声を真似るのではなく、初めてバーニー自身の声で書いた曲だと考えており、ラジオで流す必要があると考えていたのだ。
この曲は全英チャートで29位まで上昇した。自分たちだけでプロデュースした最初の作品としては悪くない成績だった。また、アメリカでも最初の注目すべき成功を収めた。ニューヨークのFM局WLIRがこの曲を推奨し地域ヒットした。おれたちは全く気づいていなかったが。
ジョイ・ディヴィジョンではこうした「エレクトロニックなアイデア」が抑圧されていると感じている人がいると聞いていたが、全くそうではなかった。それは、容易に入手できるようになった新しい技術を使うことでの自然な流れだった。
この新しく入手可能な機材は非常に高性能で高価だった(1982年当時、ARP QuadraとPro Oneは合わせて3,000ポンド)。そのため、この新しい技術を買える唯一の存在であった白人中流階級のシンセサイザー・ボーイバンドが数多く誕生した。こうした音楽を作る機材が労働者階級の人々に容易に入手できるまでには何年もかかったが、ありがたいことに、これがアシッド・ハウスという新たな革命へと繋がった。しかし、ロブは資金繰りに苦労することはなかった。彼は、より未来的で高価であればあるほど良いと考えていた。興味深いことに、おれたちはシンセサイザーを使うために、ロックバンド、ジョイ・ディヴィジョンの資金を使っていたのだ。
『TEMPTATION』トラック解説
「Temptation」: 7.26
ああ、君の目は緑色…
アップテンポで、ダンサブルで、シンプル。『Temptation』は、おれたちがいつも真似しようとしたけれど、どうしても真似できなかった曲の1つになった。まさに唯一無二の曲だ。
まさに狂おしいほどのラブソング。力強いボーカルコーラスは、とても物悲しい。曲の冒頭で聞こえる叫び声は、雪が降っていることに気づいたロブとおれが、バーニーに雪玉を投げつけたところからきている。後に「アイズドロップ」として知られるようになったフレーズは、多くの若い女性の心を溶かし、ギグの後の楽屋で何度も使われた。「ああ、君の目は緑色かい?」
「Hurt」/「Cramp」: 8.13
君が気に入る男は僕だ!
1…2…3…4… ボコーダーのイントロから、この曲が他とは違うことが分かる。より大人っぽく洗練された曲で、ゆっくりとしたスタートから倍速のブレイクへと盛り上がり、メロディカと最初のヴァースを経て、またスローダウンしてドロップへと移っていく。Pro OneシーケンサーはA/Bスイッチとそれぞれ異なるシーケンスを備えていたため、この曲に最適だった。ジリアンはライブでそれをフリックしていたが、上手くいく時もあれば、下手な時もあった。
1982年3月、おれたちはストックホルム・モンスターズとツアーをしていた。おれは彼らのサウンドマンも務めていたので、このツアーは最高だった。ニュー・オーダーの機材のセッティング、サウンドチェック、そしてモンスターズのサウンドチェック、そして彼らのギグ、そしてニュー・オーダーとの共演を経て、最後に自分たちの機材を片付けるという仕事。だから、正直言って一日中、本当に充実していた。さらに、おれはモンスターズが大好きだった。彼らの姿勢も大好きだった。彼らは皆、おれと同じように労働者階級で、地に足のついた、マンチェスターのモストンとブラックリー出身の北マンチェスターの少年少女たちだった。
ツアーはロッテルダムまで順調だった。そこでまず驚いたのは、警備員がほとんどいないことだった。ただ大柄な男が1人いるだけだった。そして次に驚いたのは、オランダ人の平均的な身長だ。彼らは本当に背が高かった。警備員の少なさと、いつもより多かった観客。この2つが、その後の展開を大きく左右したのだった。
いつも通り演奏して、ステージを下りて、それでギグは終了という感じだった。アンコールはしなかった。だが観客たちはもっと演奏してほしいと叫び続け、誰もいないステージに向かってわめき散らしていた。おれたちは30分ほどのコンサートで十分だと思っていた。でも、彼らは明らかにそうは思っていなかったし、金を払った分を演奏させる気だった。いやそれとも、おれたちのことが本当に好きだったのだろうか?
その頃には会場の照明が点灯していた。どんな国でも、それは退場の合図になるのだが、それでも彼らは動こうとしなかった。警備員もいないので、彼らはその場に釘付けになり、大声でニュー・オーダーの演奏を要求していた。おれたちの仲間が機材を片付けるためにステージに上がったが、それでも観客は納得せず、ステージに向かって叫び続け、場内の緊張は明らかに高まっていた。
ギグで何かが起こりそうな時は、すぐに分かるものだ。敵意が最高潮に達する瞬間があり、大抵は数秒後には人々が物を投げ始める。案の定、瓶がクルーの頭上を飛んできてステージに激突し、我々のクルーは慌てて身を隠した。
また瓶が、そしてまた瓶がステージに叩きつけられ、クルーはステージを降りて舞台袖に隠れざるを得なかった。彼らが退散していくのを見て、手伝っていたストックホルム・モンスターズは激昂した。「おれたちが行って奴らをぶっ殺してやる!」と叫び、そしてまさにその通りにした。武器として木片を掴み取り、観客に向かって走り出して叫んだ。「全員、ぶっ殺せ!」それに対し、オランダ人たちはブーイングを続け、物を投げつけ続けた。
我々の陣頭指揮を執ったのは、モンスターズのローディー、スリムだった。後におれたちのローディーにもなり、今もマンチェスター・アカデミーのドア番をしているスリムだ。彼のすぐ隣には、おれたちのサウンドシステムを管理するオジーもいた。彼は自分の機材を心配していた。それもそのはず!ステージは確保されていたが、オジーはますます苛立ちを募らせていた。足元にはオランダ人がボトルを今にも投げつけそうな勢いで持ち上げていて、オジーは「このバカ野郎、そんなもの投げたらぶっ殺してやる」と叫んでいたが無駄だった。そんな「クソ英語」を理解してくれなかったのだ。オランダ人が酒瓶を投げると、オジーは仕返しにステージから飛び降り、そのガキの襟首を掴んで、ぶっ叩きのめした。少なくとも、そうしようとした。
他のクルーも、酒場で喧嘩をするカウボーイのようにステージから飛び降りて来た。スリム、モンスターズ、ロブもいた。もちろんバーニーは姿を消していたし、スティーブとジリアンも居なかった。おれは舞台袖で見ていて、仲間がうまくやっていたので参加するつもりはなかった。
ところが、突然、事態は悪化した。モンスターズは撤退し、オジーと戦っていたガキがオジーをひっくり返し、仲間が頭を蹴ろうとした。
「くそっ、こんなの許せない」と思い、飛び降りてガキを掴み、オジーがおれの後ろで立ち上がった時に殴りつけた。その時、叫び声が聞こえた。「奴はクソみたいなバンドの奴だ! グリップ・ヘム!」
どういう意味だろう?と思った。
しまった。みんなおれに襲いかかってきた。バンドのメンバーだったおれは、賞品の七面鳥みたいなものだった。この段階ではおれたちのメンバーの姿はどこにもなく、ただ怒り狂った背の高いオランダ人野郎どもがおれに襲いかかってくるだけだった。そのうちの1人がおれの鼻を真正面から殴りつけ、おれは後ろに吹き飛ばされた。それで終わりだった。おれは壁に頭を強く打ち付け、意識を失った。閃光のように。その後も意識を失ったことは1度もなかったが、まるで灯りが消えたように意識を失った…
さて、次に何が起こったのか、スリムとデイブ・ピルスが乱闘の中に戻ってきて、オランダ人観客がまだおれを蹴っているところに突進してきたのだった。スリムがゴミ箱を振り回しながら、奴らを蹴り飛ばしたり、叩きつけたりして、ついにはおれを掴んで、文字通りブーツと拳の集中砲火の下から引きずり出してくれた。彼らは命の恩人だ。
でも、意識を失っていた当時のおれはそんなことは何も知らなかった。バックステージのフライトケースに座っていて、誰かがおれに「フッキー、フッキー、大丈夫か?」と聞いてきたのを覚えている。おれは「コーンフレークにミルクをもう一杯かけてもいいかな、ママ」と答えた。すると、実際にピンクの象が空を飛んでいて、彼らは「いったい何を言ってるんだ?脳震盪起こしてるに違いない」って言っていた。それから、周りに近寄ってくる誰彼も構わず「お前らどこにいたんだよ、クソ野郎ども!おれがボコボコにされてる間、このクソ野郎ども!」と叫んでいたのを覚えている。後で分かったのだが、バーニーは実はバルコニーのピアノの下に隠れていたのだ。やつは降りてこなかった。最悪だ。スティーヴとジリアンもバルコニーに座って見ていた。そんなバンド仲間に乾杯!
ああ、惨めな顔。顔中、大きな痣だらけ。眉毛はフランケンシュタインの怪物みたいに突き出て、鼻には乾いた血が詰まっている。正直言って、これ以上ひどい目に遭ったことは滅多にない。
そして次に誰が現れたか、想像もつかないだろう? でっかい用心棒と、それに続く激怒したプロモーターが、あの不朽の名言を吐いた。「もう2度とこの街で演奏するな!お前らのせいだ、演奏時間が短すぎる上にアンコールもない!」
「もう終わりだ!」彼は吐き捨てるように言い放ち、オランダツアーを中止すると脅した。彼をなだめるため、次回はもっと長く演奏することを約束した。1曲追加したのだ。
その後、彼はA4サイズのプリントアウトを会場で配布し「警告!このバンドは23分しか演奏しません。アンコールはしません!」と書いた。もちろんオランダ語で。
それは嘘だった。少なくとも30分は演奏したんだぞ。
「騒音は磁石のように卑劣な奴らを引き寄せる」
おれにとって、今話している1982年から1984年は黄金期であり、ニュー・オーダーの一員であることを本当に楽しんでいた時期であり、とても懐かしく思い出すことができる。
ついにバンドのリハーサルルームの問題が解決された。ジョイ・ディヴィジョンとして、おれたちはマンチェスターのリトル・ピーター・ストリートにあるT・J・デヴィッドソンの古い倉庫で、閉店時間まで練習していた。そこから、イアンと「Love Will Tear Us Apart」ビデオの撮影の思い出とともに、おれたちはサルフォードのブロートン・バスの隣にあるピンキーズに移り、A Certain Ratioとリハーサルルームを共有していた。ピンキーズは汚くて不潔で冷たかったので、ロブが引っ越しの計画を発表した時、おれたちは大喜びだった。
その後、どうやってそれを見つけたかは神のみぞ知るだが、ロブはチーザムヒルの墓地の隣にある、ガスコンロの修理に使われる建物をおれたちに提供してくれた。素晴らしい。
それからロブはマイク (コーキー) コールフィールド (おれたちの新しいローディー) とテリーに改装工事の監督を依頼した。コーキーはウィゼンショー出身のロブの古い友人で、現在は建設業者として働いており、テリーは見習いだった。彼はまた、ノイズ低減についてアドバイスするためにストロベリー スタジオからピーター・タッターソールを呼んで、3フィートのパッド入りの壁を作り、9つの天窓は三重ガラスに変えた。セントラルヒーティングと設備の整ったキッチンも備えていた。これは贅沢だった。ああ、神様!全面カーペット敷き。
ピンキーズから引っ越した日、おれたちはA Certain Ratioに羊の頭を買った(彼らにおれたちのことを覚えてもらうために、目は入れたままにした)。問題は、肉屋がそれを4つに切っていたので、ガファーテープで貼り付け直さなければならなかったことだった。
ガファーテープ、または単にガファーとも呼ばれるこのテープは、非常に強力な接着力を持つ、丈夫な綿布製の感圧テープで、演劇、映画、テレビ、ロックンロールの現場で使用されています。ケーブルを縛ったり、みすぼらしいリードシンガーを縛ったり、酔っ払ったドラマーを吊るしたり(座席にテープで貼られているのを何度も見たことがあります)。開いた傷口の包帯や、同意したグルーピーの装飾に使われたりと、これはまさに奇跡の製品です。明るい面と暗い面があります。
バーニーは、あの羊の犠牲が「ブルーマンデー」の作曲に直接つながったと考えており、ドキュメンタリー『ニュー・オーダー・ストーリー』でもそう言っていた。ギタリストと黒魔術にはどのような関係があるのだろうか?
そこで最初にやったことの1つは、『5.8.6.』の最初のバージョンを録音することだったが、うまくいかなかった。ジョン・ウォーゼンクロフトから、彼が発行しているファンジン『Feature Mist』に無料で配布する曲を提供してくれないかと依頼されたのだ。バーニーの指示で曲作りを始め、それが『5.8.6. Instrumental』となった(曲名は曲の最初の部分は5小節、2番目の部分は8小節、3番目の部分は6小節なので『5.8.6.』。これは珍しいことで、通常はすべて偶数であるがこの場合は意図的だった)。
他の3人は、まるで大釜の魔女のように、シーケンサーとドラムマシンの周りに長時間集まっていた。そこには4人分のスペースは無かったので、この機会におれは早めに帰宅した。そして最終的に完成したと宣告された時、おれは「よし、じゃあ、ベースを乗せるよ!」と言った。
恐怖の表情が四方八方に見えた。それから彼らは、どもり気味にこう言った。
「これで十分だと思うんだ... これで十分... 十分... このままで... ベースはいらないよ...」
おれはショックを受け、完全に打ちのめされた。裏切られたような、心臓にナイフを突き刺されたような気持ちだった。おれたちの曲の中で、ベースが入っていないのは初めてだった。他のメンバーはおれの気持ちなど気にしていなかった。おれが早く帰宅した時に、明らかにそのことについて話していたんだろう。
ロブは肩をすくめながら「その場に居なかった以上、何が起きても文句を言うことはできないだろ」
ジョン・ウォーゼンクロフトのクソ野郎め!おれは彼のせいにすることにした。おれは彼を好きだったことは一度もない。これからも好きになることはないだろう。
立派なリハーサルルームにいるのは素晴らしいことだった。室内は湿気もなく、暖かかった。おれたちは初めて快適に練習し、演奏することができた。しかし、それによっておれたちの音楽の何かが損なわれるのではないかと心配だった。
一方、ロブは防音設備に大金を費やしたが、大した効果はなく、騒音は磁石のようにクズ野郎どもを引き寄せた。問題は、真の防音には遮断が必要だということだった。音が伝わらない唯一の媒体は真空だ。ロブでさえそれを実現できなかったし、ピーター・タッターソールは、(おれの意見では)少々嘘つきだった。そのため、仲間たちは壁に90センチのロックウールを素敵な木枠に釘付けにして、石膏ボードを貼って塗装したが、演奏音はそのまま外に漏れ出し、ウォーキング・デッドのワンシーンのゾンビのように、クズ野郎どもを引き寄せたのだった。
結果的に、おれたちは強盗に遭い続け、結局すべての天窓をアスファルトで覆わなければならなくなり、最終的には要塞のように感じられた。4インチのアスファルトと頑丈な鋼鉄のドアだけで、窓は一切無くなった。要塞化される前は、隣のショッピング地区に小さな中古楽器店があり、ニュー・オーダーが所有する、世界で最も最新かつ高価な機材を時折自慢していた。強盗に遭うたびに、おれはそこに立ち寄って機材を買い戻していた。店員は「やあ、フッキー、これ君の?じゃあ払った10ポンドを返してくれないかい?」と言った。
おれたちは午前11時から午後6時頃まで働くスケジュールを維持しようと努めた(長くは続かなかった、それについては後でまた話します)。ジョイ・ディヴィジョン時代と同じように、ジャムセッションで曲作りをしていた。以前との違いは、アイデアの一部をシーケンサーに打ち込んでいたことだった。バーナードとスティーブがプログラミングし、おれがそれをテープに録音して、後でジャムセッションしていた。
そうしておれはレコーディングの達人になり、新しい8トラック・レコーダーとAmek Tac16ミキシング・デスクを駆使して大いに活躍した。機材のセットアップ、操作、そしてアイデアのレコーディングがおれの担当だった。
こうしてようやくまともな基盤ができ、リハーサルや作曲に取り組んでいた。おれたち全員がまるで天職のように作業に没頭し、最新鋭の機材を駆使して新曲を制作することに喜びを感じていた。一つのスタジオに何ヶ月もこもって一つの曲に取り組んでいた頃より、ずっと良かった。
当時のライフスタイルで気に入っていたのは、常に忙しく、音楽への愛のためにそれをやっていたことだ。お金は関係なかった。おそらく、それがおれの関係が少しぎくしゃくし始めた理由だろう。アイリスは、寒くて暗くて雨の降るマンチェスターの朝に何度も「バスに乗り遅れた!乗せて!」とおれを揺り起こした。ちくしょう、それで一週間分のお金が消えたんだ。当時のおれの車(アルファロメオ以前の車)はジャガー420Gで、本当に燃費の悪い車(KFR 666F)で、なんとか走り続けていた。燃費はたったの6マイル(約1.8km/L)だった。
それである時、ロブがバンドの給料をクルーの給料より高くしようと提案し、クルーがそれに反対しストライキを起こしたのを覚えている。ロブは、バンドが曲を書いていて、その曲がなければ誰もここに居られないのだということを辛抱強く説明しなければならなかった。
でも、おれたちはもっと給料を上げてほしいとは決して言わなかった。以前の週給30ポンドから70ポンドへの昇給後、さらに100ポンドに値上げしたのはロブの提案だったが、クルー達は本当に困惑していた。それまでは、みんなで協同組合のように運営されていたからだ。ホテルに泊まるときも相部屋だった。おれはデイブと、バーニーはロブとと同じ部屋だった(ロブのいびきのせいでバーニーはいつもバスルームで寝ていた)。
当時は「おれたちと彼ら Us and Them Division」(いい名前ですね)などという区分は無かったのだ。1988年、当時すでにビッグバンドになっていた頃になって初めて、クルーとは別のホテルに泊まることになったのだった。
ツアー中は本当に生き生きした。他のメンバーがシーケンサーをプログラムするのをただ座って見ているなんて、クソくらえだ。だからおれはツアーに出たかった。ローディーと計画を立てたり、機材を運んだり、サウンドをセッティングしたりしたかった。ショーが終わると、他のメンバーは楽屋で飲んでいる。おれは少し休んでから「よし、機材を片付けてこよう」って。何もせずにいるのは嫌だった。若くてハイテンションで、エネルギーが溢れていたからだろう。ジョイ・ディヴィジョン時代などはライブの前にテンションが上がりすぎて、余ったエネルギーを発散させるためにランニングしなきゃいけないこともあった。でも、当時はそういう時代だった。やることなすこと全てが新しくて素晴らしくて、おれはそれが大好きだった。機材を積んだトラックを運転して、広大な大陸を横断するのが大好きだった。まるで海賊みたいだった。まさにバイキング。世界、そしてそこに存在するすべてのものが、おれたちの遊び道具だったんだ。
それからファンメールもね。バンド時代を通して、おれはファンに返事を書くのが大好きだった。他の連中は興味を示さなかったけどね。みんなが時間をかけて手紙をくれるのは素晴らしいことだと思っていた。中には腹立たしいのもあったけど、どれも興味深いものだった。返信するのはおれにとってマナーだった。バンドがすごくビッグになった時でさえ、そうしていた。おれの母が教えてくれたんだ。返信するのは楽しいことだった。手紙は全部飛行機に持ち込んで、高度3万フィートで書いて、イギリスに帰ってから投函していた。正直に言うと、おれの手紙は長くて、心のこもった手紙というわけじゃなかった。どちらかというと、「次はSAE(返信用封筒)で送ってくれ、バカ!おれたちは金持ちじゃないんだから」と走り書きして、次の手紙に移るようなものだった。ファンに返信すれば、一生のファンが得られる、とロブは言った。これはバンドのルールに入れるべきだ。バンドの他のメンバーはおれの興味に完全に戸惑っていた。トニー・ウィルソンとロブだけが、すべての手紙に答えることに関与したことを認めた。80年代初頭、ステージに機材をセットアップしている時も、おれは前に出てファンと話していた。仲間の中にいるのが好きだったんだ。
ニュー・オーダーで物事がうまくいかなかった理由は無数にあるが、そのうちの1つは、成功すればするほど、おれが干渉することができなくなり、干渉することが少なくなればなるほど、暇になるということだった。
「あのクソ野郎が戻ってきやがった…」
後知恵で振り返ると、物事がうまくいかなくなったのはどこからだったのか、はっきりと分かる。
まず、1つ大きな出来事があった。例えば、おれたちがハシエンダに資金を提供したこと。
オープニングの夜、おれとアイリスは他のみんなと同じように郵便で招待状を受け取った。おれは建設の前に一度、そして建設中に一度行ったことがあるが、あまり気にしてなかった。すべてがおれには大きすぎて、理解できなかったんだ。
オープニングの夜、おれは他のみんなと同じように、あちこちから「おおー」とか「わー」とか叫び声が聞こえてきて、息を呑んだ。本当に圧倒された。無料のドリンクも付いて、素晴らしい夜だった。会場は満員で、マンチェスターのあらゆるゲイが勢揃いしていた。トニーは全力で華麗に振る舞っていた。ヴィニ・ライリーとア・サーテン・レイシオが演奏した。素晴らしい夜だった。でも、どうにも自分のものになった気がしなかった。少なくともまだ。
しかし、ある意味では、より有害だったのは些細なことだった。バンドを徐々に民主主義から独裁主義へと移行させたもの。
その年の6月のピール・セッションで、1つの例があった。
おれたちはレボリューション・スタジオでレコーディングをしていた。「Too Late」という曲をレコーディングしているときに、ロブがバックボーカルのアイデアを思いついた。バーニーはサンドイッチか何かを食べに出かけていたので、おれが歌った。録音してみて、とても良い出来だと思っていた。
しかし、その後、あのバカが戻ってきて、奴が最初に言ったことは、「あのボーカルは何だ?」だった。何か嫌な匂いを嗅いだかのように顔をしかめながら。「嫌いだ」
他の全員はみな良いと思ってた。そして、思い出してほしい、その瞬間までニュー・オーダーはジョイ・ディヴィジョンのように民主主義、つまり多数派の意志に基づいて運営されていた。つまり、おれのバックボーカルはトラックに残るはずだった。しかし、バーニーは顔をしかめ、自分の気持ちを完全表明するために、踵を返してスタジオを出て行った。
「散歩に行く」という口実で、おれたちを苛立たせたままにして。おれたちは皆、小さな子どものように顔を見合わせた。
スティーヴとジリアンはバックボーカルを気に入ってたものの(いつものように)どっちつかずで、ロブは不安そうに「まあ、彼が気に入らないなら、外した方がいいかもしれないね」と言った。
おれは「クソくらえだ。くたばれって言ってくれよ」と言った。
いつものピーター・フック・モードだ。
結局バックボーカルは外された。バーニーは初めて自分の思い通りにしたが、そこからは下り坂だった。次の瞬間には、同じセッションでバーニーが全部自分でバックコーラスをやろうと言い出したんだ。
これは大罪だ。おれたちのバンドのルールは「シンガーにバックコーラスをやらせてはいけない」だ。奇妙に聞こえるかもしれない。イアンが生きていた頃、彼は他のメンバーにもバックコーラスをやらせようとしていた。バンドではそれが当たり前だからだ。だってバンドなんだぜ?でも、バーニーはその時から自分で自分のバックコーラスをやるようになった。彼は素晴らしいユーモアのセンスの持ち主で、一緒にいて楽しい仲間だったが、一旦こういう状況になると、彼にはおれには全く欠けていた真剣さと冷酷さがあった。
あの日のセッション以来、おれたちは「Too Late」をちゃんとレコーディングすることはなかった。バーニーが気に入らないと決めたのだ。それでレコーディングは終了だ。
6月は暖かい地方へ行った。イタリアツアーは素晴らしく、おれたちも大満足だった。なんて美しい国なんだろう。そこはバーニーが唯一気に入っている場所だった。でも、それから何年もイタリアへ行かなかったことをずっと不思議に思っていた。観客は熱狂的で、どのライブにも「ファックニューオーダー、さよならジョイ・ディヴィジョン」といった横断幕が掲げられていた。でも、おれたちの気分は沈まなかった。というのも、それ以外は晴天に恵まれ、どのライブも最高だったし、ホテルも素晴らしく、ビーチも素晴らしかったからだ。ライブの1つはイタリア南部のターラントで行われた。おれたちはビーチ沿いに宿泊していたので、文字通り服を山のように脱ぎ捨て海へ駆け込み、プロモーターのマリーナをもてなしていた。なんてことだ、彼女は本当にゴージャスだった!日焼けしてビキニ姿で、スリムで美しく、そしてイタリア人そのものだった。彼女の周りにはヒースロー空港よりもたくさんの客が集まっていた。彼女には専用の管制官が必要だった。おれたちは皆、彼女に好印象を与えようと、気を引こうと必死だった。人間ピラミッド、腕立て伏せ対決、腕相撲、あらゆる手段を講じた。しかし、どれも効果はなかった。
ギグはビーチ沿いのホテルの離れで行われた。文字通り、日が沈むにつれて、黒い服を着た奇妙な人影がポツポツと現れ、最終的には何百人もになった。ゴス達だ。おれたちは驚き、素晴らしい夜を過ごした。
ギグの後、マリーナの求婚者は2人に絞られた。誰だと思うかい?そう、おれと彼だ。彼がトイレに行った隙に、おれは彼女を連れ出し、クスクス笑いながら外へ駆け出した。そして、ビーチで月明かりの下、素敵なキスでその夜は終わった。そして彼女はまるでシンデレラのように夜空に消えていった。おれはガラスの靴を握りしめ、まるで天国にいるような気分だった。
彼は朝食の時も翌日も、おれに話しかけることも、おれの方を見ることもしなかった。
そのツアー中に、素敵な年配の女性に出会った。彼女はミニバーのシャンパンや変わった容器を使った面白い習慣を教えてくれた。一緒にいた間ずっと、彼女はストッキングとサスペンダー姿でおれの部屋でくつろいでいて、いかにもイタリア人らしいエキゾチックな雰囲気だった。彼女がバルコニーにタバコを吸いに行った時、隣の部屋にいたコーキーが彼女に話しかけ始めたのを覚えている。彼が「バンドをやっていて、サウンドエンジニアでもあり、などなど」と話しているのが聞こえたので、おれは部屋から出て行って彼女に腕を回した。彼はびっくりして「こんちくしょう!」と吐き捨て、自分の部屋に戻っていった。
翌日、帰る時「ああ、小さな冷蔵庫の中にまだいっぱい残っている。せっかくだから、それも持って行こう」と思い、バッグに全部詰め込んだ。
その後、受付に着くと、ロブが何か癇癪を起こしていた。「フッキー、おいフッキー!」と、おれが現れるなり「何やらかしたんだ、このバカ野郎」と言われた。
「は、何だって?」
「この請求書を見てみろ。ミニバーの飲み物を全部使ったじゃないか」と。
それでおれは「ええ、だから?これってタダなんだろ?部屋代に含まれてるんだよな?」と尋ねた。
「違うよ、バカ。飲んだ時に払うのが当然だろが」
しまった。
受付係の冷ややかな視線を浴びながら、バッグから全部取り出して受付デスクに置かなければならなかった。「それでいいんだ」とロブが言った。「あとシャンパンが無いぞ。シャンパンはどこだ、このバカ野郎」
またしてもやられた。
次はギリシャへ行った。ウーゾを飲んで酔っ払ったのはここで初めてで、ニック・ケイヴがコウモリに変身しておれの部屋に飛び込んできたのも最初で最後だった。
アテネで3日間開催されたイベントは「インディペンデント・ロックンロール・フェスティバル」と銘打たれていた。1980年に新民主主義が宣言されて以来、ギリシャで初めて開催されたイベントだった。ディミトリという素晴らしい人物が主催していた。初日はバースデー・パーティー、2日目はザ・フォール、そして最後は(マーク・E・スミスによると)ブービー賞のおれたちだった。これは大きなニュースとなり、おれたちの夜の一番の見出しは「ファシストたちの帰還」だった。盛り上がりはどんどん高まっていった。 3つのバンドとクルーは5日間滞在し、ちょっとした休暇を満喫した。ホテルの屋上テラスでは3バンドが仲良く交流し、盛大なパーティーとなった。テリー・メイソンはザ・フォールのマネージャー、ケイ・キャロルに恋をし、いつものように恋に悩む牛のように、当時マークの恋人だったにもかかわらず、彼女の後をついて回っていた。控えめに言っても、彼女は個性的で、とても男らしく、本当に厄介者だった。
さて、バースデイ・パーティーがライブを終えたのだが、ステージ上ではまるで野獣のようだった彼らが、ライブ前はただ座って本を読んだりチェスをしたりしているのを見て、おれたちは大きなショックを受けた。ステージ上での彼らのペルソナとはあまりにも正反対だったから。ある意味、彼らはおれたちの鏡像のようだった。おれたちはステージを降りるとめちゃくちゃワイルドだったが、ステージ上ではとても落ち着いていたから。
素晴らしいショーで、観客はそのアグレッシブさに魅了されていた。ある意味、彼らにとって初めてのパンク・ライブだったのだろう。群衆の中では乱闘が頻発していた。
それで「明日は警備を倍増する」とディミトリは言った。
次にザ・フォールが登場したが、警備が強化されたにもかかわらず、群衆からは飛び道具や暴力がさらに増加した。とはいえ、ザ・フォールはひどい出来だったので驚きはしない。おれも彼らに物を投げつけたくなった(冗談だよ、マーク!)。
「明日は警備を倍増する」とディミトリは言った。
その夜遅く、この悲惨な物語はニュー・オーダー、ザ・フォール、そしてバースデイ・パーティーらが全員集まって祝賀会を開いていたナイトクラブで始まった。ご想像の通り、かなりの人数が集まっていて、おれたちはみんなタダのウーゾで完全に酔っぱらっていた。バーに行って飲み物を頼んでも、何杯頼んでも、支払う必要がないんだ。これは最高だった。このクラブには屋内にプールがあり、オープンエアで、本当に美しい場所だった。おれはバースデイ・パーティーの音響を担当していた女性と一晩中話をしていたんだが、彼女はなかなか個性的で、ちょっとおてんばで、ルース・ポルスキーの親友でもあった。だから、夜が明ける頃には一緒にホテルに戻る羽目になったのも無理はない。クラブをよろよろと出て行くと、彼女はトイレに行きたいとおれに言った。彼女をタクシーの隣に押してやると、彼女はパンツを脱いでオシッコをし始めた。すると、クソったれのタクシーが走り去り、クラブの正面玄関に彼女が堂々と立っていた。
なんという満月の夜だ。
それから彼女を別のタクシーに乗せたんだけど、彼女は窓から片方の足を出し、おれはもう片方の窓から頭を出しながら吐き散らしていた。吐き散らしながら運転手に意味不明な道順を教え、「ホテル!ホテル!」って連呼してた。運転手はアテネのホテルを4軒くらい回って、おれが頭を上げてホテルを見て「だめ!ここちがう!」って言ってた。ようやく正しいホテルに戻ってきて、おれたちは階段を這ってなんとかエレベーターに乗った。
そして突然、そこで罪悪感に襲われた。分かってる。おれには彼女がいたんだ。彼女はルースの友達で、ルースとおれは当時、遠距離恋愛のせいで少し落ち着いていたとはいえ、それでも状況は変わってなかった。だから、彼女を振り払うことしか考えられなかった。結局、両手で彼女の顔を押さえながら、エレベーターから突き出した。
ああ、分かってる。とてもじゃないが紳士的な行動とは言えない。それでおれはそのツケを払うことになった。数時間、ウーゾのせいで吐き気を催すような朦朧とした状態で、バスルームの床の冷たいタイルの上に横たわり、午前5時頃まで動くことすらできなかった。ようやくベッドに潜り込み、うとうととしていた時だった。バルコニーで何かが起こっていることに気づき、カーテンが開いて、巨大なコウモリが部屋に入ってきたような気がした。
でも、それは巨大なコウモリではなかった。それよりずっとひどいものだった。
クリスマス・ゴスの亡霊、ニック・ケイヴが、おれを捕まえに来たんだ。
「一体何しているんだ!」
おれは叫びながら起き上がり、ホラー映画のヒロインのようにベッドシーツを掴んだ。
「彼女はどこだ?」
彼はオーストラリアのゴス訛りで問い詰めた。
「何言ってんだ?」と気を取り直して言った。「さっぱり分からん。このクソッタレ、出て行け」
その頃にはベッドから起き上がっていて、ホラー映画のヒロインというより、ひどく酔っ払ってムカついたベーシストの気分になっていたので、彼を掴んでバルコニーへと押しやった。カーテンが後ろで音を立てると、彼はコウモリに姿を変えて飛び去っていった。そう願った。とにかく、ニックはゴージャスでおてんばなサウンドエンジニアに夢中になっているようだった。彼女をエレベーターホールに残しておいてよかった。そうでなければ、バルコニーを乗り越えて来たニック・ケイヴに間違いなく血を吸われていただろう!
朝食を食べに降りていくと、水を何杯も飲んだせいでまたひどく吐いてしまった。ウーゾは近縁種のペルノに似ているらしい。脱水症状になると胃の中で結晶化し、また酒を飲むと水分が補給されて、また酔っ払ってしまう。(1988年、バーナード・サムナーのデトロイト公演がキャンセルになった時のことを参照)
そして、追い打ちをかけるように、ロブが叫んだ。「おい、ロミオ、これがお前とお前の昨夜の彼女の請求書だぞ!」
結局、彼らが金を受け取らなかったのは、勘定をしていたからだった。彼女はもう帰っていたので、おれが全部払わなければならなかった。馬鹿げてる。
その夜はおれたちの公演だった。新聞はいつものようにナチス寄りの捏造報道をしていたから、右翼の狂信者たちがおれたちを見に来ただけでなく、左翼の反ナチ派もいた。言うまでもなく、事態は次第に緊迫し始め、プロモーターが警備員を倍増させてくれてよかったと思った。ステージ正面に、イカれた用心棒がずらりと並んでいる状況が本当に必要だった。
正直言って、雰囲気は最悪だった。最悪なバイブ、最悪なライブ。出番前から、物が投げつけられたり、チャントが飛び交ったり、喧嘩が絶えなかった。ローディーたちは最悪の事態を恐れて、棒切れで武装した。さらに事態を悪化させたのは、誰かさんがちょっと嫌な奴モードだったことだ。まず、彼は酔っていた。彼が酔っているのは珍しいことではなかった。別に批判的な意味ではない。歌う勇気を出すためにペルノが必要だったのだ。フロントマンなら誰でも共感できるだろう。しかし、酒で神経を落ち着かせるのに厄介なのは、簡単に失敗することだ。この夜は、彼が飲み過ぎて、至福から泥酔へと極限まで達してしまった夜の1つだった。だから、おそらくそうなったのだろう。彼は「Truth」を演奏中、目を開けて(当時は普段は目をぎゅっと閉じて歌っていた)、メロディカを置き、アンプの上のリンゴを手に取って、空高く投げ上げた。そしてまた目を閉じた。
最初に思ったのは「おいおい、誰かに当たるぞ」だった。リンゴが空中を弧を描いて飛ぶのを見ていた時、案の定、ギリシャキッズたちの集団に向かって飛んでいくのが見えた。ほとんどのキッズたちがリンゴをじっと見ていた。少年がリンゴで怪我したというだけで大乱闘勃発の合図だった。気がつくとミキシング・デスクのそばで大乱闘が始まっていた。サウンド担当のオジーが、イカれたギリシャのキッズたちを全員ぶっ殺そうとしていた。すると用心棒が乱闘を止めようと押し寄せ、かわいそうな少年は救急車で運ばれた。バーニーは気づかなかった。
全てが終わった時はホッとした。大混乱だった。
「警備を倍にしておくべきだった」とディミトリはため息をついた。
それとは全く対照的に、翌日、ディミトリはおれたちを沖合の美しい島へ日帰り旅行に連れて行ってくれた。水は透き通っていて、シュノーケリングを楽しんでいたところ、タコがおれの横を泳ぎ過ぎ、じっと見つめてきた。ウインクまでしたと断言できる。タコは巨大だった。おれは水から飛び出し、二度と戻ろうとはしなかった。
ところで、同じ旅の最後の話。バーニーはバースデーパーティーのツアーマネージャー、ミヌというバリの王女と出かけていた。彼女はバリの王の娘で、彼とよく遊んでいた。インドネシアの故郷バリ島でクーデターが起きたため、国籍は無く、パスポートを3つも持って旅を続けているとおれたちに言っていた。
ああ、彼女は本当に可愛くて、おれたちはみんなすごく羨ましかった。だから当然、彼を取り戻すためにあらゆる計画を立てていた。
ところで、このホテルのトイレはひどいものだった。おれはデイブと同室だったのだが、彼はこの部屋のトイレは水が流れないから気をつけろと何度もおれに警告してきた。だから2、3日、バーニーがバリ人のお姫様とデートに出かけている間「バーニー、きみの部屋のトイレを借りてもいいかな?」と言った。その間おれたちはずっと彼のトイレで用を足していた。それは、もう、もう、笑っちゃうくらいにね。
バーニーは戻ってきて、ホテルのバーに颯爽と入ってきて、お姫様と過ごした楽しい時間をおれたちに話して聞かせてくれた後、彼は部屋に戻って行った。
おれたちは彼が部屋のドアを開けて中に入るのを見守った。
聞こえたのは「おい、このうす汚い野郎どもめ!」という声と、バーニーが床中に吐き散らす音だけだった。
かわいそうに。彼はいつも少々虚弱体質だった。
次の目的地はブリタニア・ロウ。ニュー・オーダーのセカンド・アルバム制作が迫っていた。
「ゲロの真ん中に取り残されて」
小さな手がかりが増え、バンドの棺桶に打ち込まれた釘も増えた。しばらく前から醸成されていた労働時間の違いの問題が、イズリントンのブリタニア・ロウに引っ越して『Power, Corruption & Lies』を制作した時にようやく明らかになった。
「1日400ポンドだぞ」とロブが言った。「さあ、始めろ!」と。1ヶ月の契約を決めた。
レコーディングは不吉なスタートを切った。初日の夜、おれとロブ、スティーヴ、ジリアンの4人が、アルバムの新しいサウンドエンジニアであるマイク・ジョンソン(後に彼は4枚のアルバムと9枚のシングルのエンジニアを務めることになる)と一緒にABCのライブを観に行ったのだ。マーティン・フライはマイク・ピカリングの大親友だったので、ロブが「挨拶しに行かなきゃな」と言った。
このギグはエセックスで行われ、彼らは完全に泥酔状態だった。ある時、ロブが姿を消した。彼は階段の踊り場で、両手で頭を抱え、巨大なゲロのプールの真ん中に座り込んでいた。あまりに激しく吐き散らしていたので、入れ歯が外れてゲロの中に取り残されていた。結局、おれが拾ってやらなきゃいけなかった。その間ずっと、ロブは「ファック」と言い続けていたが、まあ、いかにもロブらしい行動だった。そして入れ歯をポケットにしまった。よくあることだ。
次に、スティーブに遭遇した。彼はジリアンが見つからなくて気が狂いそうになっていた。実は、マイクがジリアンに好意を寄せていて、その気持ちを露わにしていることに、おれは全く気づいていなかった。おれはマイクに言った。
「彼女とスティーブは付き合ってるんだぞ」
「え、冗談だろ?」とマイクは口ごもった。
「いや、あの2人はファッキンカップルなんだよ」
彼は言った。「なんてこった。全然そんな風には見えなかった…」
全員を車に戻した時には、彼らは皆、気まずそうに完全に沈黙して、眠ったふりをしていた。それは、1ヶ月に及ぶレコーディングセッションを控えたロンドンへの長いドライブ中の出来事であった。
それでも、全体的にはうまくいった。ブリタニア・ロウは記憶通りの豪華なスタジオで、午後にはサンドイッチも出ていた。バンドがうまくいっていたとは言わないまでも、なんとかやっていけていた。
おれたちの宿はナイツブリッジのハロッズの裏にあるフラット(正確にはバジル・ストリート15番地、フラット6)で、そこは快適だった。しかし、ここで初めて時間帯の大きな違いに気づいた。昼にスタジオに入り、午前2時に終わるのだが、家に着くとおれは寝る。一方、他のメンバーは何時間も起きていて、マリファナを吸いながら『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』や『2001年宇宙の旅』のビデオを観ていた。スティーブは膨大な数のビデオをコレクションしていて、どれにも印が付いていないにもかかわらず、それぞれのビデオの内容を正確に把握していた。スティーブの不思議なところの1つだ。彼は変人だ。
そして朝になると、ああ、なんてこった、こいつら全員をベッドから起こす役目を負っていた。バーニー、スティーブ、ジリアンを起こすだけでも大変だったが、ロブに比べれば取るに足らない存在だった。昏睡状態の我がマネージャーと比べれば、まるで従順な子犬3匹のようだったから。
彼をベッドから起こすのはほんの始まりに過ぎなかった。それからは、タバコを1本、ココポップスを1杯、またタバコを1本、そしてウンコをするまでアパートから動かなかった。それも全部この順番でやらなければならず、おれたちは彼がそれをするのをただ座って待たなければならなかった。というのも、おれたちはスティーブのボルボという1台の車に乗っていたからだ。おれとバーニーは車は家に置いて妻に預けていた。
もちろん、こう言うべきだった。「ファックユー、お前なんか必要ない。お前はバンドにも入ってない。おれたちは先に車で行く。お前だけ地下鉄で行けばいい。どうでもいいや!」
でも、そうしなかったのは…まあ、今にして思えば、彼はちょっといじめっ子だったと思う。今で言うところの職場における威圧感だろう。もっとも、そこまで露骨なことではなかったが。ロブに出会ってからというもの、彼はおれたちのところにやって来て、何でも一緒にやってくれていた。何もかも。最初から、彼はみんな一緒にやってきた。1人はみんなのために、みんなは1人のために、というのが彼の信条だった。
おれたちがスタジオにいる間、オーストラリアのツアー会社の代表者が、ジョン・クーパー・クラークとの今後のツアー契約書を持ってきた。その会社はエディ・ジンブリス&カンパニーというとても立派な名前で、1回のギグにつき800ポンドの報酬が支払われることになっていた。なんとも楽しみなことだ。
スタジオでは、バーニーがドアに掛けてあった古い白衣を見つけ、着てみると「マッドサイエンティストみたいだな」と言った。彼は毎日、LSDを少量摂取し「これが自分を開眼させた」と言っていた。
正直言うと、当時おれはLSDを摂取したことがなく、一見彼に大した変化も感じられなかったので「ああ、お前の好きなようにしろよ」という感じだった。おれには、彼は昔のボンド映画に出てくる白衣の召使いのように見えた。後で分かったのだが、その白衣はマイク・ジョンソンのものだった。ヨークにあるキットカットの製造ラインで働いていた時のユニフォームだったのだ。
それで、おれたちはレコーディングの分担を決めることになった。おれがマイク・ジョンソンと一緒に座って基本的な作業をし、彼らが来て自分のパートを録音してはさっさと立ち去り、その後、ミックスの時にまた戻ってきて評価を下すというスタイルだ。
ミックス中、ロブはたいてい「とにかく最高に盛り上がらせろ!」と言っていた。彼はそれを強調するために、裸でデスクに飛び乗ることさえあった。ココ・ポップス、タバコ、クソみたいな騒動、レコーディング・プロセスにおける彼の貢献は、本当にこれだけだった。とはいえ、最後に歌詞を書いたり曲名を決めたりする時には、いつも最新のサンデー・タイムズを握りしめて手伝ってくれた。
かっちりしたスケジュールはなく、その日その日をその場で決めていった。曲とアイデアのリストを用意して、それに沿って作業を進めていった。
マイクのそばに座ってると暇な時間も多かったので、おれはひたすら本を読んだ。小さなテーブルに本を積み上げていって、最終的にはスタジオの天井と同じくらいの高さになっていた。曲のタイトルは全部本から拝借したものだ。アルバムのタイトルも、ジョージ・オーウェルの『1984年』の裏表紙に載っていたデイリー・テレグラフの書評から「権力、腐敗、そして嘘の驚くべき物語」という言葉を引用したから、そういうことになった。「Leave Me Alone」はF・スコット・フィッツジェラルドの『夜はやさし』から、「Ultraviolence」は『時計じかけのオレンジ』から、などなど。
一方、スティーブは天才的なドラム奏者を演じ、バーニーはギターとキーボードを弾き、シーケンサーをプログラムしていた(素晴らしいシンセサイザーのラインたち。彼には敬意を表さなければならない。あのアルバムでインディーズミュージックに革命を起こしたのだから)。もちろんおれはベースを担当し、ボーカルラインと歌詞は一緒に作り上げていった。次は、後におれたちの代表曲となり、今日に至るまで史上最大の売上を誇る12インチレコード「Blue Monday」が制作された。
程なく、おれたちのシンセ・ラインナップにバーニーのお気に入りとなるMoog Sourceが加わった。これは、世界最高のシンセサイザーを発明したキーボード界のレジェンド、ロバート・モーグが設計したものである。「Blue Monday」のベースラインにはMoog Sourceを使用し、バーニーが自作したPowertranでシーケンスした。彼はシルベスターの「You Make Me Feel (Mighty Real)」とクラフトワークの「Uranium」を彷彿とさせ、Klein + M.B.O.の「Dirty Talk」への愛を示そうと、ミックス中に何度もMoog Sourceをプレイし、サウンドに影響を与えようと躍起になっていた。彼は毎回「もっとよくなるはずだ!」と言っていたが、実際は「Dirty Talk」よりもおれたちのミックスの方がずっと良い出来だった。その出来栄えにおれとマイクは大喜びだった。
また、Sequential Circuits Prophet 5というシンセも手に入れた。そしてもう1つの重要な機材はEmulator Iだった。これは初期のサンプリング・キーボードの1つで、音をサンプリングして、キーボード上で様々なピッチで演奏することができた。また、当時流行していたフロッピーディスク形式のサンプリング音源ライブラリも付属していた。おれたちはこのマシンで大いに楽しみ、後に制作に携わるメンバー全員がこのマシンを奪い合うことになった。様々な身体機能をサンプリングしてみるという段階を過ぎると、このマシンは非常に貴重なツールになった。「ブルー・マンデー」の制作に使うために、リハーサル場所の外の巨大なガラスを割ったり(この愚か者たちは後片付けに追われていた)、様々なノイズをサンプリングして多くのトラックに取り入れたりした。
また、Oberheimもアップグレードした。 DMX Mk Iドラムマシンは、驚くほど使いやすく、リハーサルルームでスティーブがプログラムするのを見ていたのを覚えている。彼はそれを椅子の脚の間の床に置いていた。理由を聞くと、キッチンのケトルの短い電源コードしか見つからなかったからだと答えた。そのため、おれたちの新しい2,000ポンドのドラムマシンは、彼の溢れかえる灰皿のすぐ横の床に置かれていた。
スティーブはいつもそんな奇妙なことをしていた。何日もかけて、この素晴らしいマシンに備わっているあらゆる機能を駆使して、最高傑作「Blue Monday」をプログラムした後、電源コードが背面から飛び出してマシンの電源が落ち、「Blue Monday」の最初のバージョンが失われても、おれは全く驚かなかった。
スティーヴはメモリをカセットにバックアップしていたと言っていたが、Mk Iのメモリをカセットに保存するのは無理だったはずだ。Mk IIモデルからはそれが可能になったと思う。Mk IIは根本的に異なっていた(1984年、チューリッヒでのニュー・オーダーのライブを参照)。その後、スティーヴが最初にした事は新しいカセットプレーヤーではなく、長い電源コードを手に入れることだった。
とにかく、ニューヨークのクラブで聴いた曲から盗んできた素晴らしいドラムビート、リズムの区切り、フィルイン、ドラムストップをできるだけ早く再現する必要があった。それらを再現するのには長い時間がかかり、最高のバージョンを失ってしまったという疑念が今でもおれを悩ませている。
制作面では、バーニーとおれはマーティン・ハネットから盗んだ小技を駆使していた。例えば、ライブルームにスピーカーを設置し、音を流し込み、それを別のマイクでコンソールに録音し直し、その結果をトラックにミックスするといった具合である。ブリタニア・ロウの地下には、まるでそのために作られたかのような素晴らしいタイル張りの部屋があった。その雰囲気は特に「ブルー・マンデー」のテンポにぴったりだった。
この曲はモンスター級のサウンドへと進化し、スタジオでの作業時間をかなり奪っていた。バーニーはジョルジオ・モロダーのエレクトロニック・ミュージックのディスコ・パルス・サウンド、つまりディスコ・ベーシストが通常演奏するようなオクターブを交互に繰り返すベース音を捉えることに執着していた。彼はすでに「5.8.6.」でこの効果を試しており、完璧な仕上がりになるまでに長い時間を費やしていた。もともと「ブルー・マンデー」は、アンコールの際にステージに戻って自分たちが演奏しなくてもいいように、という思いから生まれた曲だった。
マイク・ジョンソンはミキサーを即興操作し、おれたちの思い通りの効果を生み出さなければならなかった。ドラムの調整キーをパンニングノブにガムテープで貼り付け、シューという音を左右に素早く動かすという、他の方法ではできない操作をしたりしていた。とても刺激的だった。
ジリアンが「ブルー・マンデー」のシーケンスを、まるで塗り絵のように長いリストにして、シーケンサーが故障した場合に備えて、必要に応じて再プログラムできるようにしていたのを覚えている。彼女はまるで子供たちとピザハットで長々と食事をしているかのように、何時間もかけて塗り絵をしていた。
その間に、おれは6弦ベースをトラックに乗せ、その後バーニーがボーカルに挑戦してみる気になったんだ。そして、それが曲になった。個人的には素晴らしい曲とは言えないが、少し変わった曲だと思った。8分近くもの長さで、これといったサビもなく、メロディー重視というよりはリズム重視の曲だった。その時はシングルとしてひっそりとリリースしたいと思っていた。
でもまさか、あんなことになるとは思ってもみなかったよね?
「彼女は花火のように飛び上がった」
「アーサーは本当にイカれてた…おれはやつが大好きだ」
「OK、ピザ」
とても、とても幸運な脱出だった。
しかし、おれがあのアメリカツアーを覚えている主な理由は、カルネ事件だけではなかった。それは女の子たちだった。ニュー・オーダーがグルーピーを発見したのは1983年のアメリカ・ツアーだった。
アメリカの女性たちがおれたちに夢中だと聞いていたので待ちきれなかった。しかし、アトランタでのライブの後、おれたちは皆、ライブ後の特典を期待して待っていたが、楽屋には誰も来なかった。確かに、観客の中にもゴージャスな女の子は1人もいなかった。どうしたアトランタ?
次のライブ地、オースティンは、後におれたちの最も古い友人で同僚の1人となるケリー・ジャガーズが運営するクラブ・フットという素晴らしいライブハウスだった。ホテルの近くのダウンタウンに位置する素晴らしい会場。おれたちは観客席に出て行くと、そこはテキサス女性でいっぱいで、彼女たちはすごくゴージャスだった。しかも何百人もいたのだ。ここは天国だと思った。
ギグの後、おれたちは舞台裏で手をこすったり、想像上の口ひげをいじったりしながら、全員がそこに座って「テリー、これは大変なことになるぞ」と言った。
しかし、何も起きなかった。
おれたちはテリーに「現場に行って何が起こっているのか見てきてくれ」と言った。
5分後、彼は首吊り犬のような表情で戻ってきて、編み枝細工を引っ張りながらこう言った「悪い知らせだ。ルースが警備員にバックステージには誰も入れないよう言ったんだ」
くそー。ロブは警備員を捕まえて、彼の手に20ドルを押し込んだ。「バックステージに来たいやつは誰でも、特に女性の場合は大歓迎、分かった?」
20分も経たないうちに楽屋は人、主に女性でいっぱいになった。
それで終わりだ。それはおれたちの破滅を決定づけたものだった。その瞬間から、どのライブもバックステージは女の子たちでいっぱいになった。文字通り自分の好きな子を選ぶことができた。それはもう信じられないほどだった。
アメリカ人女性。神は彼女らを愛している。
アメリカ人の女の子たちはみんな「ねえ、あなたのアクセントが大好きよ、出かけましょうよ!」って言ってくれた。ミュージシャン、特にイギリスのミュージシャンに対する彼らの態度は素晴らしく、とてもフレンドリーで、おれたちは飼い葉桶にいる豚のようだった。バンドの陰気で芸術的なイメージとは完全に相反していたが、それは夢のような体験だった。
オースティンでは、ソ連の赤い旗をドレスとして着ている女性に出会った。彼女は学校の先生だった。面白いことに、おれたちはたくさんの先生を惹きつけていた。おれたちはとても仲良くなったので、おれたちがニューヨークに着いたときに彼女は飛行機でおれたちに合流することになった。ワンダフル。
だが問題は、バンドがニューヨークに到着するまでに、おれはすでにトロントで別の女の子と出会っており、彼女もニューヨークに来ることを決めていたことだった。それで、おれがニューヨークに到着した時、おれは2人の女の子とルースを迎えることになった。そう、おれとルースは復縁し、また連絡するようになっていた。
それで、オースティンから来た女性教師とトロントから来た女の子、2つの部屋の間を飛び回って時間を過ごし、両方の女の子を楽しませた。ああ神様、許してください...でも、それは最高だった。ああ、目がくらむよ。スティーブとジリアンからブライアン・リックスというあだ名がついたのも不思議ではない。でもそれを誇りに思っているわけではない。
これは非常に波乱に富んだツアーで、ニューヨークのパラダイス・ガレージでのギグの後、アーサーとの「Confusion」のビデオ撮影になんとか時間を割くことができた。ビデオはアランとトニーの友人であるチャールズ・スターリッジによってプロデュースされた。チャールズはおれのお気に入りのメロドラマ「コロネーション・ストリート」のエピソードを監督していた時、マンチェスターのパラタイン・ロード89aのファクトリーのオフィスに泊まっていた。彼は、1981年にイブリンウォーの『ブライズヘッド再訪』の11エピソードを監督したことでもイギリスで有名であり、多くの賞を受賞した。
このビデオのアイデアはアーサーから来ており、ファン・ハウスで友だちになった2人の偉大なダンサーを中心に展開した。アイデアは、クラブに来る準備までの彼らの日常生活を見せることだった。素晴らしいコンセプトだし、おれたちの側でもあまり手間がかからなかったので気に入った。彼らはおれたちのパラダイス・ガレージでのサウンドチェックの映像を使用し、おれたちがパラダイス・ガレージとファン・ハウスの両方を歩き回る様子を撮影し(エレクトロニックが後にすべてのビデオで非常に効果的に使用することになる歩き回るコンセプトだ)、いくつかの映像はジェリービーンと一緒にDJブースで撮影された。
夜はあっという間に過ぎ、朝の7時半ごろクラブを出る準備をしていると、誰かが「アーサーはどこだ?アーサーも一緒に帰らないのか?」と言った。
「彼は嫁さんと一緒に帰ったよ」
おれたちは階下に降りて、ちょうどタクシーに乗ろうとした時、通りの向こう側を見ると、アーサーの車が停めてあり、奥さんと激しい言い争いをしていた。アーサーが運転していたが、すごく狭い場所に駐車していた。彼らが口論している間、彼は後ろの車に体当たりし、次に前の車にも体当たりしてスペースから抜け出そうとした。
なんて野郎だ。
その後、飛行機でニューヨークからワシントンへと移動する。何が起こったかというと、いつものようにみんなが遅く起きるということだった。
おれとスティーブで2台のレンタカーを運転していたので、全員を出発ゲートで降ろし、レンタカーオフィスに車を返し、バスでターミナルに戻るという考えだった。
だがスティーブは年老いたおばあちゃんのような運転で遅刻させてしまい、そこで待っていたのはロブだけだった。
「このクソ野郎ども、飛行機に乗り遅れたぞ」と彼は言った。
3時間後にもう1便ある...
そこでおれたちはバーに行った。そこでは朝食が1.99ドルで、メロンベースのウォッカドリンクであるダブルグリーンカクテルが2ドルで提供されていた。
おれたちは顔を見合わせると「1セントの差?じゃあ飲み物にしようか」
朝食には緑のダブルカクテルを3杯飲んだ。おれ、スティーブ、ロブはご機嫌だった。
それからロブは「もう一杯飲むか?」と言った。
飛行機に乗ったときのことはあまり覚えていないが、真ん中の席に座り、景色が二重に見え、次に吐き始めたのを覚えている。
おれの隣の乗客は大柄な黒人女性で、スチュワーデスがやって来ておれを抱き上げてトイレに預けるまで彼女は叫び続けてた。ニューヨークからワシントンまではほんの短いフライトだが、おれはそのほとんどの時間をトイレに座って頭を抱えてうめき声を上げ、死にたいと思って過ごしていた。
それからスチュワーデスはドアをたたき「お客様?お客様?出てきてください、着陸します」
おれがうめき声を上げたので、彼女はドアを開けようとしたが、おれの足がドアにつっかえて開けられなかった。仕方なく、ほぼすべての飛行規則に著しく違反して、飛行機が着陸するまでおれはトイレに留まり、他の乗客が降りるまで待ち、ようやくロブとスティーブの助けでトイレから引きずり出された。おれにはまだすべてが3重に見えていた。ライブ会場であるオンタリオ劇場に着いても回復せず、彼らはおれをテーブルの下に寝かせ、ライブ開始までに回復することを願っていた。おれはサウンドチェックの間ずっとテーブルの下にいた。6時か7時くらいに目が覚めて、まず第一に自分はクソみたいだと思って、第二に何か食べるものが必要だと思った。
「ライブの前に何か食べる時間はあるかい?」とルースに言った(この時点までは彼女はおれに口を聞いてくれたがそれも長続きしなかった...)
彼女は「大丈夫、何か食べに行ってきたら。今日はクアンド・クアンゴが先に演奏するわよ」と言った。
まあとにかく、会場近くのハンバーガー屋に何か食べに行って、ファンの素敵な女の子と食事をしながらおしゃべりして、やっと人間に戻り始めたところで、その男が走って来てびっくりしたんだ。
「ねえ、あなたはバンドから抜けたの?彼らはステージにいるよ」と彼は言った。
「いやいや、おれ抜きでステージに立つことなんてあり得ないよ」と言った。おれは数分しか離れていないと思っていたが、おれは女性ファンに対して昔のヒュー・グラントのような真似をしていた。
次に気づいたときには、ルースが「一体何しているの!?」と叫びながら押し入ってきた。「それでこの女はいったい誰!」
ルースがこの女の子を見て、そしておれに振り返った時、明らかに何かが切れた。彼女はおれのふざけた態度にはもう飽き飽きしていた。彼女は「このゲス野郎!」と叫び、おれに右手で強烈な平手打ちをし、それからおれの腕を掴んで席から引きずり下ろし、会場に引きずり戻した。まあ、当然のことだと言わざるを得ません。
エントランスに入ってホールへと直行すると、バンドは「In a Lonely Place」を演奏していた。
ステージに向かって客席をかき分けながら、自分のバンドの演奏を観ているのは、なんと奇妙なことだろう(正直に言うと、今の状況と少し似ている)。おれの場所にはロブがいて、おれがいつも叩いてるシンバルを叩いていたので、まるで夢のようだった。
おれはよろよろと歩き続け、バンドの残りの全員がおれを見ており、聴衆もじっと見ていたため、何をすればいいのか、何を言えばよいのか分からなかった。だからおれは最初に頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「ハロー、クソ野郎ども」
どうやら聴衆はそれが気に入らなかった。数発のボトルが投げ込まれ、ほとんど暴動に発展しそうになり、ライブの終わりにはプロモーターがおれに大股で歩み寄って、おれの胸に指を突きつけ「2度とワシントンで演奏することはないだろう!」と宣言した。
おれたちは残りのツアーをこなし、帰国する飛行機に乗り、家に到着してソファに倒れ込むと、嫁さんがおれにこう言った。「それで、ツアーどうだったの?」
ああ、おれは言った「ダーリン、ご存知でしょう...」
「休暇でも取ってこいよ、ユダ」
何年も経って、バーニーとおれは、いつも金が足りないことに不満を漏らしながら、数多いファイナンシャル・エキスパートの1人と話していた。「面白いね」と、その男は笑いながら言った。「バンドって、メンバーは全然お金を持ってないのに、小切手帳を握ってる人はいつも大金を持っているじゃないか」と。
確かにそうだ。実際、どのバンドにも、ある程度の経営不行き届きはある。マネージャーはどうしてそんなことができるのか?ミュージシャンが、彼らにそれを許している愚か者だからだ。
おれは十分に満足な生活を送っているし、何年もそうしてきた。でも、たとえ望んだとしても、今仕事を辞めることはできない。一生懸命働いて手に入れた生活を維持するつもりならね。それに、正直に言って、おれよりはるかに成功していないバンドの連中が、経済的にはずっとうまくやっているのを見るのは、本当に腹立たしいんだ。
その理由の1つは、ロブがおれたちの収入をコントロールし、それをハシエンダに注ぎ込んだこと。そしてもう1つの理由は、おれたちがそれに全く気付かなかったこと。アメリカやオーストラリアでポテトを食って楽しんでいる時は、ロブに「あのギグでいくらもらったんだい?経費とのバランスはどうなってるんだい?」などと聞くなんて思い付かないものだ。すべて効率的に運営されているかどうか確認なんて、そんなことするわけがない。
おれたちに関しては、少なくともおれにとっては(他人のことは言えないので)、金は稼がれ、必要な時に備えてどこかに貯められていた。少なくとも最初の部分は正しかった。
2番目の部分はどうだろう?
「現実逃避」ってやつだ。おれはそうしていたせいで何百万ポンドも失い、40年間音楽業界で働き、「ブルー・マンデー」や「ラブ・ウィル・ティア・アス・アパート」の共作者として、数々のヒットアルバムをリリースしてきた今でも経済的には安定しているとは言えない。結局のところ、おれがあの行動をとったこと、そして、おれの収入の30%を永久に、出版権や楽曲使用料の権利をすべて、おれが全くコントロールできない間違ったパートナーシップや企業に譲渡するという、馬鹿げた契約に次から次へとサインして、それに反対の声を上げなかったことについて、おれは自分自身を責めなければならない。今となっては信じられないことだ。
ある話をしよう。1985年、おれは自分のスタジオ「Suite 16」を購入するために1万3千ドル必要だった。そこで、金を借りにロブのところへ行った。忘れないでほしい、正確にはそれはおれが稼いだ金だった。
彼は座って、おれに金を借りるよう懇願させようとした。そして彼は妻のレスリーに電話をかけ「どう思う?金をあげるべきだろうか?」と彼はクスクス笑った。「わかった」と彼は、おれを長い間待たせた後に言った。おれは喜んだ。ついに自由になったと。これで自分で何かができるんだと。それから、おれがドアの外に案内されようとしたまさにその時、彼はニヤニヤしながらこう付け加えた。「でも、他のやつらにも聞いてみないとな!」
まさに屈辱を味わせるためだった。おれは彼を許せなかった。
こういうのが彼の特徴だった。彼におれたちの金のことを尋ねると、馬鹿馬鹿しく感じさせたり、罪悪感を抱かせたりする癖があった。上から目線で言ったり、文字通り投げつけるように金を投げつけたりして、「1000ドルやるよ。さあ、休暇を楽しんでくれ、ユダ」と言ったりするんだ。
それはおれがいつも言っている、まさに決定打の1つだった。ロブはバンドのマネジメントだけでなく、おれたち個人をもマネジメントしていた。マネージャーが個人秘書も兼ね、人生のあらゆる面で指示を出すようになると、力関係が変わり始めてくる。後で見ていくように、それはまさにニュー・オーダーでも起こったことだ。後年、ロブの力がかなり弱まると、バーニーが実質的にバンドのマネジメントを始めた。
それだけでなく、バンドメンバー4人のうち3人がマネジメントを個人的なサービスに利用しているのに、4人目のおれは利用しないという、利益相反の問題もあった。
こうして事態は悪化していく。そして1982年か83年頃、ロブがおれたちのところにやって来て「ファクトリーから金を巻き上げるのに苦労している。彼らは借金を返せないから、会社の株式20%をくれると申し出てきた」と言った。
そこでおれたちは、いつものようにその申し出を受け入れた。彼は言った。「よしじゃあ、株はおれの名義にして、儲けた金はみんなで分けよう」
もちろん、4%ずつ5人で分けて20%にするべきだった。でも、そうしなかったんだ。
彼は取締役としても登録されていたので、最初の取締役報酬はおれたちと分け合った。みんなで一緒にやっていたからね。2回目は、「テストプレスを聴くために上等なレコードプレーヤーが必要だ。だから、取締役報酬で買ってもいいかな?」って。おれたちは「いいよ」って答えた。その素晴らしいレコードプレーヤーは彼の自宅に置かれていた。
その後は、彼は取締役報酬について一切触れなかった。ある時、おれたちの誰かがその話題を持ち出したに違いない。彼の答えは「全部おれがやってんだ、お前らじゃない」だった。「一体全体、なんでお前が金を貰うんだよ!」。
それが、あの報酬について聞いた最後の言葉だった。公平に言えば、ロブの言う通りだった。ファクトリーでの仕事は全部彼がやっていて、それに伴うストレスや心配事も全部抱えていた。彼がおれたちのために株を保有していたから、会社が売却されたとしても、おれたちが受け取るべき金、つまり会社から支払われるべき金は戻ってくるはずだ。
しかし、おれたちが気づいていなかったのは、さらなる問題がすぐそこまで迫っていたということだった。いつの間にか、ロブはコカインに溺れ始めていたのだ。
こういったビジネス上の不満はさておき、成功を収めた1年を経て、「ブルー・マンデー」の復活というおまけまでついてきた。
だがおれたちが知らなかった。クラブDJという新たな市場への扉を開き、彼らはおれたちをメインストリームでかなりの成功へと導いてくれることになったのだ。その夏、多くのホリデーDJがこのレコードを取り上げてくれた。リゾートのダンスフロアを埋める曲となり、誰もが休暇中に聴きたがる夏のヒット曲となった。そして…彼らが戻ってきた時に、もう一度、どれほど素晴らしい時間を過ごしたかを思い出させるために。
トニー・ウィルソンがこのことを知ったのは、ある人からこう言われたからだ。「ブルー・マンデーっていうバンドのニュー・オーダーって新曲聴いた?たしか君のレーベルじゃなかったっけ?」
9月になると突然、反響が爆発的に増えた。チャートでも再上昇し、再びトップ・オブ・ザ・ポップスで演奏するよう依頼された。しかし、またしてもパントマイムでと言われ、前回のことを振り返ると到底無理だったので断った。
もちろんトニーは大喜びで、「ダーリン! お祝いにもう10万枚プレスするよ!」と言った。
「よかったな、トニー」とおれたちは言った。
年表4 1983年1月〜12月
1983年1月4日
『Ultraviolence』のミキシング。
1983年1月5日
『Ultraviolence』(続き)と『Blue Monday』のミキシング。
1983年1月6日
『Blue Monday』(続き)と『The Beach』のミキシング。
1983年1月7日
ロンドン、フィッツロヴィアのAdvisionスタジオでアルバムとシングルの編集作業開始。
1983年1月26日
ニュー・オーダー、マンチェスターのハシエンダでソールドアウトのギグを行う。
1983年1月29日
カーディフの学生組合グレート・ホールで、ザ・ウェイクのサポートを受け演奏。
1983年2月3日
ラジオ・ランカシャーでフッキーのインタビューが放送される
1983年2月
ニュー・オーダー、アーサー・ベイカーとのレコーディングのためニューヨークへ飛び、3週間滞在して「Confusion」の作曲とレコーディングを行う。
1983年2月25日
スウェーデン、ストックホルムのコリンズボーグで演奏
1983年2月26日
スウェーデン、ストックホルムのコリンズボーグで演奏。
1983年3月7日
ニュー・オーダー:『ブルー・マンデー』12インチ(FAC 73)
「ブルー・マンデー」7.29
「ザ・ビーチ」7.19
ランアウト・グルーヴ 1: Outvoted!
ランアウト・グルーヴ 2: Fac 73 IA
ロンドン、ブリタニア・ロウ・スタジオでレコーディングとミックス。エンジニアはマイク・ジョンソン、アシスタントはバリー・セージとマーク・ボイン。
プロデュースはニュー・オーダー。
デザインはピーター・サヴィル。
1983年3月19日に全英チャート入りし、38週間チャートに留まり、最高位は9位。タイトルはFats Domino、B面のタイトルは世界の終わりを描いた1959年の素晴らしい映画『渚にて』から。
1983年3月11日
ニュー・オーダーはブリクストンのエースで演奏。サポートはストックホルム・モンスターズ。
バンドは翌日放送されたラジオ1のRock Onでリチャード・スキナーのインタビューを受ける。
1983年3月12日
ニュー・オーダーはキングストン・アポン・テムズのトルワースにあるレクリエーション・センターで、ストックホルム・モンスターズのサポートを受け演奏。
「ここで、どのバンドも全く同じだということが証明された。モンスターズは崩壊した。全員が酔っ払って暴れていた。ギタリストのチョップはボーカルの兄に襲いかかり、ギターを振り回して頭を殴りつけたが(幸いにも)命中しなかった。ピアノを弾くのは中学2年生のリタだったが、ひどく酔っていて演奏できなかった。新しいベーシストのカーシュは倒れ、助けてもらったり、引きずってステージから降ろしてもらった(数年後、このモストン出身の愛すべき若者カーシュはヘロイン中毒から抜け出そうとしたが失敗し亡くなった。安らかに眠れ)。おれと彼らの新しいマネージャー、アンディ・フィッシャーはミキシングデスクの下に隠れ、PA担当者にすべてが終わったら声をかけてくれるように頼んだ」
1983年3月23日
ニュー・オーダー、リバプールのステイトで演奏。サポート・アクトはJames。
「ジェームズは素晴らしいグループだ。彼らのオリジナル・ドラマー、ギャビンはマンチェスターで最高のドラマーの1人だった。彼とレニ、そしてスティーヴ・モリスは間違いなくマンチェスターのトップ3に入ると思う。2晩演奏して、初日はソールドアウトだった。素晴らしいギグだった。リバプールの観客は、ワルシャワ時代そこで演奏して以来、いつもおれたちに好意的に接してくれている」
1983年3月24日
ニュー・オーダー、リバプールのステイトで演奏。
1983年3月31日
ニュー・オーダー、初めて『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演。「ブルー・マンデー」を生演奏。
1983年4月
ニュー・オーダー、チャンネル4の番組スイッチに出演。「エイジ・オブ・コンセント」と「ブルー・マンデー」を演奏。
「チャンネル4はもっと自由で、セッティングと音響もずっと良かった」
1983年4月11日
ニュー・オーダー、エディンバラのコースターズで演奏。ザ・ウェイクがサポート・アクトを務めた。
1983年4月12日
ニュー・オーダー、エディンバラのアセンブリー・ホールで演奏。ザ・ウェイクがサポート・アクトを務めた。
「当時の彼らのベーシスト(ボビー・ギレスピー)が、ベースを盗まれたから貸してくれないかって言ってきたのを覚えてる。普段なら断るけど、哀れに思っておれのベースを貸してやったんだ」
1983年4月13日
ニュー・オーダーはスターリングのセント・アンドリュース大学で演奏。ザ・ウェイクがサポート・アクトを務めた。
1983年4月14日
ニュー・オーダーはグラスゴーのティファニーズで演奏。ザ・ウェイクがサポート・アクトを務めた。
「ワイルドなギグだった。グラスゴーはマンチェスターと昔から素晴らしい親和性を持っていた。ソーキーホール・ストリートで行われたこのギグは、最初から大混雑で騒々しかった。警官はいつも3人組で会場内を歩き回っていた。観客からは飛び散る唾や飛び交うものが大量にあったし、指なし手袋をはめた黒髪のパンク野郎が本当に厄介だったのを覚えている。ライブが終わると、観客にからステージ上のおれたちから向けて、身振り手振りが飛び交った。すると突然、クルーのスリムがフライトケースの壁の隙間から飛び出してきて、まるで映画『300 スリーハンドレッド』のスパルタのリーダー、レオニダスのように闊歩し始めた。彼が「いい加減にしろ!全員ぶっ殺してやる、スコットランド野郎ども!」と叫ぶと、観客全員が後ずさりした。スリム対グラスゴー。そして、何と、スリムが勝った。彼らは外に出て路上で乱闘を続けた。おれたちが去る時、人々がチップスを置き、乱闘の中に飛び込み、数発パンチを繰り出し、そして戻ってきてチップスを拾い、食べ続けるのが見えた。奇妙でワイルド。おれはそんなグラスゴーが大好きだ」
1983年4月15日
ニュー・オーダー、スコットランド、エアのオリエント・シネマ(エア・パビリオンに移転)で演奏。
1983年4月22日
ニュー・オーダー、アイルランド、コーク州サヴォイで演奏。サポートバンドはポーセリン・ティアーズ。
「ショーの後、ホテルのロビーで雑談していると、1人の老婦人が通りかかった。おれたちのアクセントを聞いて、『あんたたちイギリス人かい?』と大声で尋ねた。『そう、マンチェスターだよ、ダーリン』と答えた。すると彼女はおれの靴に唾を吐きかけ、罵りながら立ち去った。本当にショックだった。ショーでは彼女の姿は見かけなかったのに」
1983年4月23日
ニュー・オーダーはユニバーシティ・カレッジ・ゴールウェイで演奏。サポートバンドはニュー・テスタメントとオール・キャッツ・アー・グレイ。
「このツアーでは唾を吐くことが多すぎて、ゴールウェイ公演の頃にはもううんざりしていた。ワインの空き瓶に小便を入れたり、緑色のものを山ほど入れたり、タバコの吸い殻とか、その他諸々を詰め込んだりして、『よし、今夜も誰か唾を吐いたら、こいつを頭にぶち込んでやる』って決めてたんだ。そうこうしているうちに、もちろん皆また唾を吐き始めた。特に1人の若者が、おれをからかって大喜びしていた。それでおれは例のボトルを手に取って彼のところへ行ったら、彼はそれをワインだと思ったんだ。おれはニコニコ笑ってるし、彼もそれをワインだと思って口に注いだ。すると突然、彼の顔が青ざめて、すごく気持ち悪いものが口の中に注がれたことに気づいたんだ。すると観客は騒ぎ出して、更にいろんなものを投げつけてきた。それで、おれはマイクで「いいか、このクソアイルランド野郎どもが、もし物を投げるのをやめないなら…」って言ったんだ。その言葉が口から出た途端、ああ、あんなこと言うべきじゃなかった、って思った。案の定、大量の瓶が雪崩のように飛んできて、おれは身をかがめたんだけど、そのうちの1本がスティーブの頭の横に直撃した。彼は椅子から転げ落ちた。ごめんよ、スティーブ。またしてもワイルドなライブだったよ」
1983年4月24日
ニュー・オーダーはアイルランド、キルケニーのローズ・ヒル・ホテルで、ポーセリン・ティアーズのサポートを得て演奏した。
「定説がある。素敵なホテルに泊まるとライブは最悪。ホテルではまるで王様のように扱われ、オーナーにレストランとバーを自由に使わせてもらった。プールもあった。その夜はみんな泥酔して、全く役に立たなかった。さらに残念なことに、このライブはラジオ1のリチャード・スキナーの番組のために収録されていた。観客は15人ほどで、おれたちのパフォーマンスもひどくて、本当に衝撃的だった」
1983年4月26日
ニュー・オーダーはアイルランド、ダブリンのサー・フランシス・ザビエル・ホールで演奏した。
1983年5月2日
ニュー・オーダー:パワー、コラプション・アンド・ライズ(FACT 75)
ランアウト・グルーヴ1:Where's Murder?
ランアウト・グルーヴ2:I said where's Murder?
ロンドン、ブリタニア・ロウ・スタジオで録音・ミックス。
エンジニア:マイク・ジョンソン、アシスタント:バリー・セージ、マーク・ボイン
プロデュースはBe Music(ニュー・オーダー)
デザインはピーター・サヴィル(Roses: Fantin-Latour)
1983年5月14日に全英チャートにランクインし、29週間チャートに留まり、最高位は4位。発売後2ヶ月でイギリスで7万5000枚を売り上げた。『Movement』とは異なり、レビューは非常に好評だった。
「このカバーアートはピーター・サヴィルのお気に入りだったと言われている。彼はナショナル・ギャラリーからアンリ・ファンタン・ラトゥールの『Roses』の写真を借りていた。トニー・ウィルソンがその絵の使用許可を求めたところ拒否され、そもそもその絵はどこかに貸し出されていると言われた。トニーは憤慨し、この絵はイギリスの納税者が所有しているのだから、おれたちにはそれを見る権利だけでなく、適切と考える方法で使用する権利もあると主張した。驚くべきことに、ギャラリーはそれに従い、絵は返却され、使用許可を出した。こうして、古典的な静物画とサヴィルの色相環を巧みに組み合わせ、アルバムの詳細を暗号のように表現する素晴らしいインスピレーションを表現できたのだった。ピーターはカセット版で誤って2曲の仮題を使用し、「Your Silent Face」を「KW1」、「Ecstasy」を「Only the Lonely」と表記してしまった。バーニーはインタビューで、アルバム全体を「ポンド、シリング&ペンスで作ったLPだ。わかるだろう(ウィンク、ウィンク)」と語っており、これはアルバム制作中にLSDを摂取していたことを示唆している。これは馬鹿げた発言で、彼がこのアルバムで成し遂げた画期的で革新的な仕事を軽視しているように思える」
1983年5月9日
ニュー・オーダー、バーミンガムのタワー・ボールルームで演奏。サポートバンドはジェイムズ。
1983年5月10日
ニュー・オーダー、ハンリーのヴィクトリア・ホールで演奏。サポートバンドはジェイムズ。
1983年5月20日&21日
ハシエンダ、オープン1周年を祝う。
「当時、クラブは月に1万ポンドの赤字を出していた。おれたちの週給は103ポンド(昇給分と国民保険料3ポンド)だった。何も知らないおれたちは幸せだったが、素晴らしい夜だった。行ったのはおれとバーニーだけだったと思う。ある夜、スティーヴとジリアンがクラブに来たが入場を拒否されてしまった。2人は激怒し、そして二度と来なかった。おれとバーニーは2人で月に4000ポンドの赤字を出していたが、少なくとも酒はタダで飲めるようになっていた」
1983年5月27日
ニュー・オーダー、オランダのテレビ番組「ヴェロニカズ・カウントダウン」に出演。
1983年6月17日
ニュー・オーダー、ジョージア州アトランタのクラブ688で演奏。
「素晴らしいクラブだった。前夜のイギー・ポップのセットリストがステージ脇の壁に走り書きされていた。素敵な女性がランチを運んできてくれて、最後に接客したイギリスのバンドはシド・ヴィシャスもいたセックス・ピストルズだったと話してくれた。『本当に素敵な人たちだったわ。とても礼儀正しいの』と彼女は優雅に言った。おれたちはすっかり魅了されてしまった」
1983年6月19日
ニュー・オーダーはテキサス州オースティンのナイトライフ、クラブ・フットで演奏。サポートバンドはオールモスト・エニワン。
1983年6月21日
ニュー・オーダーはカリフォルニア州ロサンゼルスのフロレンティーン・ガーデンズで演奏。
1983年6月23日
ニュー・オーダーはカリフォルニア州フラートンのファンタジー(別名ビリー・バーティーズ・ローラー・リンク)で演奏。サポートバンドはポンペイ1999とサッカリン・トラスト。
「楽屋でバーニーがアンディ・リドルにカップケーキを投げつけたんだ。仕返しに、シャワーを浴びているバーニーの頭にアンディが大量のコールスローをぶちまけた。バーニーは何日もその油と臭いが取れなかった。ショーの後、後に親友となりヴァージン・レコードのA&Rマンとなるマーク・ウィリアムズに会った。彼と一緒にいた2人の女の子は、まるで『One Million Years B.C.』のポスターから飛び出してきたかのようだった。2人ともラクエル・ウェルチに似ていた。そのうちの1人は後にボブ・ディランの恋人になったとマークは後に教えてくれた。『2人はパーティーで出会ったんだ』と彼は言った。『彼女はディランを、ふらりとやってきた浮浪者だと思ったらしいよ』と。他に特筆すべきことは、テリー・メイソンがひどく日焼けし、翌日プールに飛び込んだ時に大量の皮膚が剥がれて水面を埋め尽くしたこと。彼がプールから出ると、まるで銃弾を浴びせられたかのようだった。プールの周りにいた全員が悲鳴を上げて逃げ出した」
1983年6月24日
ニュー・オーダー、カリフォルニア州サンフランシスコ、エコー・ビーチで演奏。
「『エコー・ビーチ』で有名になった素敵なマーサ・ラドリーと出会うことになる。彼女はピーター・サヴィルの恋人になったのだ。そして1982年、おれは彼女のソロシングル『Light Years from Love』ためにベースを弾き、125ポンドという高額のギャラを受け取った。すごく嬉しかった」
1983年6月25日
ニュー・オーダー、カリフォルニア州サンフランシスコ、Iビーム・クラブで演奏。
「レッドロックスに来るまでは、全米で一番好きなコンサート会場だったんだ。ヘイト・アシュベリーという、すごくファンキーな地区にあったし、最高の雰囲気だった。『Thieves Like Us』を初披露した」
1983年6月27日
ニュー・オーダー、カナダ、バンクーバーのコモドールで演奏。
1983年6月29日
ニュー・オーダー、ミネソタ州ミネアポリスのファースト・アベニューで演奏。
「クラブのマネージャーから、ショーの後にオーナーの家に行って、自宅スタジオでジャムセッションをしないかと誘われたんだ。『彼は若いミュージシャンを応援しているんだ。ペイズリー・パークっていうんだよ。何もかもが紫色なんだ!』とマネージャーは説明した。『あの変質者どもにファックオフと伝えてくれ』とおれたちは言った」
1983年6月30日
ニュー・オーダー、イリノイ州シカゴのメトロで演奏。
「今までやったライブの中で最も暑かったライブの1つだ。あまりの暑さにエンジニアが温度計を買ってきて測ったんだ。そしたらなんと48℃もあったんだ!アムクロンDC330Aのアンプのサーマルカットアウト(120度に設定)が頻繁にシャットダウンしたり、勝手にオンオフしたりを繰り返した。ベルトと靴はあっという間に汗で濡れてしまった。ジリアンでさえ汗だくだった。オーナーのジョー・シャナハンは、次回の演奏ではエアコンを設置すると約束し、実際にそうしてくれた」
1983年7月2日
ニュー・オーダー、ミシガン州デトロイトのセント・アンドリュース・ホールで演奏。
1983年7月5日
ニュー・オーダー、カナダのモントリオール、スペクトラムで演奏。
1983年7月7日
ニュー・オーダー、ニューヨークのパラダイス・ガレージで演奏。クアンド・クアンゴのサポート。
「パラダイス・ガレージは今まで見た中で最高のクラブだった。巨大で、天井から3台のステレオ・サウンド・システムが吊り下げられていて、なんと6スタックもあった! それぞれが独立していたので、DJはダビングしたり、低音をカットしたり、高音をカットしたり、音を出し入れしたり、素晴らしいエフェクトをかけることができた。残念ながら、イギリスのクラブのPAのほとんどはモノラルだ。パラダイス・ガレージのオーナーが2匹のドーベルマン・ピンシャーを飼っていたのを覚えている。彼らはどこへ行くにもオーナーの2歩後ろをついて歩き、オーナーが止まるとぴたりと止まっていた。オーナーは彼らの耳をガムテープで固定していた。そうすることで耳が立つようになるからだ。そうしないと自然に垂れ下がってしまうが、訓練すれば立つようにできる。おれが引退したら絶対に2匹買うよ」
1983年7月8日
ニュー・オーダー、ワシントン州オンタリオ劇場で演奏。
「ああ。これは最高の瞬間とは言えないな」
1983年7月9日
ニュー・オーダー、ニュージャージー州トレントンのシティ・ガーデンズで演奏。
「バーニーはステージであの小さくて肌にぴったり合う白いショートパンツを履く癖があって、すごく見苦しかった。あれには本当にイライラした。本当に見苦しいと思っていたし、このライブでは、観客席の前の方にいた若い女性が、ライブ中ずっと彼のショートパンツについて叫び散らしていて、それがすごく面白かった。終演後、バーニーがステージに出て、前の方にいたテリーと話していると、その女性が再び現れて「あのファキンショートパンツ!」と叫び、彼のショートパンツを掴んで足首まで引きずり下ろしたんだ。彼はおれと同じように下着を履いたことがなかったので、タイトなショートパンツが足首に絡みついたまま、白いお尻を出してステージをよちよちと降りていく彼の姿は、一生忘れられないだろう。ありがとう、ヴァネッサ」
1983年7月20日
ニュー・オーダー、ハシエンダで演奏。
1983年8月
ニュー・オーダー:『コンフュージョン』12インチ(FAC 93)
『コンフュージョン』8.13
『コンフューズド・ビーツ』5.19
『コンフューズド・インストゥルメンタル』7.33
『コンフュージョン・ラフ・ミックス』8.04
ランアウト・グルーヴ1:ティム・トム・Cbs!
ランアウト・グルーヴ2:こんな風にはやらなかった!
ニューヨーク、ユニーク・スタジオにて録音。
作曲:ニュー・オーダーとアーサー・ベイカー
プロデュース:アーサー・ベイカーとニュー・オーダー
エンジニア:F・ヘラーとC・ロード
ミックス:アーサー・ベイカーとジョン・ジェリービーン・ベニテス(ニュージャージー州EARSにて)
ミックス・エンジニア:ジョン・ロビー
デザイン:ピーター・サヴィル
9月3日、イギリス・チャート入り1983年、チャートに7週間ランクインし、最高位は12位。
1983年9月27日
トニー・ウィルソンは、チャンネル4の番組「ルーズ・トーク」に出演し、ア・サーテン・レイシオと共にナチスのイメージ使用を擁護した。トニーはこの論争で初めて新聞の一面を飾り喜んだ。マンチェスター、プレストウィッチの「ザ・ジューイッシュ・クロニクル」紙は、ハシエンダとクロード・ベッシーがクラブのスクリーンでドイツのプロパガンダビデオを使用したことについて大きな記事を掲載した。
1983年10月18日
タラス・シェフチェンコのビデオ(IKON 4)がリリース。ビデオはニューヨークのウクライナ国立ホームで撮影。
1983年10月
ファクトリー・アウトイングのビデオがリリースされ、ファクトリーの様々なバンドがフィーチャーされた。ニュー・オーダーは「5.8.6. (Prime 5.8.6.)」と「Your Silent Face」を提供。
1983年10月10日
ニュー・オーダーがBBCの番組「リバーサイド」でインタビューを受ける。
1983年10月31日
ハシエンダの共同運営者ハワード・“ジンジャー”・ジョーンズが解雇される。
「我々はこの件について何も知らされておらず、意見を問われることさえなかった。ただ彼らがやったことだった。スケープゴートが必要だったんだと思う」
1983年11月30日
ニュー・オーダーは、キッド・ジェンセンが司会を務める番組「DJ」のパイロット版で「Thieves Like Us」の演奏を収録した。
1983年12月
ニュー・オーダーは、ブリクストン・アカデミーでジェイムズ、ザ・ウェイクのサポートを受け演奏。
「おれたちはいつもサポートバンドには丁重に接してきた。おれたちが前座をしていた時の扱いには本当に恐怖を感じていたから。だからツアーでもハシエンダでも、この悪循環を断ち切ろうと思った。彼らには必ず報酬を支払い、十分な演奏時間ときちんとしたサウンドチェックをさせた。多くの場合、費用はおれたちの負担でね」
1983年12月2日
ニュー・オーダーはボーンマスのタウン・ホールでジェイムズ、ザ・ウェイクのサポートを受け演奏した。
1983年12月3日
ラジオ番組「DJ」で「Thieves Like Us」を放送。
ニュー・オーダー ベスト10ソング
1. 「Thieves Like Us」
2. 「Leave Me Alone」
3. 「Homage」(未発表曲)
4. 「Too Late」(ジョン・ピール・セッション)
5. 「Someone Like You」
6. 「Ruined in a Day」(K-Klass Remix)
7. 「Every Little Counts」
8. 「Age of Consent」
9. 「Temptation」
10. 「Elegia」
「Love is the air that supports the eagle」
1984年のニューオーダーの成功は「ブルーマンデー」と4月の「シーブス・ライク・アス」のリリースにより最高潮に達した。ファクトリー・レコードは舞台裏で、前年6月にディレクターを辞任したマーティン・ハネットとの法的紛争を解決し、2万5000ポンドの支払いを受け入れた。一方、ファクトリーは1月にハシエンダから放送されたTV番組The Tubeでの栄光を享受した。
「Thieves Like Us」の曲名の由来となったニューヨークの落書きは、アーサー・ベイカーによって発見されたという説もある。しかし実際には、エドワード・アンダーソンの1937年の小説であり、その後1974 年にロバート・アルトマンによって映画化された。レコードとしては、完璧な知性の命題であり続け、世界中の知識人に愛され続けた。しかし、実生活では、おれたちはどこに行ってもそのイメージを無駄にし続けた。
おれはこのレコードにとても満足しており「Thieves Like Us」は「Blue Monday」よりも遥かに優れた曲だと思った。マイク・ジョンソンをエンジニアとしてブリタニア・ロウで再びレコーディングすることに決め、おれたちはこのセッションを4日間で素早く終えた。バーニーとスティーブは傑作的なキーボードとドラムをプログラムしており、ベースギターのリフはホットチョコレートの「エマ」をヒントにして生まれた。歌詞はとても刺激的で、本物のラブソングで、言葉もスムーズに流れた。 そしてB面はエルヴィスへのオマージュ「ロンサム・トゥナイト」だった。
その時バーニーは、突然笑いが止まらなくなりまともに歌えなくなってるエルヴィスの「Are You Lonesome Tonight?」のライブ録音に夢中になっていた。その笑い版「Are You Lonesome Tonight?」でエルヴィスは曲を台無しにし続けているが、それは非常に面白い。バーニーはある夜、ステージ上でジャムしてみようと提案し、「簡単なコードだ。CとFだけだから!」と言った。その結果、エルヴィスのようにはならなかったが、この輝かしい曲がB面として、真のニュー・オーダー流として提供されたのである。素晴らしいドロップダウン。曲の終わりのひどいノイズは当時ひどかった風邪のせいだと認めざるを得ない。おれがハンカチに痰を吐いているのを聞いたバーニーは、美しいものと醜いものとのコントラストが面白いから、その音を収録してみてはどうかと提案した。彼はまったく正しかった。
ピーター・サヴィルのカバーデザインは、ジョルジョ・デ・キリコの形而上学的な絵画「王の邪悪な天才」(1914〜15年)に基づいていた。周囲の数字は18世紀のボードゲーム「ユダヤ人のゲーム」から引用された。ピーターによる数字は完全にランダムであり、レコードに何らかの形で関連する可能性のある数字を除外するためにあらゆる努力が払われた。ピーターとトレヴァー・キー(写真家)は、何か難解な、あるいは邪悪なメッセージが読み取られることを望んでいた。音楽マスコミがまさにそうしたことだ。
おれたちは依然として国内外で可能な限りどこでもギグをしており、デュッセルドルフではアメリカで学んだ教訓を活かして、ギグの後に数人の素敵な女の子たちに会った。彼女たちは英語をあまり話せませなかったが、とてもかわいかった。次のライブはフランクフルト。バーニーは相変わらず無関心な様子で振る舞い、おれは群衆を注意深く見守っていたが、そのとき突然、彼女たちがステージの正面まで突進してくるのを見つけた。そして彼女らは1枚の紙切れを差し出していた。バーニーは相変わらず何も考えず、ペルノに夢中になっていた。バーニーに無視されたということが彼女らをさらに怒らせ、叫び声を上げたり、身振り手振りをしたりし始めた。おれはよろよろと歩み寄ってメモを掴み「やめてくれるかい?いま演奏中なんだよ」と言った。
ギグの終わりにそのメモを広げると、そこには「おまえたち2人はイギリス人のロクでなしだ」と書かれていた。
最初おれは意味が分からなかったが、実際その通りだった。問題は、おれたちのローディーたちが、自分たちをバンドのメンバーだと偽る癖がついていた事。その結果、叫びながらホテルの部屋のドアを蹴り破ろうとしている女の子を何度も目撃した。そんな彼女たちの家までのタクシー代を渡さなければならなかったことが、すぐに数えられなくなった。
一番面白かったのは、アメリカのホテルで、壁越しにローディの1人がアカペラで「ブルー・マンデー」を歌っているのが聞こえた時だった。「How does it feel・・・」
次の日の朝食時に聞いてみた。「あれは一体何だったんだ?」
「ああ、あれかい・・・」と彼は恥ずかしそうに言った。「ベッドの上で彼女を脱がせて、いざ飛び込むという時に、彼女は両足の間に手を入れ、しっかりと締め付けて、あなたが歌うまでやめないと言ったんだ。だから歌ったんだよ」
このドイツツアーではシャーク・ベガスがサポートしてくれた。彼らの女性マネージャーはおれたちより少し年上で、すごく美人だった。ある夜、ベルリンで夕食をとった後、彼女は立ってこう言った「家に帰るから、ピーター、あなたも一緒に来て」
おれは「なに!?」と思って、食べていたザワークラウトで窒息しそうになった。
「さあ行きましょう、早く、早く」
素晴らしかったです。
翌朝、おれは「じゃあ朝食でも食べに行こうか?」と言った。
「いいえ、あなたはもう帰るのよ」と彼女は答えた。そして彼女はさりげなくおれを追い出し、タクシードライバーにおれのホテルの住所を伝え、帰した。少なくともおれには例の女の子たちの気持ちが分かった気がした。
それでも、ツアーは順調だった。おれたちの敬愛するリードシンガーが、憂慮すべき新たなトレンドに全力を尽くし始めることを決意するまではね。
バーニーについておれがいつも感じていたことの1つは、彼が不機嫌な状態の時、他の全員がそれを問題にしていたということだった。おれの父がよく言っていたように「自分が苦しんでいる時は周りもまた苦しんでいるんだぞ」。つまり、バーニーが不愉快だった時はおれたち全員が不幸になるはめになった。彼が腹を立てた時、そのほとんどの場合、巨大な黒い雲が彼を追ってくるようなものだった。そして彼の怒りの標的が誰であるかどうかは問題ではなかった。全員はただ我慢しなければならなかった。おれはイアン・マッカロック、ジョン・ライドン、ビリー・コーガンなど、バーニー以上に怒りっぽいリード・シンガーにも会ったことがあるが我慢するのは簡単ではなかった。
コペンハーゲンでの夜、バーニーは疲れ果て、完璧に酔っ払っていた。それでも彼はおれたちのフロントマンだ。そして、誰もが知っているように、フロントマンを務めるのは難しい仕事だ。問題は、自分の疲労の原因を他人にぶつけ始めた時だった。彼はそれには手腕を発揮した。彼が執念深い人物であることもその要因である。
コペンハーゲンのギグではアンコールなど考えもせず、彼は勢いよくステージを去っていった。ロブはアンコールをしなければまた暴動が起きるのではないかと危惧していた。バーニーの代わりにローディーのスリムをボーカルに据えてステージに戻り、演奏するというプランを立てるまで数分が経過し、なんとかそれをやり遂げることができた。
この問題は時が経つにつれ顕著になっていった。
不機嫌なバーニーが楽屋を去ると、黒い雲もまた彼を追って出ていった。バーニーが去ったという知らせを聞くとすぐに人々が歓声を上げ宴会が始まった。彼が立ち去ると、おれたちは「万歳!」と言い、シャンパンとツイグレットに手を伸ばすのだった。
しかし、時々彼は戻ってきた。「ジャケットを忘れた…」と。
おれたちはみなフリーズした。そのまま彼が楽屋に留まることにした場合に備え、部屋は息をひそめていた。
そして彼はまた去っていった。
「万歳!」
哀れなバーニー老人には、何年もの間、どれほど多くの部屋が人々彼の旅立ちを祝ってきたかなど見当もつかないだろう。
「帳簿は一目見るだけで十分」
多くの悲惨な話と同様、ニュー・オーダーの税務問題もハシエンダで始まった。源泉徴収税(PAYE)の監査が迫っていたため、経営陣は受付けの女性にこう言った。「税務署の人間が来る。そしたら、あそこにある帳簿を渡してくれ。何があっても、こっちの帳簿は渡さないでくれ。それは現金出納帳だからな」
現金出納帳には、一部の従業員を給与所得者として帳簿に載せ、それに伴う追加負担を負わせるのではなく、臨時従業員として現金で支払うという慣行が記録されていた。これは基本的に、源泉徴収税と国民保険料の支払いを税務署からごまかし、会社は多額の費用と書類作成の手間を省き、臨時従業員は多額の税金を払うという方法だった。1980年代には、疑わしいながらも蔓延していた慣行だった。
それで、男がドアを開けて「こんにちは、源泉徴収税の担当者です。帳簿を受け取りに来ました」と言ったら、彼女は「ああ、はい。どうぞどうぞ」と言って、現金出納帳を渡した。
これが全ての始まりだった。帳簿を一目見ただけで、税務官はハシエンダの調査を開始した。クラブの経営があまりにもひどいため、税務官は次々と問題を発見し、ついには手をこすり合わせて、残りの運営についても調査することにした。ファクトリー・レコード、ニュー・オーダー、ジョイ・ディヴィジョン、そしておれたち個人についてもだ。
そこから事態は悪化の一途を辿った。税務官がハシエンダの会計上の破綻を暴いたことで、おれたちの他の業務も同様に杜撰なのではないかと期待していたのだ。そしておれたちは彼を失望させなかった。
話はとてつもなく技術的な話になっていった。というのも、まず彼らがやろうとしたのは、ファクトリーから給料を受け取る前に、収入に対する税金を支払わせることだったからだ。つまり、レーベルに10万ポンドの収入があり、その半分がおれたちに支払われるべきだとしたら、女王陛下はおれたちに支払われる前に、ファクトリーから税金を徴収しようとした。これは歳入関税庁(HMRC)にとっても前例のないことで、かなり苦労した。
次に困ったのは、大量の書類が不足していることだった。もっと正確に言うと、書類がまともに記入されていなかったのだ。
PIIDは、例えば社用車をちょっとした買い物に使ったり、会社の電話を使ったりしていることを税務署に申告するために記入する書類であることが判明した。税務署は、会社所有の物品を私的に使用することを、冗談を言わない限りは気にしない。これは「現物給付(benefit in kind)」と呼ばれ、代わりに求められるのは、PIIDフォームに記入して、追加で支払うべき税金を支払うことだけだ。
だがおれたちは一度もそうしたことがなかった。何年間もね。実際、合法的に活動するようになってからは一度もなかった。
ファクトリーの会計士になぜPIIDフォームに記入していなかったのかと聞いたら「あなた側が記入していると思っていた」と言われた。
おれたちは「いや、おれたちはミュージシャンなんだ。会計士はあんただろ」と言った。
8年間PIIDフォームを未記入だったため、その件でも罰金を科せられた。
次に注目を集めたのは、ファクトリーがジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダーの資金を、おれたちの有限会社には入金せず、ハシエンダに送金するという不正行為だった。ロブはそれが違法だとは知らなかった。彼らは2度同じことをしており、どちらもニュー・オーダーが海外にいて、クラブの営業を続けるために緊急に資金が必要だった時だった。ロブはトニーにそうするように指示していたが、おれたちはそれによる影響を理解していなかった。決して隠そうとしていたわけではない。
さて、なぜマネージャーが金銭問題の不正を防ぐために現場にいなかったのかと疑問に思うかもしれない。答えは、ロブがいつもおれたちと一緒にいたからだ。なにも常に彼に一緒に居てもらう必要はなかったのだ。レコーディングとライブ演奏は、手伝う必要のない2つのことだった。彼はマンチェスターのファクトリーのオフィスにいて、おれたちがうっかりホワイトカラー犯罪者にならないように見守っているべきだった。
結局、他のことも含め、最終的におれたちは有限会社での詐欺罪2件で起訴されることになった。
ディーンズゲートの近くにある税務署で面談の依頼を受けたので、皆で駆けつけた。恐怖に駆られながら、事務所に押し込められた。5人が座ると、ロブが真ん中に座った。テーブルの反対側には2人の税務署員が座っていた。1人はいかにも陰気なスコットランド人で、もう1人は眼鏡をかけたオタクっぽい事務員だった。典型的な悪徳警官と善徳警官の構図といったところか。
準備が整うと、スコットランド人の方が「お茶をお出ししましょうか?」と尋ねた。
おれたちは「はい」と答えた。するとすぐに、可愛らしいピンクの花が飾られた陶器のティーセットが登場し、一風変わった茶会が始まった。
「お茶をどうぞ、グレットンさん」
「えーと…はい、いただきます」
「ミルクと砂糖はいかがですか、グレットンさん?」
「えーと…ミルクだけでいいです」
それからスコッティは紅茶を注ぎ、ミルクを注ぎ、そしてロブにカップとソーサーを渡した。ロブは普段から震えていたが(理由は後で分かった)、手を差し出すと、おれたちにも彼の手が震え始めるのがわかった。そして、両手で受け取った。
おれたち4人は、この光景に釘付けになっていた。カップとソーサーが渡されると、ロブの目は集中力で飛び出し、スコッティが紅茶を渡すと、カップとソーサーは空中で飛び回り、紅茶があちこちに飛び散った。ロブがそれを膝の上に引き寄せると、彼の体にも飛び散った。
おれたちは顔を上げると、スコッティが同僚の税務署員の方を向き、ゆっくりと、しかし賢明に頷いた。始める前から罪悪感に苛まれていた。血まみれのカップとソーサーに裏切られたのだ。しかも、ビスケットもない。
その後の会議は、悪化の一途を辿った。おれたちの不備が次々と突きつけられ、罰金から投獄まで、次から次へと脅迫された。
それからジョイ・ディヴィジョンのTシャツについて、かなりシュールなやり取りが始まりまった。おれたちは誇らしげに、自分たちはどんな自己宣伝も信じておらず、音楽そのものに語らせたいからグッズなどは売ってないと宣言した。
「馬鹿馬鹿しい!」とスコッティは大声で言った。「じゃあどうして私が行く先々でジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーのTシャツが売られている現場を見るんだい?」
さて、彼がどこでこんなものを見るのか全く見当もつかなかったが、とにかくおれたちは皆言葉を失った。
彼は続けた。「到底信じられない。罰金を科すことになるよ」
このままじゃ自分たちで作ってないTシャツのために1万ポンドの罰金を科せられることになるぞ。実のところ、ジョイ・ディヴィジョンのTシャツを世界中で正式に販売するのは2012年になってからだった。
結局、みんな疲れ果てて、オフィスからどさっと出て、落胆しながら出口へと向かっていた時、スコッティがまた背後に現れて「待って!」と叫んだ。
なんてこった!一体どうしたんだ?他に何か分かったことがあるだろうか?振り返ると、彼は満面の笑みで「君たちはまだ帰れない。まだ私のLPにサインしてないんだからね」と言った。おれたちは子猫のように素直にサインした。彼は「ちゃんと帰れるかい?幸運を祈ってるよ」と付け加えた。最悪だ。
後で聞いた話だが、税務署員には会う必要はないらしい。どうやら税務署員はおれたちに強制はできないらしいのだ。会計士とだけ交渉すれば済むらしい。なのに残念ながら、おれたちは自力で行った。
また別の時、モストンの自宅に税務署員がやって来て、持ち物を全部調べられた。食器を数え、庭の小屋に口ばしを突っ込み、スパナ1本まで調べられた。そしてついに、彼らが帰る時に、1人がおれの方を向いてにやりと笑って言った。「フックさん、あのお金はどこへ行ったんですか?」
「え?何だって?」
「自宅にはほとんど何もないのに、何十万ポンドも稼いでいるじゃないですか。そのお金は一体どこへ行ったんですか?」
その時は、彼が生意気な奴だと思って、できるだけ怒って追い出した。でも今になって思うと、本当に不思議だ。あのお金はどこへ行ったんだろう?どうして誰も何が起こっているのか聞かなかったんだ?愚か者め!
どうしてロブはちゃんと仕事をしなかったんだろう?どうしておれたちが稼いだ金を大切にしなかったんだ?実のところ、彼はツアーでおれたちとワイルドな時間を過ごすのに忙しすぎた。正直に言うと、当時はそれがおれたちにとってベストだったんだ。だって、ギグの騒動から抜け出すのに苦労するとなると、ミスター・グレットンが近くにいてくれると本当に助かったんだから。
あの女王陛下の歳入徴収官とのあの顛末で、おれたちは約100万ポンドの罰金を科せられ、未払いの税金も支払わなければならなかった。もちろん、その税金はどれも控除の対象にはならなかった。イギリスのポップグループ史上、最高額の罰金だったと、誇らしげに知らされた。
また、物事がいかにひどく崩壊しつつあるか、リンゴの芯が腐っているかということを初めて自覚した時でもあった。経営陣の中には、自分が何をしているのか分かっていない人もいるかもしれない、と突然悟ったんだ。しかし、もしそれが大事な教訓だったとしても、それでもまだ十分に厳しい教訓ではなかった。なぜなら、おれたちは何もせずにそれに応えたからだ。
1984年のこの時点では、ニューオーダーのメンバー全員が他のバンドのプロデュースにも携わっていた。主にファクトリーで「Be Music」というクレジットで活動していた。これはロブのアイデアだった。彼はおれたちを1つの存在として見てもらいたかったのだ。まるで、おれたちの誰かがニュー・オーダー以外で名を馳せることを心配しているかのようだった。当時はそんなことは気にもしていなかったので、敬意を持ってそれに従った。それは、すべてをバンドの一部として保とうとする彼のやり方だった。おなじみの力学、パターンが見えてきただろう?おれたちが一方に引き離されそうになると、ロブはそれを引き戻そうとする。そして、ついにおれたちの1人であるバーニーが、制作物には個人の名前を使うべきだと主張し、その方針が撤回されるまで、その状態は続いた。
アーサー・スカーギル率いる全国炭鉱労働者組合のチャリティコンサートの出演を打診されていた。チャンネル4の番組「Play at Home」を制作していた制作会社が担当だった。おれたちは承諾した。事態は深刻で、その年だけで20もの鉱山が閉鎖され、さらに70の鉱山が閉鎖される計画だった。何千人もの人々が職を失った。おれたちはバンドとしてはあまり政治的な関心はなかったが、この機会に彼らを支援できることを嬉しく思った。マーガレット・サッチャーは恐ろしい女で、北部に住むおれたちにとってはちょっとした悪魔のような存在になりつつあった。おれたちはしみながら支援できることはよかった。
ロンドンではデモが予定されており、そこで行進する炭鉱労働者たちのために演奏は無料だった。ラインナップはおれたちと、新進気鋭の若手コメディアンキース・アレン、前回会った時よりもずっと元気そうに見えたジョン・クーパー・クラーク、そしてファクトリーの新バンド、Lifeだった。
当時のキースは「ノーザン・インダストリアル・ゲイ」を自称し、パンクバンドの前座を得意としていた。ピークキャップとスタッズ付きジョックストラップを身につけ、ベビーオイルまみれで登場したキースに対し、クルーのテリー・メイソンは彼をステージから突き落とそうとした(テリーは彼をステージ乱入者だと思ったらしい)。なんとかおれはキースを救い出し、生涯の友を得ることができた。彼がおれたちにとってどれほど大切な存在となり、人生においてどれほど大きな役割を果たすことになるのか、その時のおれたちは知る由もなかった。
このギグでのもう1つの注目すべき出来事は、元MCAレコードのトム・アテンシオとの出会いだった。彼は後におれたちのアメリカ支社のマネージャーとなり、またもう1人の親友となった。トムはジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダーの両名を、クインシー・ジョーンズが所有し、ワーナー・ブラザーズが配給するアメリカのレーベルクエスト・レコードと契約するというアイデアを提案してくれた。これは非常に刺激的な話で、彼は本当にいい人に思えた。
「おれたちは何か特別なものを作り上げた」
次のアルバムをレコーディングするためにロンドンのブリタニア・ロウに戻ったんだけど、『Power, Corruption & Lies』の制作中に初めて生じたバンドの不和がまたもや醜い顔を覗かせたんだ。仕事を終え、スタジオから午前1時に帰って、おれは漫画みたいな大きなあくびをしながら寝る準備をしてたんだけど、他のみんなはトースターに点火して、ドラッグとトーストと『2001年宇宙の旅』かなんかを観ながらヘビーなセッションを始めていた。
朝も同じだった。彼らが寝ている間に、おれはランニングに行ったり、アパートの屋上でウェイトトレーニング(自分で持ってきた)をしたりした。毎日、彼らのドアを叩いて「おいおい、10時に出発するって言ったじゃないか!」って叫んだものだ。おいおいまったく!
昼夜を問わず働いて、帰ってきてから夜更かしして、『イレイザーヘッド』とかくだらないビデオを夜遅くまで観る意味がおれには全く理解できなかった。映画とドラッグの組み合わせがすごく刺激的だと思っていたんだろうけど、おれが見た限りでは、彼らがインスピレーションを受けるのは昼までベッドでゴロゴロすることくらいだった。
それに、おれはドラッグを大量に摂取してきた人間だから、ドラッグがクリエイティブなツールになるなんて、全く信じてない。一日中布団の中で泣いているのがクリエイティブだと思ってるなら話は別だけどね。
でも、忘れないでほしいんだけど、おれは彼らに強制してたわけじゃないんだ。寝る前、彼らはおれに「10時になったら起こして」って言ってたよ。結局、「わかった、もし準備ができてないなら、おれは君たちを置いて行くよ」ってことになった。別の場所に泊まっていたエンジニアのマイク・ジョンソンはもうスタジオに来て、ミキサーのノブをいじっていただろう。だから、またしても気が進まないバンド仲間を必死にベッドから起こそうとしたり、ましてやクソマネージャーを寝かしつけるという無駄な朝を過ごしたおれが、真っ先にスタジオに到着して、自分で作業を進めることになった。オーバーダブをしたり、曲を片付けたりね。
それでもまだこれは大きな問題ではなかったが、『Low-Life』製作中にも続き、マンチェスターに戻った後のリハーサルでも問題になった。おれの場合は、家庭生活のプレッシャー、特に妻のアイリスがおれの勤務時間について常にうるさく言うことで、状況はさらに悪化した。そして1985年に愛娘ヘザーが生まれたことで状況はさらに悪化した。新米パパなら誰しも、我が子に会いたいものだ。スタジオに不必要に長く閉じ込められたくはない。おれたちのリハーサルルームはチーサム・ヒルの墓地の隣にあり、夜は真っ暗。だから、スティーブとジリアンにとって午前1時か2時にリハーサルが終わって、毎晩1時間かけてマックルズフィールドの自宅まで運転するのは、決して楽しいことではなかっただろう。だが彼らは決して諦めなかった。
おれは他のメンバーによくこう言ってた。「11時に始めて18時に終わらせられないかい?」そしたら他のこともできる。子供に会ったり、友達と出かけたり、奥さんと夕食をとったり。みんな渋々ながら、いいアイデアだと同意してくれた。数日はその通りに進んでから、また元に戻ったりもした。妻のアイリスが夜7時にリハーサルルームに迎えに来ると、みんな時計を見て「え、もう帰るの?」なんて言ってた。まるで3人にはバンド以外の生活が無いみたいだった。でもおれは「時間通りに終わらせるって約束したんだから、お前らのことはどうでもいいや」と思ってた。
だから彼らはおれ抜きで曲を書いた。次の日、スタジオに着くとテーブルの上に新しい曲が置いてあるのを見つけ、ベースを出して演奏の準備をする。すると、場の空気が暗くなるのが分かる。彼らは明らかにそう考えているが「フッキー、こっちの方がエレクトロニックでいい」とは決して口にはしなかった。
「おれたちの問題が何か分かるかい?」とバーニーはよく言っていた。「お前はヒバリだが、おれはナイチンゲール(ヨナキウグイス)なんだ」と。(※西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声の美しい鳥で、ナイチンゲールの名でも知られる。この語は古期英語で「夜に歌う」を意味する)いや、おれはこう言い返したよ。「お前はヨナキウグイスなんかじゃない。時間通りに仕事に来られないクソ野郎だ!」
そもそも最初にスケジュールを提案したのは彼の方だったのに、それでも彼はいつも遅刻してきた。時間厳守アレルギーだと言っていた。この頃から悪化し始めて、ニュー・オーダー時代、そして2006年に解散するまでずっと続いた。13時から2時間リハーサルの約束をして、妻には17時までには帰るって言ってるのに、バーニーは16時まで現れないんだからね。
おれは「いま何時だっけ?」って聞くんだ。
すると彼は「ああ」と軽々しく言う。「フッキー、お前は本当に時間にうるさいな。おれには無理だよ。おれはあまりにも自由奔放だからな」
「せめて他人の時間に対して自由奔放でいろ、このわがままクソ野郎が。せめて電話1本くれりゃあいいのに」
「お前も本当にくそったれだな、フッキー。いつもそうやっておれにつっかかってきやがる」
ブリタニア・ロウに戻ると、おれたちは徐々に良いルーティンを身につけていった。毎週月曜には、おれとスティーブとジリアンの3人でキングス・ロードまで買い物に出かけ、ちょっと変わった店を巡っていた。ファッションに敏感になりつつあり、週の始まりにピッタリだった。結局バーニーは来なかった。財布から蛾が逃げ出す(※金が無くなることの比喩)のが怖かったのだろう。それでもおれたちは意気投合し、一緒に仕事をするのもなかなか順調だった。
このアルバムで遂にジリアンが真価を発揮したと言いたいところだが、残念ながらそうは言えない。彼女はバーニーがキーボードとギターの両方で書いたリフを、ただ引き継いでいるだけだった。版権は今でもメンバー平等に分担しているが、おれもバーニーもまだその小さな問題に取り組みたくないと思っている…今のところはね。
ブリタニア・ロウでの仕事を終え、ジャム・スタジオに移ると、作業はどんどんと忙しくなり始めた。ジャム・スタジオは非常に評判が良く、ローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』のレコーディングを描いた映画にも登場したことで有名だった。
そこに来て数日後、ケヴィン・ミリンズがおれとバーニーを街に連れ出すことにした。そこでおれたちはすぐにスタジオ・マネージャーのヘルガにばったり会った。彼女はスカンジナビア系で、あらゆる面で存在感があり、実直な女性だった。おれから見れば、レコーディング・スタジオよりも厳重警備の刑務所を管理運営した方がましだっただろうと思えた。彼女は酒ですっかり酔いつぶれ、足取りは少々おぼつかないものの、にこやかで愛想の良い様子だった。バーニーは彼女を助けに駆けつけ、憧れの俳優テリー・トーマスにならって「おいで愛しい人。おれが面倒を見るからね」と言った。
そして、それが彼らを見た最後となった。一体全体、何なんだろう?アルバム・セッションが始まるとみんなが狂ってしまうなんて?とおれは思った。
実際には、それはほんの始まりに過ぎなかった。数日後、スタジオの玄関をノックする音が聞こえてドアを開けると、マンチェスターの新進気鋭のガールズバンドのデニスとシェリルが目の前に現れた。
「サプラーイズ!会いたかったわ!」と叫んだ。
2人はおれの首に飛びついた。この2人はワイルドだった。その日の始まりは、ローディーたちのために偽レズビアンショーを披露することだった。哀れな被害者の両脇に座り、太ももをまさぐりながらキスをし、彼らを熱狂させた。それから、2人はおれたちの宿舎に引っ越してきた。
ケビン・ミリンズとはよく出かけた。彼はノッティング・ヒルのキットカット・クラブやレスター・スクエアのタブーに連れて行ってくれて、スティーヴ・ストレンジ、リー・バウリー、マーク・アーモンドといった面々を紹介してくれた。
おれたちは、エンバシー・クラブで店長とDJをしていた元リッチ・キッズのドラマー、ラスティ・イーガンともよく一緒に過ごした。そこでは、スキッズやキリング・ジョークのリチャード・ジョブソンとそのローディー、バンシーズとそのローディーみんなとつるんでいた。
ある晩、マンチェスターから来た女の子たちが踊って、ダンスフロアの真ん中に寝そべって激しくキスし始めたのを覚えている。みんなが驚いて立ち尽くしていると、彼女達はおれたちの方を指して「あ!彼らはニュー・オーダー・フロム・マンチェスターだ!」なんて言っていた。おれたちは、それが可笑しくてたまらなかった。女の子たちはしばらくロンドンにいた。おれたちがスタジオに行ってる間、彼女たちをおれたちのアパートで1日中何をしているのか不思議に思ったこともあった。
その疑問の答えは、何年も後、ある男がクラブでバーニーに、1984年にロンドンで出会った売春婦たちがニュー・オーダーの宿舎に泊まってると言っていたことを聞いた時に分かった。バーニーは驚いた。男は、彼女たちは路上で客引きをしては客を2階に連れ込み、自慰行為をさせたり、フェラチオしたりしていたと言った。男は「何度か行ったことがあるが、彼女たちは本当にワイルドだった!神に感謝だよ!」と言った。
その頃、おれは1度に7人くらいの女の子と付き合っていた。ある日、そのうちの1人から電話がかかってきて、有名で妥協を許さないインディーズバンドのベーシストに怒られたと言ってきた。そのバンドはおれがハシエンダで怒らせたバンドだった(なんて仕返しだ!)。他には、レコード・ミラー紙のライターだったおれのガールフレンドの1人、ギル・スミスもSM好きで、全く感心しなかった。その後、彼女はアソシエイツのビリー・マッケンジーと駆け落ちしておれと別れた。彼は素敵な男で、後に自殺したけど、彼女は自分のせいじゃないと断言していた。そんなギルはいつもおれをsub-domの世界に誘おうとしていた。「鞭を持ってくるわ」とか「パドルで叩かせて」とか言ってきた。あの界隈のファッションは好きだったけど、お尻を叩くような側面は好きじゃなかった。哀れなギル、おれと付き合ってた頃は彼女にとってはとてもフラストレーションが溜まる時期だっただろう。彼女は支配者でありながら、支配することを許されなかった。それでも、彼女には自分の興味を発散させる方法は他にもあった。彼女はスキン・ツーでモデルをしていた。スキン・ツーは、おれたちがケビン・ミリンズに紹介されたクラブの雑誌版だった。実は、1983年に初めて行った時、おれたちは本当に衝撃的な体験をした。バーニーとおれはケビンと一緒にレザージャケットとバイクブーツを履いて現れたのだが、他の皆が着ているレザーとラバーの衣装に比べると、おれたちの服装は控えめだった。尻を突き出している男もいれば、胸を切り取ったラバードレスに押し込まれている女もいた。そこにはありとあらゆるものがいた。クラバーたちは人前でセックスし合っていた。真夜中になるとグレゴリオ聖歌が流れ、ドミナトリックス(女王様)たちがステージに上がり、恍惚とした客たちを鞭で打ち始める。皆はまるで高尚なパフォーマンスアートを楽しんでいるかのように、その場に立ち尽くして見守っていた。最高だった。
ある晩、おれはバーニーを軽く突いて指さした。「あそこ見える?隅っこに隠れている。あいつピーター・サヴィルにそっくりだよ」なんと、そこに立っていたのはピーター・サヴィルだった。ポロネックのジャンパーを着て、全身黒ずくめで、いつもタバコを片手に知的に見えた。おれがこっそり近づいて驚かせると、こんな「ケツ叩きクラブ」で見つかってしまったことをひどく恥じ入っていた。
「い、いや、おれは、お、おれは…ただこういうファッションが好きなんだ!」と彼はどもりながら言った。
おれたちは笑った。「おれたちもだよ!」と声を揃えて言った。
しかし、彼の恥ずかしさは長くは続かず、すぐにおれたち全員が毎週通うようになった。最初は、スティーブとジリアンには何もかもが耐え難いものだった。ジリアンは、女王様のブーツを舐めている男が、毛むくじゃらのケツを女王様の顔に押し付けた時には、泣き出してしまったほどだった。しかし、すぐに2人とも慣れてきて、おれたちみんなが通うようになったので、地元でも一大イベントになった。マンチェスターの友達に電話して「おいおい、このクラブは見るべきだよ」と伝えたものだ。そしていつの間にか、マンチェスターの悪名高いプロモーター、アラン・ワイズ率いるマンチェスター勢全員が、このワイルドな様子を一目見ようとやってきていた。「ぶらぶら散歩」とでも言うのだろうか。ハハハ!
結局、スキン・ツーは、よほどの服装でない限り入場を禁止せざるを得なくなり、おれたち一同はゴム製のバスクを着る気は毛頭なかった(もちろんロブは別だが、彼はある夜、まさにそれをやってのけた。入場を拒否されまいと、ギリアンの黒いプラスチック製のドレスを身にまとったのだ)。それで終わりだった。
ともかく、アパートでの放蕩と夜行性の冒険にもかかわらず、或いはそれがあったからこそ『Low-Life』は素晴らしいレコーディング体験だった。そして完成した作品は、ニュー・オーダーのアルバムの中でおそらく1番のお気に入りだと思う。当時のバンドのダイナミクスを雄弁に物語っている。シーケンサーとロックの組み合わせは完璧なバランスでおれたちは本当に一体感があった。
「Love Vigilantes」「The Perfect Kiss」「This Time of Night」「Sunrise」「Sooner Than You Think」「Sub-Culture」「Face Up」といった曲を聴いてほしい。どれも本物のバンドソングだ。「Love Vigilantes」以外は、歌詞は3人で委員会形式で書いた。ロブも手伝ってくれた。「Love Vigilantes」はバーニーが1人で書いた。このやり方は、1987年にバーニーが全ての歌詞とボーカルラインを自分で書きたいと宣言するまで変わらなかった。彼の仕事は素晴らしく、それを聴いた時は圧倒された。その歌詞の傑作であり、今でも人気のある曲の1つだ。
このアルバムは、24トラックのStuderテープレコーダーと、おれたちが所有する素晴らしい機材コレクションを使ってレコーディングされた。機材は「Power, Corruption & Lies」で使用したものとほぼ同じ。唯一の大きな違いは、MIDI技術の採用とSMPTEタイムコードの使用だった。SMPTEコードの革新的な側面により、ミュージシャンはドラムマシンとシーケンサーをいつでもテープ・マシンにオーバーダビングできるようになった。「Power, Corruption & Lies」のレコーディングでは、シーケンサーとドラムマシンをテープに録音し、アコースティック・トラックとボーカルを追加し始めると、録音したパートを(どんな理由であれ)効率的かつ容易に再録音したり、置き換えたり、変更したりする手段が無かった。だが、それはそんなに悪いことではなかったと言わざるを得ない。ただでさえミュージシャンは締切りを先延ばしにしがちなのに、今や彼らはいつまでもすべてを自由に変更できるようになったのだから。皮肉屋の中には、こうしたテクノロジーはすべてスタジオ・オーナーが時間を浪費して金儲けをするために発明したと言う人もいるかもしれない。だがそれは真実ではない。しかし、レコーディングにおける選択肢と柔軟性が大幅に増加したことの副作用として、作業の完了にかかる時間が大幅に長くなってしまった。
その後、ジャム・スタジオを離れブリタニア・ロウに戻ってミックスを行い、再びトランスダイナミック(詳細はペーパーバックの電子書籍版をご覧ください)を使い、五感を刺激するサウンドをさらに強化させた。
実は、曲のミックスに最初から最後までどれくらい時間がかかったかを日記に書いていたのだが、とても興味深い内容になっている。
「The Perfect Kiss」のミックスでは、複数のバージョンを作るように言われた。ロブはダブ(彼の口癖は「Dub it up」だった)、12インチ、そして7インチ版(シングルとしては初めてLPに収録される)を希望していた。時代は変わりつつあった。3つのバージョンを次々にミックスするのに、48時間近くも要した。その間、おれとマイク・ジョンソンはずっと起きていた。ミックス開始初日の夜、ロブがシャンパンを持って来て祝杯を挙げた。ところが、彼らはみな酔いつぶれ、アパートに帰って寝てしまい、おれとマイクだけが作業をやらされた。翌日になると、彼らは戻ってきて、いくつか提案をしてくれた後、また眠りについた。マイクとおれは笑い合った。一緒に特別なものを作り上げたという喜びで、とても幸せだった。
イアン・カーティスへのトリビュート曲「Elegia」をレコーディングするためには、ウェンブリーにあるCTSスタジオを利用した。そこでは、メルヴィンというかなり風変わりな老人が多くのレコードのカット/マスタリングを手がけていた。彼は上司たちに感銘を与えようと、併設のレコーディングスタジオにおれたちを入れようと躍起になっていた。彼は、おれたちにスタジオを気に入ってもらい、また来てくれることを期待していたのだ。レコーディングセッションは猛スピードで進めた。彼は8時間くらいかかると予想していたが、シーケンサーのプログラミング、ベースとギターの録音、ドラムエフェクトのオーバーダビングだけで10時間もかかってしまった。途中、メルビンの甥っ子たちがスタジオにやって来て「ベンとジャスティン」と何度も名前を呼んで録音する場面もあった(Ben and Justinが仮タイトルだった)。素晴らしい1日だった。歌うプレッシャーから解放されたバーニーは、とてもリラックスしていた。彼がすべてのキーボードを書き、演奏し、トラックに重ねていった。最終的に17分32秒に及ぶ壮大なバージョンが完成した。結局この作業全体に、最初から最後まで24時間かった。
完成した「Elegia」のマスターテープを握りしめながらスタジオを出ようとした時、メルヴィンが「次もまた頼むよ」と言ったのを覚えている。
「ああ、ぜひまた頼むよ」と答えたが、おれたちは戻らなかった。
あのサルフォード・ヴァン・ハイヤーの言う通りだ。決してミュージシャンを信用してはいけない。
トム・アテンシオはピーター・サヴィルに出会った時から「お願いだよピーター、メンバーの顔をジャケットに載せてくれ!」と彼に言い続けていたから、あのジャケットのアイデアはごく自然な流れだったと思う。
ピーターは「彼の言う通りだね。そろそろその時期だと思ってたんだ」と結論づけた。
しかし、彼はあまりにも長い時間をかけて検討したため、パニックに陥ったトニー・ウィルソンとロブは、なぜこんなに時間がかかっているのかを尋ねるためにわざわざロンドンまで足を運んだ。ピーターが自分のアイデアを説明すると、トニーは黙り込んで考え込んでしまい、ロブは驚きのあまり口をあんぐり開けた。トニーは素晴らしいアイデアだと判断したが、ロブは依然として口をあんぐり開けていた。「バンドには内緒だよ」とピーターは言った。
そうして彼は、アルバム発売後のプロモーション用の写真撮影だと称し、メンバーそれぞれ別々にオフィスに来るように言ってきた。もしみんな一緒に来たら、真面目に取り組まないだろうと彼は分かっていたのだ。
トレバー・キーは、ポラロイドフィルムという全く新しいカメラフィルムを使って写真を撮った。ピーターは使いたいショットが見つかったところで、個別セッションを終了した。そして彼は、写真を「ニュー・コンピュータ・リプログラフィックス」という技術で処理することにした。これは、写真の横長の長方形を、サイテックスと呼ばれる新しいコンピュータを使って処理し、正方形に圧縮する技術で、彼の言葉を借りれば「より奇妙に見える」のだった。中でもピーターはスティーヴンの写真が最も印象的だったので、それをメインに使うことにした。しかし同時に、誰かの写真を表紙にしたり、タイトルや曲のクレジットを入れたりして、あまりに多く使うと、バンドのメンバー全員が平等であるという彼の考え、つまりバンド・リーダーはいないという信念に反するだろうと強く感じていた。
さらに事態を悪化させるため、彼はジャケット全体をトレーシング・ペーパーで包んだ(このアイデアは彼の本棚にあった本から拝借した)。
彼はこう言った。「君たちの顔を見えにくくした方がずっと良くなったんだ」
ファクトリーもロブもこのジャケットを気に入った。しかし、1985年のケンブリッジ・ボールでようやく彼に会ったとき、おれとバーニーとスティーブは揃って彼に襲い掛かり「この野郎!騙しやがって!」と叫んだ。
「ビデオを観たとき、彼は怒り狂った」
この時点で、ニュー・オーダーはチャートでの成功、芸術的な独立性、批評家の称賛という聖杯を獲得しており、多くの主流メディアの注目を集め続けていた。バンドはラジオ1の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」への出演を依頼されたほか、チャンネル4の「プレイ・アット・ホーム」シリーズでドキュメンタリーを制作する機会を与えられた。出来上がった作品には、ドゥルッティ・コラム、ア・サーテイン・レイシオ、セクション25のメンバーらがトニー・ウィルソンの話を聞き、ジリアン・ギルバートからは浴槽で裸でインタビューされるという、ファクトリー・レコードのカオスな世界を垣間見る特別なものとなった。一方、ロブ・グレットンは自分自身にインタビューし、ピーター・フックはオートバイに乗りながらアラン・エラスムスにインタビューした。
アランは常にファクトリー・レコードの物語の中で最も謎めいた人物であり、今でもそうだ。スカーレット・ピンパーネルのように、彼をあちこち探すが、彼はどこにでもいた可能性があり、実際のところ彼が正確に何をしたのか誰も知らなかったが、彼がそこにいたのは良かった。
彼はいつも思いがけない瞬間に現れ、奇妙で非現実的な方法で自分の存在を感じさせるために何かを言い、そして再び姿を消した。
それがアランだった。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。Play at Homeドキュメンタリーのおれたちの出演部分は、彼の恋人の農場で撮影された。そこはおれたちがファクトリーボートを保管していた場所でもあった。そう、おれたちはファクトリーボートを所有していた。おれの知る限り、これはいわゆる無謀な買い物だった。
そのボートにその後何が起こったのかを推測しても賞品は無い。はい、そうです、沈みました。おれたちが農場で撮影している間、アランはおれたちを連れてそれを見に行った。ボートは川の対岸にあり、半分沈んでいた。おれたちは皆そこに立って笑った。今思えばおれたちはこの比喩に警戒すべきだった。
さらにおれたちにはファクトリーカーも所有していた。これもアランが「投資」として購入した古いダイムラーだ。しかしそれは完全に消えた。数年後、ハシエンダの建物を取り壊した時、レンガ造りのスペースを見つけるまでそれがどこにいったのか誰も知らなかった(その横には過剰注文されたTシャツの山があった)。最終的にハシエンダの跡地が売却されるまで、何年もそこに放置され、錆びて埃をかぶっていた。
それで、おれたちはドキュメンタリーの撮影に参加し、楽しい時間を過ごした。トニーの風呂でのジリアンとの悪名高いヌードインタビューに関しては、彼はキンタマを見せたことで本業のグラナダテレビから警告を受けた。ロブは自分自身にインタビューすることにしたが、それは現実的ではなかった。彼は、その役に就くことができるのは自分だけだと言っていた。バーニーによるピーター・サヴィルとのインタビューは、スティーブとマーティン・ハネットとの超現実的な会話と並び、もう1つのハイライトであった。マーティン・ハネットは、インタビューで本物の銃を持っていると主張した。最終的に彼は空砲の発射に同意した。
BBC2とラジオ1で同時に放送され、マーク・ラドクリフがプロデュースした「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、バーニーの不機嫌さと荒い演奏が特徴で、「Sooner Than You Think」、「Age of Consent」、「Blue Monday」、「In a Lonely Place」、「Temptation」が披露された。
まあ、それは完全なクソだったね。
何が起こったかというと、おれたちは8月23日にセント・オーステルでライブをしたあと、ロック・アラウンド・ザ・クロックの収録が25日だったので、コーンウォールからロンドンに向かうのには十分な時間があり、事実上、2つのライブの間は1日休みだった。おれとスリムはそうではなかったが。
前夜の24日、おれはボーンマスでストックホルム・モンスターズのライブの音響を担当していた。おれのガールフレンド、キムがライブのプロモートをしていたので、彼女に会い、モンスターズでの仕事をやって、その後ボーンマスからロンドンまで行く。セント・オーステルからロンドンまでよりもはるかに短い旅だ。それがおれのタイムスケジュールであり、おれの時間は考慮されていることを意味していた。
残りのバンドメンバーとツアークルーは、セント・オーステルのホテルがとても気に入ったらしく、その間の1日休暇をそこで過ごし、翌日ロンドンに向かうことにした。電話でおれが懸念を表明すると「心配するなフッキー、おれたちは大丈夫だから。11時にロンドンで会おうな」とロブは言った。しかし、ロブは電話を切った後、バーでバンドの残りのメンバーに再び加わったに違いない。
彼らの意図は、翌朝7時に出発してロンドンに着くことであったが、たとえ7時に起きられたとしても(もちろん、できなかった)、時間までに到着することはできなかっただろう。セント・オーステルからロンドンまでの移動には少なくとも5時間はかかるが、それは追い風が吹いており、渋滞も無く、2日酔いのバンド・メンバーが気を紛らわせるためにガソリンスタンドでポテトチップスを買うために立ち寄る必要もない場合だ。その間、キムはとても親切におれとスリムをボーンマスからロンドンまで車で送ってくれて、おれたちは良い子で午前11時までには放送局に着いた。
しかしバンドの姿はない。彼らはロンドンに向っている最中だった。当時は携帯電話も無い。おれたちはただ座って待つしかなかった。ニューオーダーの出演は17時だったので、それまで十分な時間もあり、まだパニックになる必要はなかった。
フォールドバック担当の男が到着したので、おれは彼にそれをセットアップしてもらい、追加のミキシングデスクも到着した。
フォールドバックシステム
バンドのライブ演奏などで見られるステージ前方のミュージシャンの前に設置された黒いスピーカーボックスは「フォールドバック」と呼ばれ、演奏者に音声を折り返すことで、各ミュージシャンがステージで演奏している音声を聞き取ることができます。
それからおれたちはさらに待った。昼食を済ませてもコーンウォール部隊の気配はまだなかった。
ようやく午後3時頃になって、オジー、テリー、デイブ・ピルス、コーキーが機材を持って到着したが、少しおどおどした様子で、ひどい渋滞についての話でいっぱいだった。当日はとても暑い日で、汗が吹き始めていた。おれたちはギターリグ、ドラム、シーケンサーなど、できる限りのセットアップを行った。
遂に午後5時20分前になってバンドが到着した時、おれたちはまだ完全に準備ができていなかった。BBCのスタッフは完全に気がおかしくなりながら、非常に複雑なドラムとシーケンサーのセットアップをしようと現場を飛び回っていた。案の定、その朝、彼らは皆、悪臭を放つ2日酔いで起床し、少し朝食をとり、コーンウォールからロンドンまで2〜3時間で着くだろうと願いながら、9時くらいに出発した。
結果、8時間近くかかった。
彼らはボロボロだった。長旅による疲労と2日酔い、そして暑さとイライラ。中でもおれたちの有名なリードシンガーは、今ではお馴染みの、他のみんなに不幸をぶつけるというルーティンワークをしっかりこなしていた。彼は本当に惨めで、映像を観ると、コントロールルームにいる可哀想なスタッフたちに身振り手振りをしたり、ヘッドフォンを剥ぎ取ったり、物を蹴飛ばしたり、顔を赤らめて罵声を浴びせたりしている。その日おれたちが演奏した唯一のスローナンバーであるIn A Lonely Placeの途中ではスティーブにもっと速く演奏しろと怒鳴ったりしているのが分かる。しかし、それでも彼の気分は晴れなかった。いま観ても、あのクソ野郎が何に腹を立てているのか全く分からない…
自分自身に?BBCに?交通渋滞に?あの忌々しい短パンに?
本当に謎だ。どちらかと言うと「ロック・アラウンド・ザ・コック」という有り様だった。
でもね、結局はすごくユニークなパフォーマンスになったし、おれはすごく気に入った。バーニーは癇癪を起こしている子供のようで、見ていて気分が悪かったのは間違いない。でも、それでも彼の演奏は称賛に値する。まるで悪魔のようだったから。最初から最後まで、すべてが破滅の瀬戸際で揺れ動いていたという事実が、おれたちのパンクでアナーキーな魅力をさらに高めていたと思うから。
BBCからは「もう2度とこのラジオ局には出入りさせない」みたいなことを言われたけど、素晴らしい経験だった。それがおれたちのすべてだった。おれたちは、まあ別にいいや、先に進もう、という感じだった。
そして実際にそうした。おれたちは前進し、その年の12月にアメリカのクインシー・ジョーンズのレーベルであるクエストとライセンス契約を結んだ。ロブは、おれたちには知らせなかったが、アメリカのレーベルとの交渉において、契約は1枚のみとするよう主張していた。おそらくこれは、例えば5枚のアルバム契約を酷いレーベルと結ばれることを防ぐためだったのだろう。なぜ彼がこの地域にそれほど慎重で、ファクトリーとイギリスにそれほど熱心なのかは、おれたちには分からなかった。おそらく彼はバランスを正したかったのだろうか?しかし、この事は、白紙小切手を振りかざすアメリカのレコード会社を思いとどまらせるのに十分だった。
しかし、これほどの短期契約を提示して、どうやって「まともな」レコード会社を説得し、おれたちと契約することができたのだろう?
それを達成してくれたトムには感謝しなければならなかった。おれたちは彼を苦しめ、あらゆる場面で彼を苛立たせることで彼に感謝した。
ああ、かわいそうなトム、彼はとてもアメリカ人だ。いや、それは正確ではない。根っからのLA育ちだ。もちろん愛情を込めて言っている。彼は努力と才能が報われることを何よりも大切にしている。そして、彼はおれたちがボン・ジョヴィのようにアメリカで有名になることを望んでいたので、おれたちは彼を怒らせてしまった。もちろんおれたちもアメリカで有名になりたかったが、おれたちの条件で物事を進めたかったのだ。
例えば、トムが初めてアメリカのマネージャーとして参加した「Low-Life」の時、みんなで集まって彼がこう言った。「我々がやるべきことは、シングルがアルバムに収録されるようにして、アルバムからまた別のシングルをカットして、そのリミックスして、カレッジラジオで流すことだ」と。
するとロブが眼鏡を鼻に押し上げて、彼の言葉を遮る。「くたばれ、この退屈野郎が。ファックオフ」
2人は出会った瞬間から敵対関係だった。
トムはよく気が狂いそうになっていた。まず、シングルをアルバムに収録しないことが気に入らなかったし、滅多にインタビューを受けないことも、プロモビデオに顔を出さないことも嫌っていた。実際、彼はMTVで流してもらえるように、バンドのプロモビデオ制作を使命としていた。1987年にようやく『Touched by the Hand of God』のビデオに出演したのだが、監督のキャスリン・ビグローが残酷シーンを挿入していたため、MTVは依然としてビデオを流してくれず、またしても彼のプランは頓挫した。
さらに数年後、1993年にカンヌで『Regret』のビデオを制作した時も、トムはいつものようにおれたちの出演を切望していた。そして、そのビデオを見れば、確かにおれたちは出演している。瞬きすれば見逃してしまうかもしれないが、間違いなくおれたちはそこにいる。
瞬きしたら見逃してしまうようなおれたちの出演がトムを怒らせると十分に承知していたにもかかわらず、ロブは彼にビデオを見せることに大喜びだった。まさにロックバンドのマネージャーにはぴったりだ。トムはそれを見た時、完全に激怒した。あまりにも激怒したので、ロブに飛びかかり、揺さぶりかけて、自分の主張を伝えようとした。
もちろん、トムは素晴らしい仕事をしてくれたので、もっと良い扱いを受けるに値したが、おれたちがアメリカで有名になった本当の理由は、ビデオ出演とは全く関係なかった。まずおれたちには素晴らしい曲があったし、少しづつだったが確実にファンの数を増やし、そして彼らが何度も見に来てくれたからだ。信頼だ。
おれたちがアメリカに戻り続けた理由は何か?まあ、それはおれたちが非常にファニーラット(女ったらし)だったからだと言うのは残念だが。
オースティンでのライブ後、おれたちには音楽だけでなく性的な魅力があることに気づき、以来、おれたちにとってそこは自由の国、アメリカだった。ロブが「ヨーロッパツアーをしてみないか?」と言うと、おれたちはこう言った。「は?ヨーロッパ?クソだ。アメリカに帰ろう!」と。ごめんなさい、ヨーロッパ。愛しています、本当に愛していますよ!
そして今、おれは60代の幸せな結婚生活を送っており、酒やドラッグには手を出さないので、大陸間の差別はしていないと心から言える。しかし当時、ロックスターに憧れる愚かで流されやすいランディな28歳にとって、そこはずっとアメリカだった。
そしてトム・アテンシオは、時には乗り越えられないような困難をものともせず、おれたちのために最善を尽くし、おれたちをU2スタイルのスタジアムを埋め尽くす巨大なメガスターに変えようとしていた。しかし、相変わらずおれたちのぎこちなさは独特で、他のすべてのアクトの中では間違いなく目立っていた。
もちろん、クエスト/ワーナーブラザーズとライセンス契約を結んだことは、彼にとって大きな収穫だった。彼がこのアイデアを提示してレコード会社が興味を持ったとき、責任者のデヴィッド・バーマンは「ノー!」という手紙を送り返した。「このような前例を作ってしまったら、ワーナーブラザーズは終わってしまうだろう」と。
しかしトムは粘り強く交渉した。クインシー・ジョーンズだけでなく、ワーナーブラザーズの社長であるモー・オスティンにも。最終的に、配給する作品にはジョイ・ディヴィジョンのアルバムと「Movement」と「Power, Corruption & Lies」も加えて契約内容を甘くした。
ファクトリーには「Low-Life」のライセンス料として250,000ドルが前払いされ、66%がおれたち、33%が彼らに分割され、ワーナーブラザーズからはおれたちのビデオ予算の50%を提供するという約束があった。おれたちは今や、大きな交渉力を持った別のリーグに所属することになった。1枚のアルバムのライセンス契約を結ぶことは、まさにおれたちが望んでいたものだった。なぜなら、アメリカのレコード会社が、おれたちが普段なら敢えて避けてきたようなことをおれたちに強要するのは御免だったからだ(そうは言っても、後におれたちは「Power, Corruption & Lies」のカセット版を見せられたが、Qwestが「Blue Monday」と「The Beach」を追加収録していたことを発見した。まったく酷いいたずらだ)。クエストとのライセンス契約によって、ある程度の独立性と独自性を維持しながらも、彼らの優れた流通力を活用できるようになった。
経済的には、それが助けになったかどうかは分からない。いずれにせよ、当時はおれたちの金のほとんどすべてがハシエンダにつぎ込まれていたが、認知度という点では大きな後押しとなった。クエストとワーナー・ブラザーズはプロモーション活動には熱心だった。バーニーはプロモーションを嫌い、スティーブンとジリアンはやりたいことだけを選んでいたので、おれがプロモーションの大部分を担当した。おれには適任だった。ホテルの部屋で退屈してブラブラするよりも、ラジオ局に行ってインタビュアーに失礼な態度を取り、たくさんの無料Tシャツをもらい、後でゲストリストに入れる女の子の名前をたくさん集め、さまざまな地域で働くワーナーの素敵な人たちに遊びに連れていってもらった。最高だった。なんて人生だろう。
『Low-Life』 トラック解説
「Love Vigilantes」:4.16
私が受け取った喜びが信じられないでしょう...
バーニーはこの曲をカントリーソングだと説明しているが、1982年のフォークランド紛争の影響を受けている。ベースとドラムのジャムから始まり、80ミリ秒の素晴らしいスネアディレイが、戦争の無益さを描いたザラザラとした恐ろしい曲につながり、陳腐なカントリー&ウエスタン風のエンディングで終わりを迎える。
「The Perfect Kiss」:4.51
友よ、彼は息を引き取った…
この曲は「Blue Monday」よりもプログラムにさらに時間がかかり、制作開始から終了まで9ヶ月かかり、何度も形を変えた。これは決して終わらないのではないかと思った。モスサイドで射殺された知人の実話だが、ロブはサビの歌詞が「『かじる』みたいに聴こえるから取り除こう」って言ってた。さまざまなムードと夢中にさせる構造のトラック。カエルの声は、おれたちが持っていた古いエミュレータのサンプルだった。おれはこの曲の本当の姿は12インチバージョンであるとしか考えていない。これは試供品。
「This Time Of Night」:4.45
隠すものが何もないのに、嘘は何の役に立つのだろう...
スキン・ツーでの夜に影響を受けたとても暗い曲で、フィフティ・シェイズ・オブ・グレイで使われるべきだったと思った。素晴らしいハイブリッドロック/ダンスチューン。これに関しては非常にうまくいった。バーニーのピアノは圧巻だ。デュアルベースがそれを推進し、「生」ドラムとドラムマシンの組み合わせも見事だ。非常に珍しい、バンドのバックボーカル(ムーブメントの頃を彷彿とさせる)の歓迎すべき復活。
「Sunrise」:6.01
あなたは私に贈り物をくれたのに、それを持ち去ってしまった...
この曲を聞くとブレードランナーを思い出す。不気味なシンセラインがいい雰囲気を醸し出している。The Cramps /Ennio Morricone風のリズムギターと素晴らしいベースリフ。元々この曲は「スパゲッティ・ウエスタン風のやつ」と呼ばれていた。おれたちはより良いリードギターサウンドを得るために、バーニーのギターのブリッジエンドの弦に小さな金属ワッシャーを取り付けてキラーな金属サウンドを実現した。バーニーが最後のベースのリフをピックアップし、それを3番目のヴァースにしてくれた時はすごくうれしかった。
「Elegia」:4.56
ぼくの名前はベン、ぼくの名前はジャスティン...
美しいインストゥルメンタルで、全長17分のフルバージョンは非常に感動的。この5分の編集バージョンには、最高の部分がすべてまとめられている。フルバージョンには多くのタイミングエラーがあり、修正する時間が無かった。
「Sooner Than You Think」: 5.12
昨夜はホテルでパーティーがあった...
ある夜、ホテルでのパーティー後に書いたもの。おれがなぜニューオーダーを愛していたのかをまさに示している。おれたちはとても多才だった。アルバムは次にどんな曲が来るか分からないので、とてもエキサイティングだ。これを書いたとき、おれたちはアイルランドツアーについて考えていた。
「Sub-Culture」: 4.58
私は日中、とてもきつく鎖に縛られて座っています...
スキン・ツーに関する2つめの曲。ある夜、バーニーがそこで美しい盲目の少女に魅了されたのを覚えている。彼女は肌にぴったりとフィットする黒いゴム製のドレスを着ていた。あの素敵な女の子に捧げたいと思う。マイケル・ジャクソンの「ビート・イット」から盗んだウォーキング・ベースライン。「ドープされた」ボーカルとサンプリングされた性的なうめき声が含まれている。
「Face Up」:5.02
長いブロンドの髪と青い瞳...
カリギュラにインスパイアされたサウンドトラックのようなイントロと、それ以外の部分の2つに分かれたようなトラック。これはそれぞれ別の曲であった可能性がある。おれのもう1つのお気に入りダンス/ロックハイブリッド曲。
年表5 1984年1月〜12月
1月10日~15日
イズリントンのブリタニア・ロウで『Thieves Like Us』をレコーディング。
1984年1月27日
The TubeのHaciendaスペシャルが放送され、ファクトリー・オールスターズ、トニー・ウィルソンとポール・モーリーのインタビュー、ジャズ・ディフェクターズ、マーセル・キング、そしてブロークン・グラスが出演。また、イギリス初ライブだった無名のマドンナも登場。
1984年3月19日
ニュー・オーダー、ブラッドフォードのシーザーズ・パレスで公演。
1984年3月30日
ニュー・オーダー、西ドイツ・デュッセルドルフのユニ・メンサで公演。シャーク・ベガスのサポートを受ける。
1984年3月31日
ニュー・オーダー、西ドイツ・フランクフルトのハウス・ニートで公演。シャーク・ベガスのサポートを受ける。
1984年4月
ニュー・オーダー:『Thieves Like Us』、12インチ (FAC 103)
『Thieves Like Us』6.36
『Lonesome Tonight』5.11
ランアウト・グルーヴ1:メルヴィンは言った…
ランアウト・グルーヴ2:… 視聴
ロンドン、イズリントンのブリタニア・ロウ・スタジオで録音・ミックス。
エンジニア:マイク・ジョンソン
作曲:ニュー・オーダー、アーサー・ベイカー
プロデュース:ニュー・オーダー
「Lonesome Tonight」の作詞・作曲:ニュー・オーダー
デザイン:Key/PSA(ピーター・サヴィル・アソシエイツ)
1984年4月28日に全英チャートにランクイン、5週間チャートインし、最高位は18位。
1984年4月2日
ニュー・オーダーはスイス、チューリッヒのフォルクスハウスで公演を行い、シャーク・ベガスのサポートを受けた。
「このライブでは何もかもがうまくいかなかった。ドラムマシンのDMXが故障し、予備がなかったためプロモーターが別のDMXを手配しなければならなかった。彼が持ってきてくれたDMX Mk.2型はMk.1とは全く異なる仕様だったため、スティーヴはライブに間に合うまでにプログラムすることができず、それが露呈してしまった。観客は激怒し、ブーイングをしたり、物を投げつけたり、ナチス式敬礼をしたりした。でも、忘れられないのはコーンフレーク1杯が9ポンドもしたことだ!3日分の金だ。クソみたいなコーンフレーク1杯に3日分の金。しかもケロッグ製でもないのに!
1984年4月5日
ニュー・オーダー、西ドイツ・ミュンヘンのアラバマハレで演奏。シャーク・ベガスのサポートを受ける。
1984年4月6日
ニュー・オーダー、オーストリア・ウィーンのウィーナー・アリーナで演奏。シャーク・ベガスのサポートを受ける。
1984年4月8日
ニュー・オーダー、西ベルリンのメトロポールで演奏。シャーク・ベガスのサポートを受ける。
1984年4月10日
ニュー・オーダーは、シャーク・ベガスのサポートで、デンマーク、コペンハーゲンのサガ・シネマで公演を行った。アンコールではフッキーとスリムが「ブルー・マンデー」を歌った。
「その後、ヘルズ・エンジェルスがよく出入りしていたという悪名高いスパンク・バーに行き、スリムと一緒に彼らのデビュー作を記念したTシャツを買った」
1984年4月12日
ニュー・オーダーは、シャーク・ベガスのサポートを得て、西ドイツ、ハンブルクのトリニティ・ホールで公演を行った。
「まったくなんて夜だ!」
1984年4月15日
ニュー・オーダーは西ドイツ、リューネブルクでギャラクティカ公演を行い、シャーク・ベガスのサポートを受けた。
1984年4月16日
ミュージック・コンボイ:ニュー・オーダー、デペッシュ・モード
「雨の日に西ドイツのテレビ番組ミュージック・コンボイでデペッシュ・モードと共演したんだ。この2組の違いは歴然としていた。彼らは盛装してパントマイムを披露したが、おれたちはみすぼらしい格好で「シーヴズ・ライク・アス」を力強く演奏した。デペッシュ・モードはバックトラックに合わせて跳ね回り、恥ずかしそうだったが、それも当然のことだ」
1984年5月
ニュー・オーダー、税務調査を受ける。
1984年5月1日
ニュー・オーダー:「Murder」、12インチ (Factory Benelux FBN 22)
「Murder」3.55
「Thieves Like Us」(インストゥルメンタル)6.57
ランアウト・グルーヴ1:where you're flicking…
ランアウト・グルーヴ2:あの灰
ロンドン、イズリントンのブリタニア・ロウ・スタジオで録音・ミックス。
エンジニア:マイク・ジョンソン
プロデュース:ニュー・オーダー
「Thieves Like Us」は、ニュー・オーダーとアーサー・ベイカーの共作。
デザイン:ピーター・サヴィル・アソシエイツ
写真:トレバー・キー
1984年5月3日
「Top of the Pops」に出演し、「Thieves Like Us」を演奏。
「今回の出演はずっと楽だった。おれたちが生演奏することへの抵抗もほとんど受けなかったから。興味深いことに、この日出演した他のバンド、オーケストラ・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク、U2、カジャグーグーなどのメンバーがみながおれたちのところに来て、パントマイムしたことを謝った。ボノは「サビのハーモニーが難しかったんだ…」と言った。おれのベースがカメラを揺らしたせいで、OMDのひどい曲「Locomotion」の間ずっとノイズを立てていたので、複数人から苦情を受けた。結局、彼らは2回パントマイムをやる羽目になった。『プリティ・イン・ピンク』のプレミア上映でおれを殺しかけたあの仕打ち。これで彼らは懲りるでしょう」
1984年5月14日
ニュー・オーダーはロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでNUMのチャリティ・コンサートを行い、キース・アレン、ジョン・クーパー・クラーク、ライフがサポートを務めた。
1984年5月17日
ニュー・オーダーはオランダのアムステルダム、パラディソにてクアンド・クアンゴのサポートを受け公演。
「パラディソでのライブはとても思い出深い。というのも4つのバンドすべてでブーイングを浴び、4回暴動を起こしたから。ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、リヴェンジ、そしてモナコだ。これは記録的な出来事か?」
1984年5月21日
ニュー・オーダーはレスターで公演を行い、ライフとフラミンゴスのサポートを受けた。
「テリーはフラミンゴスのリードシンガーに惚れ込んだ。彼女は歌いながらヨーグルトを体に塗りたくり、床を転げ回った」
1984年5月21日
ハシエンダ2周年記念パーティー。
1984年5月25日
ベルギーのテレビ番組ポップ・エレクトロンで「Thieves Like Us」を演奏。
「ヨーロッパ大陸での人気が少し高まり、たくさんのテレビ番組に出演できるようになった。彼らはおれたちの生演奏には全く抵抗がなく、快く承諾してくれた」
1984年6月3日
ニュー・オーダーはバーミンガムのパワーハウスで、ストックホルム・モンスターズのサポートを受け演奏。
「奇妙な夜だった。客がほとんどいなくて、妙な雰囲気。その後、楽屋で少し落ち込んでいた時に、2人の女の子が現れた。まず紙にサインをねだり、それから胸に、それからお尻にもサインをして欲しいと言ってきた。言うまでもなく、そのうちの1人とトイレにいたところを清掃員に見つかり、モップで追い払われたので、おれたちは大笑いした。ホテルに戻ると、他のみんなが徹夜の飲み会の準備を始めていた。おれはベッドに入った。朝、ルームメイトのデイブ・ピルスがひどく酔っ払って現れると彼は「なんでベッドの上にボールペンが散らばってるんだ?」と言った」
1984年6月4日
ニュー・オーダーはノッティンガムのパレスで演奏。ストックホルム・モンスターズのサポートを受けた。
1984年6月5日
ニュー・オーダーはブリストルのスタジオで演奏。ストックホルム・モンスターズのサポートを受けた。
「会場の正面玄関で待っていた男たちがオジーの荷物の積み込みを手伝ってくれた。オジーはこう言った。「手伝ってくれたおかげで助かった。でも、会場に入って準備をしようとしたら、そこに何も無かった。ステージ脇のドアから外を覗くと、さっきの男たちが走り去っていくのが見えた。彼らは裏口から別のバンに荷物を積み込むのに忙しかったんだ。バンが空になるまで待たなくてよかったよ」。ギグが終わると通りで騒ぎとなり、向かいの家から観客に物が投げつけられていた」
1984年6月27日
ニュー・オーダー、サウサンプトンでメイフェア・スイート公演。
1984年7月1日
ニュー・オーダー、デンマーク、ロスキレでロスキレ・フェスティバル公演。
1984年7月4日~5日
ニュー・オーダー、マドリードのロック・オラで2夜公演。
1984年7月6日
ニュー・オーダー、スペイン、バレンシアのパルマ・クラブで公演。
1984年7月7日
ニュー・オーダー、スペイン、バルセロナのスタジオ54で公演。
1984年7月10日
ニュー・オーダー、スペイン、マルベーリャのマルベーリャ・エスタディオ・ムニシパルで公演。
「この公演はチケットがあまりにも売れなかったので、プロモーターは18歳から30歳くらいのイギリス人の若者たちをバスに乗せて会場に向かわせた。彼らはひどく酔っていて、よろめきながら歩き回り、おれたちには全く気づいてなかった」
1984年7月12日
ニュー・オーダー、スペイン、バレンシアのパチャ・オーディトリアムで公演。
1984年8月11日
ニュー・オーダー、ベルギー、デ・パンネのデ・パンネ・シーサイド・フェスティバルで公演。
「フェスティバルで演奏するのは、まだ新鮮で楽しかった。おれの大好きなファド・ガジェットが演奏していた。ステージ脇に座ってたんだけど、ファドがひどいギグをして、ベーシストの頭にギターを投げつけた。でも、ベーシストはただ身をかがめて演奏を続けた。なんてリードシンガーだ!」
1984年8月12日
ニュー・オーダーはベルギー、リエージュ州ルイクで開催されたインサイド・フェスティバルで演奏した。
「午後にバニーメンとサッカーの試合をした。イアン・マッカロクとバーニーも出場して5-2で勝った。それで一緒に「シスター・レイ」を演奏することにしたんだ」
1984年8月15日
ニュー・オーダー、サンダーランドのメイフェア・スイートで演奏。
1984年8月16日
ニュー・オーダー、ハルのシティ・ホールで演奏。
1984年8月19日
ニュー・オーダー、グロスターのレジャー・センターで演奏。
1984年8月20日
ニュー・オーダー、マーゲートのウィンター・ガーデンで演奏。
1984年8月21日
チャンネル4の番組「Play at Home」で「The Story of Factory Records」が放送された。トニー・ウィルソン、ロブ・グレットン、マーティン・ハネット、そしてニュー・オーダーへのインタビュー。ニュー・オーダーは1983年7月20日にハシエンダで行われたライブ映像を収録。「Lonesome Tonight」「Temptation」「Thieves Like Us」。
「テレビで観るのは楽しかった。すべてがとてもポジティブに思えた。だがおれたちの問題はまさにこれから始まろうとしていたんだ」
1984年8月22日
ニュー・オーダー、チッペンハムのゴールドディガーズで演奏。
1984年8月23日
ニュー・オーダー、セント・オーステルのコーンウォール・コロシアムで演奏。キャバレー・ヴォルテールがサポートを務めた。
1984年8月25日
ニュー・オーダー、BBC2の特別番組「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に出演。
「長距離の移動や重要な会議への出発を計画する際は、交通渋滞やその他の遅延の可能性を考慮して、常に十分な計画を立てましょう。困った状況に陥りたくはありませんよね?」
1984年8月26日
ニュー・オーダー、ポーツマスのギルドホールで演奏。
「ギグ会場から車で帰る途中、ケヴィン・ミリンズの高速道路の路肩に車を停めていた。彼の後ろに車を停めると、彼は少年たちを乗せた車が高速道路からスピンして土手へと転落していくのを見たと話した。車がスピンした時、少年の1人が窓から投げ出されて中央分離帯に落ち、もう1人の少年は斜面に落ちたと。2人とも怪我はしたが、奇跡的に大した怪我ではなかった。
「おい、坊や」とおれは、ひどく酔っていた最初の少年に声をかけた。「大丈夫か?」
「ああ、後部座席で寝てたんだ。だから何が起こったのか分からない。次に気がついたら、中央分離帯で目が覚めたんだ」
「車には何人乗ってたんだ?」
「3人だよ」と彼は言った。おれは「おいおい、もう1人はどこだ?!」と思った。運転手と後部座席の少年は見つかったが、助手席の少年は見つからなかった。それで高速道路の脇の生垣に入ってみたら、茂みの中でシャツを破られた少年を見つけたんだ。生垣を突き抜けてそのまま倒れていたに違いない。ひどい状態だったので心配になった。
おれが「大丈夫か?」と声をかけると、彼は「今夜のライブは最高だったよ、フッキー。特に『サンライズ』が最高だった」と言った。
「結局、彼らはライブに行くために父親の車を盗んで、それを廃車にしたんだ。幸いにも、彼らは窓を開けていた。それで全員外に放り出されたんだ。でも、脳震盪を起こしていたんだろう。あの夜は『サンライズ』を演奏してなかったからな!」
1984年8月27日
ニュー・オーダー、ロンドンのヘブンで演奏。
1984年10月19日
ハシエンダでNude Nightが始まる。
1984年10月、11月、12月
ニュー・オーダー、ジャムでアルバム『Low-Life』をレコーディング。ミキシングはブリタニア・ロウ・スタジオで行われた。
残念ながら一緒に演奏する機会がなかった(でもオファーされた)ミュージシャン トップ10
1. デニー・レイン
2. ジョン・ライドン
3. イギー・ポップ
4. ダフィー
5. マイク・スキナー
6. デヴィッド・ゲッタ
7. ロビー・ウィリアムズ
8. ジョニー・マー
9. ザ・ローリング・ストーンズ
10. イアン・ブラウン
「ペドロ、おれたちを香港へ連れ戻してくれ」
1985年3月2日、娘ヘザー・ルシルがマンチェスターのセント・メアリーズ病院で誕生し、おれは初めて父親になった。素晴らしい瞬間で、出産も順調に進んだ。おれとアイリスが結婚していたとは言い難いが、多くの夫婦の伝統に倣い、子供がおれたちを結びつけてくれると信じていた。おれはずっと子供が欲しかったし、兄弟が2人いる大家族で育ったので、育児に積極的に関わる父親になることを楽しみにしていた。皮肉なことに、娘の誕生を祝っていたちょうどその時、ロブはおれたちにとって最もツアーの多い1年を計画していた。世界中を旅し、おれは長い間、家族と離れて暮らすことになるのだ。
そして、弱気な愚か者であるおれを、誘惑の邪悪な道へと導いてくれた。
子供を持つことの不思議なところは、子供が生まれる前のことがどんなだったか、どうしても思い出せないことだ。生まれたばかりの娘の美しさを見て、こんなことが起こるなんて信じられなかった。その夜、マンチェスターのオックスフォード・ロードを車で家路につく途中、ウィットワース・ストリートを通り過ぎた。精神的に疲れ果てていて、ハシエンダで夜遊びすることなど考えられなかった。きっと疲れ切っていたのでしょう。
バンドにとってこれは事態をさらに悪化させた。おれが最初に子供を産んだので、ツアーに出ていない時は赤ちゃんと一緒にいたかったのだ。それがさらに勤務時間に関する軋轢を生んだ。
おれたちは着実に仕事をしており、ロブはイギリス国内のどこであろうと、どんなギグのオファーでも引き受けていた。お金が必要だったんだろう。極東アジアとオーストラリアへのツアーのオファーが舞い込んだ時、おれたちは断ることができなかった。ギャラが安かったので、たくさんの機材を輸送する余裕はなかった。そこで、荷物には特に必要な機材だけを入れることにした。特に疲れているときはセットアップが本当に面倒で、機材の消耗も激しいことを除けば、これはかなりうまくいった。当時は、外付けキーボード付きのラックマウント型シンセサイザーVoyetra-8を使っていた。それはProphet 5よりもずっと持ち運びが楽だった。バーニーはVoyetra-8が大好きだったが、スタジオでの時間と費用を飢えた怪物のように食いつぶした。その利点はポータブルだということくらいだった。ギグ会場に着いてからこれらの機材を稼働させるのは至難の業だった。サウンドチェックのほとんどは、ドラムマシンとシンセサイザー/シーケンサーのセットアップの調整に費やされた。まさに悪夢のような作業で、完全に疲れ果ててしまう。しかもバーニー以外、誰も何が起こっているのか全く理解していなかった。後に、熟練したキーボード/プログラマーのローディーが加わることになったが、その時はただひたすら作業に追われていた。
問題は、機材が複雑だったのに、ローディーたちはそうではなかったことだ。ローディーたちは仲間で、尻と肘の区別もつかず、16連打キーボードのセッティング方法など、全く分かっていなかった。その問題を解決しようとバーニーは独自の色分けシステムを考案した。「そうだな、入力には緑のステッカーを貼ろう。それから出力には黄色のステッカーを貼って…」などなど。だが彼は会場が暗いということを忘れていた。テリーは眼鏡をかけていたのだが、その夜、ステージの照明がつき、ビールが進み始めると、すべての色が変わってしまった…。ほとんどのライブで、テリーはひどく緊張し、混乱した様子で、肉垂れを掴んでいた。一方、ジリアンはたいてい涙を浮かべてそこに立っていた。
そろそろニュー・オーダーがこれらの機材を一体何のために使っていたのか、そしてなぜそうしていたのかを分析するべき時だと思う。機材は頻繁に故障した。なぜか?それは、ほとんどがまだ初期段階で、誰も徹底的にテストしていなかったからだ。これらの機材はハイテク・スタジオ環境向けに作られたものだった。汗だくのギグで、さらに汗だくのローディーがトラックの荷台に適当に放り込むような場面は想定されていない。
バーニーはいつも、製造メーカーはおれたちにモルモット代を払うべきだと言っていた。製作されては半完成状態で送られてきた。そして、バーニーとスティーブのフィードバックのおかげで、Mk II版はMk I版よりも頑丈で信頼性が高くなった。メーカーはおれたちの苦労から利益を得ていた。
シンセやドラムマシンはすべて生演奏だった。なぜかって?おれたちが狂っていたから。いや、いや、それは違う。自分自身に正直だったから。デペッシュ・モードのようなバンドからニュー・オーダーを遠ざけようとしたから。当時、デペッシュ・モードのライブはバッキングトラックに乗せてパントマイムで演奏していた。あんなの悪魔の所業だと思っていたからね。苦労無くして得るもの無し、そうだろ?おれたちのシンセとドラムは「打ち込み」だったにもかかわらず「生演奏」だったんだ。レコードとCDの違いのように、音に温かみと豊かさが加わった。それによりギグが毎回、少しだけ、あるいは劇的に違ったものになった。完全に失敗する可能性も考慮しても、それが間違いなくおれたちにとってエッジの効いた要素となった。
だが、後におれたちも諦めて、ほとんどの人がステレオ出力を使うのとは対照的に、16もの別々のデジタル・バッキングトラックを使うようになった。サウンドエンジニアは音響の問題を考慮に入れることができたが、それでもギグごとにサウンドが違っていた。ギグごとにバランスとイコライゼーションが異なり、実質的にはライブリミックスのようだった。これはおれたちにとって重要なことだった。確かに作業は格段に楽になったが、それでもおれたちの悩みは尽きなかった。機材を操作できる知識のある人が必要で、前にも言ったように、おれたちのバンドではベースとドラム以外の楽器に問題が生じると、その担当者はバーニーだった。ギグの最中、彼は歌いながらトラブル現場に駆けつけ、問題の原因を突き止めなければならなかった。シンセサイザーがオーバーヒートしてる、チューニングが狂っている、ドラムマシンが止まったりメモリが壊れたりするなど、原因は様々だった。おれたちはほぼすべてのギグで神経をすり減らしていた。
特にEmulator Iは、本当に厄介な機材で、フロッピーディスクからサンプルをロードしようとしても、しょっちゅう拒否していた。あるサウンドチェックの時、必死にロードさせようとしたのを覚えている。すると音響担当のオジーが、電源のオンオフ、ディスクのクリーニング、ディスクドライブのクリーニング、他のディスクでのテストなど、あらゆることを試した。そしてついにオジーがEmulator Iをスタンドから持ち上げて床にドスン!と放り投げた。「さあ、試してみて」と彼は笑いながら立ち去りると、それはなんとうまくいった。ロードは見事に成功。後になって、左上の部分をハンマーで叩くと同じ効果があることが分った。その噂が広まるとイレイジャーから電話がかかってきた。「ハンマーで叩くとエミュレーターIが動くって聞いたんだけど、どこを叩けばいいの?」
徐々にスペアを大量に揃えるようになり、一時はプロフェットが5台とポリシーケンサー3台、さらにDMX2台を運用していたほどだ。とんでもない金額だった。まさに機材の農園(ハシエンダ)だった。しかし、それは観客のために、そしてそれがおれたちの人生を豊かにしてくれると信じ、奮闘し続けた。
4月に香港に到着した頃には、まさに戦いを覚悟していた。装備の整った強硬派部隊、まるで音楽専門のSASのようだった。その年の前半はイギリスで過ごしていた。音楽ファンにとっては最高の場所だったが、その後の休息とリラックスという点ではそうではなかった。だから、これから始まることに胸が高鳴っていた。
その期待は正しかった。香港は本当に素晴らしく、おれはすぐにこの街の虜になった。とても賑やかで、鮮やかで、まさにブレードランナーのようだった。五感を刺激されるような体験だった。
ツアー最初のギグで、ジリアンのいとこに会った。香港に駐留している若い兵士だ。騒々しくて生意気な彼は、ジリアンとは正反対の性格だった。彼とその仲間たちは観客の約半分を占めていた。ギグで出会ったイギリス人女性、彼女はイギリス大使館に住み込みで勤務するパートタイムの音楽ジャーナリストだった。彼女はとても素敵な人で、香港のいかがわしいクラブ巡りに同行してくれて、そこでおれたちはすっかり酔っ払ってしまった。後になって、彼女は家まで送ってほしいと頼んできた。
「送ってもいいよ、フェレロ・ロシェがもらえるならね」とおれは言った。
彼女は笑いながら同意してくれたので、おれたちはこっそり抜け出してタクシーに乗ると、彼女は運転手に言った。
「我阿爸各禮拜都會俾啲零用錢我我就就會攞啲零用錢去買漫畫睇同埋買雪糕食!」
おれは「運転手さん、イギリス大使館まで連れて行って。この人はまさにアドニスよ!急いで、急いで!!」という意味だといいなと思っていた。
彼女が実際に何を言ったのか分からなかったが、おれたちはスピードを上げて出発した。丘を登っていくと、美しく暖かい夜空と素晴らしい景色が広がっていた。車がガタガタと音を立てて停止した時、後部座席でのひとときはとてもロマンチックなものになった。運転手は降りて、おれたち2人だけをタクシーに残した。これは見逃せない絶好の機会だと思った。そしてすぐに、何と言ったらいいのか…おれたちは夢中になった。
だが残念なことに、ちょうど盛り上がりに乗ろうとしていた時、運転手が窓を叩きながら広東語で「你想去野生動物園就搭五號巴士啦!」と叫び始めた。まるで「この汚いイギリス人め、車がジャッキから落ちそうだ!」みたいに聞こえた。
タクシーのタイヤがパンクし、運転手がジャッキアップしてスペアタイヤを準備していた矢先に、車が激しく揺れ始めたんだ。ヒヒヒ。おれは彼に多額のチップを渡した。
翌日、彼女は香港の観光を案内してくれると申し出てくれた。バンドは日本行きの前に2日間の休暇を取るので、これ以上の過ごし方があるだろうか?
ところが、ある約束を思い出した。
「くそっ、無理だ」とおれは彼女に言った。「中国でプロモーターと1日過ごす予定だったんだ。彼はおれたちを、ワンチョウとかなんとかいう美しい海辺のリゾートに連れて行ってくれるんだって」
「ふーん」と彼女は言った。
プロモーターがこの提案をしてきた時、おれたちは皆「おお、いいじゃないか、面白そう」と思った。でも、香港でとても楽しい時間を過ごしていたので、みんなでこのままここにいられたらいいのにとも思っていた。でも、プロモーターの彼はすごく熱心で親切だったし、断るのは失礼に思えた。
翌日、おれたちは起きて、長い朝食の後、14人でバスに乗り込み、国境を越えて中国へ向かった。そこで、プロモーター兼ツアーガイドが、目的地の「美しい海辺のリゾート」までは40キロの旅だと教えてくれた。すぐにおれたちを驚かせたのは、まばゆいばかりの香港と、おれたちの目には第三世界の国のように映った中国との大きな違いだった。古くて荒廃した建物や小屋が、川岸にひしめき合い、不安定な姿勢で建っているのが見えた。道路はというと、まるで見当もつかなかった。運転手は、国境から目的地まで続くかのような、穴だらけの道を、自殺願望を抱くバイクや自転車に乗った人を避けながら、ひたすら進んでいかなければならなかった。
結局、国境から美しい海辺のリゾートまでの40キロの旅は5時間近くかかり、到着したのは午後9時だった。「美しい海辺のリゾート」なんてものは無く、旅の途中で通り過ぎた様々なスラム街と同じくらい貧しい雰囲気だった。おれたちはひどく空腹だったので、何か食べるものをせがむと、おれたちをレストランまで連れて行った。到着すると「ここが町で一番のレストランだ」と大きく手を振りながら言った。
中国入国以来見てきた他のすべてのものと同じように、それはまるで10年前の壊れた遺物のようだった。おまけに、オーナーはきっとたくさんのペットを飼っているのだろうと思った。子犬、トカゲ、ヘビ、猫など、あらゆる動物がレストランの外の檻に入れられていたからだ。
「本当にここが最高のレストランなのか?」
クルーの1人がトイレに行って戻ってきたが、トイレらしいものはなく、厨房のすぐ隣の床に穴が開いているだけだと報告してきた。他の客たちは、レザージャケットとバイカーブーツを履いたマンチェスター出身のこの集団を、中でもジリアンを口をあんぐり開けて見つめていた。
席に着き、注文すると、料理が運ばれてきた。まず鶏肉が出てきたのだが、ああ、なんてことだ、ひどい、完全に腐っていた。まるでトラックに轢かれて調理されたかのような鶏肉だった。それからヘビが出てきた。少なくとも自分でヘビを選ばなくて済んだのは良かった。ひどい出来だった。小さな骨だらけで、本当にひどい。おれたちは「ホテルに行こう。ホテルならもっとマシな食べ物や飲み物があるかもしれない」って言った。
プロモーターは「わかった、じゃあホテルに行こう。バスの運転手は消灯前に戻ってくる」って言ったけど、おれたちは「ちょっと待て、『消灯前』ってどういう意味だ?」って思った。すぐに分かった。レストランを出て海辺を散策し、香港からこんなひどい場所に来たなんて信じられず、運の悪さを嘆いていると、電気が消え、街全体が真っ暗闇に包まれた。おれたちの半分はバスに乗っていたが、おれは残りの半分と一緒だった。彼らは真っ暗闇の中、1時間ほど街中を走り回り、転んだり、穴ぼこに踵をひねったりしながら、結局、みすぼらしく足を引きずり、泥だらけになってバスに戻ってきた。
そこで、満面の笑みを浮かべたプロモーターが、この地域で最高のホテルに行くと保証してくれたが、想像に難くない。彼が「最高」と「最低」を区別できるとは思えなかったからだ。だから、この時点で安堵のため息をつくわけにはいかなかった。案の定、またしても穴だらけの街中を走り抜け、最高のホテル、中国のこの地域で一番素敵なホテルにたどり着いた。そしてもちろん、そこは最悪だった。
3人で一部屋に泊まり、ベッドは湿っていた。最悪な場所だった。おれとスリムとデイブ・ピルスの3人が同じ部屋にいて、ベッドにかかっていた蚊帳をそっと広げた。おれは蚊帳の下に潜り込みながら言った「こりゃいいや、テントでキャンプだ」
でもデイブは「くたばれ、フッキー!テントで寝るなんてとんでもない!マジでムカつく」と怒鳴っていた。スリムも「おれも嫌だ!」と大声で叫んだ。
ひどい睡眠だった。当然だ。夜中は中国全国室内ドアバタン競技会が開催されていて、誰も一睡もできなかった。寝転ぶたびにドアの音でまた目が覚めてしまう。朝、おれたちは湿ったベッドから這い出た。
「じゃあ、朝食を食べに行こうか?」とおれは言った。
「刺されちまった」
おれは彼を一瞥した。冗談ではなかった。一晩でエレファントマンに変身し、顔中、体中、腫れ物だらけだった。おれたちは数え始めたが57で諦めた。その間にスリムも15ヶ所ほど刺されていた。おれは大丈夫だった。ちゃんと蚊帳を使っていたからね。
他のメンバーと合流し、皆でまともな朝食が出てくるのを祈った。
しかしそれは揚げたイナゴかヘビか何かで、食べられそうなものは全くなかった。この時点で14人は完全に気が狂いそうになり、この場所にうんざりし、ここから早く帰りたがっていた。しかしホストはまるでヒナギクのように元気で、人生で一番ぐっすり眠ったかのように、さっそうと入ってきた。手を叩いて「みんな元気かい?今日の山へのバス旅行は楽しみかい?」と言った。
それが我慢の限界だった。
おれは彼の胸ぐらをつかんだ。「いいか、今すぐ香港に連れて行かないなら、お前をぶっ殺すぞ」。彼は唾を飲み込んだ。「わかった、わかった、香港に戻る、今すぐだ、今すぐだ!」
いや、でも待てよ、まず何か食べなきゃ。
「レストランに連れて行ってくれ。米の料理のある店に」
誰が言ったのか覚えていないが、天才的なアイデアだった。
とにかく、バスでリゾート地の外れにあるレストランに連れて行ってくれた。よろよろと降りて店内に入り、やっとやっと何か食べられた。チャーハンと肉を少し食べた。かなり茶色だったけど、この24時間くらいで目の前に出された他のものと比べれば、全然マシだった。みんなでパクパク食べた。
「これ何の肉?」と誰かが尋ねた。
「ああ、普通の肉だよ、普通の肉」
おれたちは食べ続けた。ようやく笑顔で座り直し、満腹の腹を両手で叩いていると、誰かが言った。「ペドロ、その普通の肉って何だ? 牛肉か?」
「いや、牛肉じゃない」
「じゃあラムか?」
「いや、ラムじゃない」
「じゃあ、何だったんだ?」
「犬ですよ」
かわいそうなジリアンは、テーブルのすぐそばで吐いてしまった。残りのおれたちは、顔面蒼白で頬を膨らませながら、一目散に出口へと向かった。プロモーターを引きずりながらバスに乗り込み「香港だ、ペドロ!今すぐ!」
「わかりました、では香港に戻ったら猿の脳みそを食べにいきましょう!」と彼は言った。
国境に到着すると、香港への入国審査には何時間もかかった。文字通り、両手に生きた鶏を2羽ずつ抱えた男たちが目の前に立ちはだかり、到着したのは真夜中だった。
おれは彼女に電話すると、「ピーター、今は行けないわ。午前3時よ。明日は仕事だから」と言われた。
しかし、ホストにはまだ別の策が隠されていた。
「飛行機を間違えた」と彼はホテルのロビーで青ざめた顔で言った。
「『飛行機を間違えた』って、どういう意味だ?」
「飛行機は夜の7時だと思っていたのに、朝の7時だった」
それで終わりだった。大使館の彼女に会えるチャンスは完全に潰え、すぐに空港へ向かうことになった。これら一連の失態の唯一の救いは、少なくともあのクソ野郎とこれ以上時間を過ごす必要がなかったことだ。
まあ、実際彼はいい奴だったけど、最初から最後まで悪夢だった。おれたちは若くて最低だったから、帰る時は冗談を飛ばして、早口なマンチェスター訛りで「またな、バカ野郎」なんて言ってた。彼がおれたちの言っていることを理解できないのは百も承知でね。「あんたのせいで台無しになった。またな、このバカ野郎」って。
彼は何も知らずに、手を振って別れを告げようとしていた。すると突然、「そうだ、みんなにプレゼントがあるんだ」って言った。
「みんなにプレゼント?」
おれたちは荷物でいっぱいだった。持ち運べる以上の荷物だった。しかし、プロモーターにとってはそんなことはお構いなしだった。彼は14個の箱を山積みにして、おれたちが出国を待っている場所に戻ってきた。
それはティーセットで、彼はおれたち一人一人に贈った。「旅の小さな思い出です」と彼は頭を下げながら言った。
残念ながら、そのティーセットのいくつかは出入国審査場で置き忘れられた。捨てられたのだ。おれはティーセットを持ち帰ったが、ずっと後になって、アイリスと別れた時に失くしてしまった。失くしたというのは、彼女が投げつけた時におれがキャッチできなかったという意味です。
つづく