2012/03/16

2012年2月『GQ』バーナード・サムナー

あなたは再びNew Orderとして活動すると思いましたか?
「いや思わなかった・・・でもそれは特に何も計画していなかったというだけで、不可能だとは思ってなかったよ」

ジリアン・ギルバートをバンドに呼び戻す事は難しかったですか?
「その話は1年半前くらいに提案されたんだけど最初はショックを受けたんだ。でも、ジリアンが戻ってくる事だけじゃなく、New Orderとしての活動を再開することも含めて、色々と考えてるうちにそれがだんだんいいアイデアだと思うようになったんだ」

スティーブとジリアンはOther Twoとしても活動していましたし、あなたはBad Lieutenantのセカンドアルバムの制作に関わっていたうえ、Les Rhythmes Digitalesのスチュアート・プライスと一緒にエレクトリック系のアルバムも制作していました。それらの作品の進行状況はどうなっていますか?現在は保留状態なのでしょうか?
「僕らは何をどうするかなんて決めていないんだ。とりあえずNew Orderのギグをやってみて様子を見る事にしたんだ。一歩ずつ先に進むような感じでね。実際、かなりの数のギグをオファーされたんだよ」

ピーター・フックのベースがない状態でどうしていますか?
「別にそんなに難しい事ではないよ。Bad Lieutenantでもベースを弾いていたトム(トム・チャップマン)がやってるんだ。他に手の打ちようも無いから、フッキーのベースパートを他の人間に任せたんだよ。フッキーはそれだとうまくいかないと言ってたけどね・・・フレディー・マーキュリーのいないQueenみたいだって・・・」
そしてSweepがいないSootyだとも・・・(注:英国の有名な児童向け番組The Sooty Showに出てくるキャラクターたち)
「それってどっちがSweepなのか分からないよ。でもBad Lieutenantではうまくいっていたからね。トムはいいベーシストだし、背に腹はかえられない。僕らは前に進まなきゃいけないわけで、そうするしかなかったんだ。ジリアンとも長い間一緒に活動していなかったし、物事というのは長い年月でいろいろと変わっていくものなんだ」

New Orderはいろいろ適応したきた歴史がありますね。
「そう、その通り」

我々は最近ジョニー・マーと話しましたが、彼は“Electronicの新作を作ってみたい”と言っていました。あなたもElectronicとして曲を作ってみたいですか?
「うん、そうだね。ジョニーとはまた一緒に仕事してみたいと思ってるよ。いま彼がソロ作品を作っているのも知ってるし」

現在、ジョニーはThe Healersで活動しているんですが、彼もベーシストを探していましたよ。
「ハハハ・・・みんなベーシストを探しているんだね」

12曲程度なら作ってみたいですか?
「まぁ、12曲くらいならね。ジョニーと仕事をするのはいつも楽しかったよ。彼は偏見の無いミュージシャンで、進取の気性に富んでるんだ。彼はThe Smithsにいた時間よりもむしろElectronicにいた時間の方が長かったと思うよ。今でも仲のいい友達さ」
New Orderの新作を期待することは出来ますか?
「その可能性はある。でも今の僕らはギグに集中してるだけさ」

曲を作る過程についてですが、作詞をするという事は楽しいですか?
「いや、未だに苦労するよ。だんだんと楽になるような事ではないからね」

あなたはときどき作詞する時に行き詰まる事がありますよね?
「いや、僕は作詞をする時にいつも行き詰まるよ。自分が思ういい歌詞を書くためには敢えて苦労しなきゃいけないんだ。苦労をする、というのは夜遅くまで起きて、ワインを飲んで、計画的に書くのではなく、何かひらめくまで待つ事なんだ。自分が一番満足するような言葉というのは自分の意識からではなく、潜在意識からやってくる言葉なんだよ。いつもそれが何となくしっくり来るんだ。それは作曲に関しても同じだと思うね。1つのアルバムを作るとして、1011の歌詞を考えなきゃいけないから、10回か11回もひらめかなきゃいけない。それってすごく難しいことだよ。僕が音楽に関して好きな側面の一つが、音楽自体が抽象的である事なんだよ。ものすごく抽象的でも感情を伝える事が出来る。それが素晴らしいと思う」

あなたの歌詞はあまり情報を含まないけれども、それでも聴く人をいろんな気持ちにさせますね。ドラマチックな内容を点滴みたいに少しずつ垂らしてるかのように。
「僕の性格の一面をちらりと見せてるような感じなんだよ。僕は全てを明かすようなタイプの人間じゃないからね。具体的なコンセプトじゃなくて、むしろイメージや気持ちで考える傾向が強い。頭の中でいろんなイメージを組み立てて、言葉でそのイメージを描写していくんだ」

“今日はこれについて書くんだ”というように前もってストーリーを考えないんですね。
「ときどきやってみたこともあるよ。たとえばLove Vigilantesでは、田舎者のストーリーを書くと決めたんだ。それはベトナム戦争に関する内容で、ある兵士が戦場から戻ってきたんだけど、妻は彼が亡くなったという電報をもらったという話。エンディングは二通りの解釈ができるよ。すでに亡くなっていて幽霊として戻ってきたのか、本当は生きていたのに電報が誤報だったのか。でも妻は電報をもらった時点で自殺してしまった。それってとても田舎っぽい悲劇だよね」

あなたの一番有名な歌詞はThe Perfect Kissの“Pretending not to see his gun, I said Let’s go out and have some fun”だと思いますが、あなたもそう思いますか?
「うん、そうだね。おもしろい事に、最近その曲をいじってたんだけど、この歌の内容ってまったく分からないって思ったよ。The Perfect Kissといえば72時間一睡もしないでレコーディングやミキシングをしたんだ。ほんと殺人的なスケジュールだったよ。僕は自宅でシンセの一部とシンセベースの部分を準備して、残りはロンドンにあるBritannia Rowスタジオで仕上げたんだけど、最後には頭がおかしくなった気がしたね。短期間で制作したのは、その後すぐにオーストラリアツアーがあったからなんだけどさ。72時間一睡もしないで曲を仕上げて、ハロッズ(注:ロンドンにある高級老舗デパート)の近くに借りていたアパートの荷物をまとめた。この時点で朝6時だったよ。それからマンチェスターまで運転して帰って、次の日にはオーストラリアに向けて出発。飛行機で丸一日かかったよ。で、次の日からすぐにツアーに入った。だからものすごく忙しかったんだ」(注:NOOLの掲示板の有力情報によりますと、この超多忙なスケジュールで制作されたのはThe Perfect Kissではなく、Touched By The Hand Of Godだったそうです)
では、歌詞の内容は?トニー・ウィルソンいわく、エイズについての歌詞だそうですが。
「いや、あれはエイズの事なんかじゃないよ!僕はアメリカである男に家にいた時、彼がベッドの下から銃を取り出してきたんだ。それは彼の武器だった。そのあとで僕らは一緒に出かけて素晴らしい夜を過ごしたんだ!」

他にも誇りに思っている歌詞はありますか?
「ジョージ・マイケルがComic Relief(注:英国のチャリティー)のためにやったTrue Faithのカバーは興味深かったね。というのも歌詞をうまく引き出していたと思うから。あれは音楽よりも歌詞の部分が全面に出ていたんだ。彼はあの曲をR&Bっぽいバージョンに仕上げたってことで好き嫌いが分かれるんだけど、少なくとも僕は素晴らしいと思ったよ。さっきも言ったけど、僕は潜在意識から湧いてくる言葉で作詞するから、その時には歌詞の意味がよく分からいないんだ。でも他の誰かが歌うバージョンを聴く事によって、詞の意味が分かる気がするんだ」
隣の部屋で作業をしているスティーブンの様子を見て、New Orderが未だに最先端のテクノロジーを使っているのが分かります。本当に初期の頃から電子機器を使っていたんですね。
1981年のアメリカツアー中、本来ならライブで使うべきではない機材を使っていたんだよ。だからあの時は機材と葛藤していた時間が多かったね。ある時、ツアーマネージャーの一人が“シンセが動かないんだ。ステージに上がって何とかしてくれないか?”って言うんだ。彼(テリー・メイソン)はテクノロジーに疎い人で何がどう動くか分からなかったから、色分けされたケーブルを持ってたんだ。でも当時の僕らはいつも青い照明を使っていたから“バーナード!さっきからケーブルを差し込もうとしてるんだけど、照明のせいで緑が青に見えるし、黄色が赤に見えるんだ!”ってね。だから僕はARPシンセを接続する前に、観客の前でドライバーと工具セットを持ってステージに上がらなきゃいけなかったんだよ」

それはよく起きる事だったんですか?
「うん。ある時、トロントの楽屋で僕はこう言ったんだ。“いったい今度は何だい?”って。そしたら、“何にも動かないんだ、全部いかれてる。エコー・ユニットもだ。とにかく何にも動かないんだ”ってね。それから機材が届かなかったギグもあったよ。確かあれはSimple Mindsとのギグだった。僕らの出番は彼らより先で、テリーが戻ってきてこう言ったんだよ。“機材が無いんだ。税関で何かが起きたみたいで、とにかくまだ何も届いてないんだ”。“でもあと1時間でステージに上がらなきゃいけないんだぜ?”。“もちろんそれは分かってるよ、でも届いてないんだ。機材が全く無いんだよ”。で、僕はその時どうしたかというとペルノーを1本丸ごと飲んだんだよ。でもそれはあまりいいアイデアではなかったね」

1時間で1本を飲んだのですか?
「そこまではよく覚えてないけどね。それで、Simple Mindsに対して“僕たちの機材が届いてないから君たちの後に演奏してもいい?いま税関からこっちに向かってる途中だと思うんだ”と言ったんだけど、“それは出来ない”って断られたんだ。だからギグ全体がだんだん遅れてしまってね。出番は午後9時の予定だったけど、結局11時半になったんだよ。Simple Mindsの方は気が狂いそうになってたね。それでようやく機材が届き、ロブ(マネージャーのロブ・グレットン)がやってきて、“よし、じゃあステージに上がったらまずスティーブがドラムを叩いて、その次にバーナードのアンプを持ち込んでギターを弾いて、最後にフッキーのベースをやればいい”って言ったんだ」

New Orderは他のバンドと比べて混沌とした状況が多かったと思いますか?
「だと思うね。そういう事はよくあったし。そんな時はたいていすごくカオスな状態だったけど、別にあんまり気にしてなかったよ」

メンバーやスタッフのせいでそうだと思いますか?
「ハハハ。確かにそれが原因の一つだったかもしれないね。まさにカオスな状態だったけど、それはそれで雰囲気を高めたし、トニー(トニー・ウィルソン)はそれが気に入っていたよ。そこにはある種の物語があったんだ。確かにいろんな混乱はあったけど、ツアー中はよくある事だし。でも僕らはそれをわざとやっていたわけじゃないんだよ」
去年のインタビューでスティーブンは、その内の二つが故障するという理由で機材がそれぞれ三つずつ必要だと言っていましたが。
「そうだね。あまりにも故障するからマーティン・アッシャーという専門家をオーストラリアツアーに連れていった程だよ。彼は電話通信とかやっていた人で、ソニーの初代のビデオカメラとも関わった人でね。人口知能に関する仕事をするためにカリフォルニアに行ってしまったけど、彼はいいやつだったよ。Unknown Pleasuresを作ってた時、飲んでたブラウン・エールをうっかりアンプにこぼしてしまったんだ。それをマーティン・ハネットが、マーティン・アッシャーに修理させたんだ。あの日は日曜日で、ブラウン・エールを1本飲んでいて、ちょうどレコーディングを始めるところだった。アルバムをレコーディングするのにたった2日しかなかったから、マーティン・アッシャーが修理しに来てくれたんだよ。彼はおもしろい人だった。昔は機材が高くてなかなか手が出せなかったんだよ。シーケンサーを買うなんて、二軒連続住宅(注:英国に多い住宅の形式。壁が仕切りとなって二軒が左右対称となって建てられている)を買うのと同じ事だったからね。だから僕は自分でシンセを組み立てて、マーティン・アッシャーがアドバイスをしてくれたんだ。僕が組み立てて、彼に見てもらいに行くんだ」

今では主にソフトウェアなどを使いますか?
「ああ、今ではコンピューターを使ってるよ。最近、僕たちがやっているのはすごく複雑な視覚効果に関することで、テクノロジーの限界に挑戦してるんだ。だからコンピューターがあまりにも熱くなるので、扇風機を2つ設置してるんだ」

Blue Mondayは画期的な曲だと思いますか?またそれは主にあなたが作ったんですか?
「まあ、そうだと思うね。でももちろん他のメンバーだって貢献したし、フッキーだってベースを弾いてるよ。当時では先端の機材を使ったんだ。僕が組み立てたシーケンサーと、モーグシンセ、そして新しく買ったDMXっていうドラムマシンを使ってね。あの時は、純粋なエレクトロニック・ミュージックに挑戦していたので、機材の限界に挑戦したんだよ。当時の機材では基本的な事しか出来なかったので、数少ない機材でその最大限を引き出そうとしたんだ」

スティーブンは、機材を何かで強く叩けばいい、叩けば機材が動くと言っていました。
「シーケンサーについてはそうだったね。でも僕がはっきりと覚えてるのは、ドラムマシンもそうだったって事。一日中バックトラックを打ち込んでた時、途中で足がDMXのケーブルに引っかかってしまって、電源ケーブルを抜いてしまったんだ。もちろん打ち込んでいたドラムは全部消えてしまったよ。だから最初から全部やり直さなきゃいけなかったんだ。最終的にほとんどやり直すことが出来たんだけどBlue Mondayの元のドラム音は失われてしまったんだよ。元々の音は違ってたんだ。でもおかしな事にそれが僕らの曲の中で最も有名な曲になってしまったけど」

色褪せない曲だと思います。
「あれは曲とは言えないような曲だね。クラブのサウンドシステムでこそよく映える機械のような物だね。当時、僕はファクトリーに所属していたマンチェスター出身のグループ52nd Streetと関わっていた事があって、彼らはファンク系の曲をやっていたんだけど、僕は彼らと一緒にキーボードのエフェクトとかをやっていたんだ。彼らとはいろんなクラブに通ったよ。普段なら自分が行かないようなクラブに行ったりして、そういう所でサブベースの音域に耳を傾けてたんだ。Joy Divisionにいた頃は、そういう音域に耳を傾けるなんて考えなかったよ。フッキーのベースは中音の帯域だったから本当の低音なんて使っていなかったからね。だからは僕らはサブベースも聴こえるような最高のサウンドシステムがあったクラブに行って、その知識をBlue Mondayで活用したんだ。だから気づかない所でBlue Mondayにはいろんなからくりがあるんだ。ベースだけじゃなくて聴こえないような音域も含めてね」

アルバムを作るのというのはあなたにとっては疲れるような作業ですか?
「不愉快な疲れ方という意味ではそうだね。本来はいい経験であるべきなんだけどさ。というのは、アルバムってすごく特別な物だから最後の1ミリまで努力をすべきなんだ。かつて僕は夜に作業してた。ある晴れた日曜の午後にジョニーのところに着いて、“ボーカルは地下室でやらなきゃな”と思ったんだ。するとジョニーはこう言ったんだ。“どうしたんだ?晴れた日にスタジオ入りする以外に望める最高の事なんて無いんだぞ”。それっていかにもジョニーらしいんだけどね。彼は外で陽を浴びるより、スタジオにいる方を好む人間なんだ。だから僕らは午後1時にスタジオ入りして、午前4時半まで出て来なかったんだ。確かあの地下室は2年間使ったと思う。何年も日差しを浴びないような生活だった。でも子供ができると物事は変わってしまうんだ。おかしなことに僕は若い頃、普通の95時仕事には就きたくなかったんだ。とにかく普通の人がする事をしたくなかったから、徹夜をするのは最高だったよ。Bad Lieutenantのアルバムの時は午前2時まで仕事してたけど、今では午前0時までしか仕事をしないんだ。この調子で行けば午後5時半に仕事を終わらせる時も来るかもしれない。最近思ったんだけど、この先また曲作りにとりかかる時は95時で仕事をすると思う。考えてみるとそれは本当にいいアイデアなんだよ。子供の面倒を見る時間やテレビを観る時間もあるからね。なんでみんながそうするのか、今となってようやく分かるんだよ」

なぜあなたはジャムセッションが好きではないのですか?
「キーボードや打ち込みのビートから音楽を作ろうとすると、ジャムセッションは役に立たないんだよ。その都度ビートを打ち込まなきゃいけないからね。僕はジャムセッションがあんまり好きじゃないけど、僕らがやっている事の一部として重要な事だという事はちゃんと分かっているよ。レタスはあんまり好きじゃないけど、体にいいのは分かってるって事と同じさ」

デビッド・ノーラン氏が執筆したあなたの伝記についてですが、執筆されない方が良かったと思っていますか?
「あの本はあまり好きではなかったね。僕は全てのページに目を通して校正をして、その後で彼が出版したんだ。楽しい作業ではなかったよ。自分の人生に誰かが立ち入った感じがするからね。僕は結構プライベートな人間だから」

自伝を執筆する事は考えた事はありますか?
「まだ考えた事はないけど、この先考えるかもしれないね」
ピーター・フックの『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』は読みましたか?
「いや、読んでないよ」

ハシエンダについて下された決断は、全ての状況において最悪な決断ばかりのようですが・・・。
「本を読んでいないので、コメントが出来ないね。何がうまくいかなかったという事については、手短に話せないよ。あの時は結局ハシエンダのビルを買い取ったんだけど、つなぎ融資で買い取ったんだ。ファクトリーの経営が危なっかしい状況にあったし、自分たちの自宅を売却したくなかったので、普通の融資が受け取れなかったんだ。だからすごく高額なつなぎ融資を抱えることになったけど、ハシエンダの客の入りだけでは返せなくなったんだよ。すごく人気があったクラブだったから、木、金、土は大盛況だったけど、融資を返せるほどのお金を稼ぐためには月、火、水も大盛況でなければいけなかったんだ。でもさすがにそれは不可能な事だったんだよ」

この問題についてミーティングをしましたか?
「うん。何年もしたよ。あとの方の段階で、僕とスティーブンがほとんど関わっていなかったというフッキーの言い分は聞いたよ。でも実際にはもっとあるんだ。僕も最初の頃はたくさん関わっていたよ。フッキーいわく、1人ずつ100万ポンドを投資したんだ。でもどれだけお金を投資したか見ると、それはもはや痛々しい程になっていたんだよ。僕は“借金を返せるほどの集客が望めない以上はうまく行かないと思う。もう十分だよ”って言ったんだ。それで僕らはこれ以上お金を投資しないことにしたんだ。フッキーはうまくいくと思ってたけど、僕らはうまくいかないと思っていたんだ。結局彼らはそのままの状態でクラブの経営をして、やっぱりうまくいかなかったんだよ。それで最終的にクラブは売却された。あのあと追加で投資をした分は彼らに戻ってきたんだ。でも僕らには何も戻って来なかった。だから、ハシエンダの名前の使用権を彼が買い取った事について、興味がなかったというのは確かに本当だけど、それだけじゃないんだよ。僕らは100万ポンドを投資したけど、彼は都合良くその事実を無視するんだ。彼らは結果的に僕らよりもお金を多く費やしたわけじゃないんだよ。というのは、彼らが余分に費やした分はちゃんと戻ってきたからね。だからむしろ僕たちの方こそハシエンダの名前の使用権を持つべきだと思うんだ」
ハシエンダが存在しなかったら、New Orderはそんなに成功を収めなかったかもしれませんね。
「答えを出すのが不可能な質問だけど、僕らにとってはそんなにプレッシャーがかかった状態ではなかったかもしれないね。それはいい事もあるし、悪いこともあるよ。それでもまあ文句はないよ。今の僕はいい家に住んでるし、いい車も持ってるし、それに関しては不満がないよ。自分のエゴで手放せなかったんだ。勝てない馬に賭けているような事だ。面子を保つためにお金を投資し続けたわけだよ」

でもハシエンダはこの国を変えたんですよね。
「確かにそうだったよ。ロブにとっては自慢の種だった。なんで彼がやったかというと、この国を変えたかったんじゃなくて、マンチェスターを変えたかったからなんだよ。彼は“ここは俺たちが住んでる場所だから、ここをより良い場所にしなければいけない”という考えだったけど、結果的に国を変えることになったんだ。だからいい事もあったし、悪いこともあったのさ」

New Orderのメンバーたちの間ではいろいろありましたが、バンドについていろんな人に話してもメンバー同士の相性が良かったとみんな言っていました。スティーブンは“他のグループの一員である4人のソロアーティストたちの集まり”という表現をしていました。でもなぜかうまくいきましたよね。
「まあでもいろんな嫌な事もあったよ。確かにいろんな素晴らしい事も成し遂げたけどね。それは僕やフッキーも含めてなんだけど、僕らはまったく異なるタイプの人間なんだよ。僕が思うにはエゴのせいで馬鹿げた妨害もあったんだ。それはもういろんな相違があったよ。フッキーはツアーに出るのが好きだったけど、僕はそうでもなかったんだ。言っちゃ悪いけど、年を重ねて家族や子供がいると、20代の頃と比べてあまりツアーをしたくなくなるんだよ。彼はそれにあまりうまく対処できなかったんだ。僕にとってはフッキーと一緒にツアーをするか、子供と一緒に過ごすかの選択だったんだよ。僕だったら子供と一緒に過ごしたいと思うんだ。年を重ねるとそうなるもんさ。もちろんギグをやりたくないというわけじゃないよ。たしかに僕らは結構ギグをこなしていた。でも他の人と仕事をする時は妥協しなきゃいけないんだよ」
一緒に仕事をしたかったプロデューサーはいますか?例えばブライアン・イーノとか。
「そうだね。確かにそういう話もあったよ。実は、前のアルバムではブライアン・イーノと話をしたけど、何らかの理由でボツになったんだ。僕はたくさんのプロデューサーと仕事をするのが好きだったよ。スティーブ・オズボーン、アーサー・ベイカー、スティーブン・ヘイグ、マーティン・ハネット、ジョン・レッキー、スティーブン・ストリート、スチュアート・プライス・・・。これだけたくさんのプロデューサーと仕事をしたひとつの理由は、僕ら(バーニーとフッキーの事)の仲が悪かったからだよ。僕がノーと言えば、フッキーはイエスと言うし、僕が黒と言えば彼は白と言う。エゴのせいだったよ。だから決断を下すためにプロデューサーを使ったんだ。それから、新しい事も学ばなきゃいけないけど、新しい事を学ぶには・・・これはポジティブな理由なんだけど・・・新しいプロデューサーを使わなきゃいけないんだよ。いろんな人たちはそれぞれの方法で物事に取り掛かるからね。僕らだけでもやっていけたかもしれないけど、それだとあまりにも多くの揉め事があっただろうね。“これは嫌だ。あれはしたくない”ってね。それは子供じみた事だし、気力の無駄使いだよ」

なぜWorld in Motionのプロモの中でエルヴィスの格好をしたのですか?
「よくわからないなぁ。あれはバカな発想だったね。あの時はジョニーの家で着替えたんだよ。当時、彼は2匹のジャーマン・シェパードを飼っていたんだ。その2匹は普段だったら僕に対して平気だったんだけど、エルヴィスの格好をして出てきたら、誰だか分からなかったみたいで僕を追いかけ回したんだ。そのあと、撮影場所のリヴァプールまで屋根なしのスポーツカーを運転したんだけど、僕は間違って別のサッカー場に着いてしまってね。その時ちょうど学校帰りの子供たちが乗っていたバスがやってきて、“おいエルヴィス!カツラをくれよ!”って僕に向かって叫んだり、物を投げつけたりしたんだよ」

かつてあなたはいろいろ夜遊びして楽しんだと思います。特に思い出深い夜はありましたか?
「アメリカでのパーティーで、死ぬかと思った時があったよ。確かDe La Soulと一緒にフェスをやった時。あまりに酔っていて悪魔が自分に取り憑いてると思ったんだ。もし踊るのをやめたら悪魔が自分を滅ぼすんじゃないかと思ってすごく怖かったよ。でも実際に踊るのをやめたら、最悪な夜になってしまったんだけどね。そして次の日にもギグがあったんだ。結構過激だったよ」

Factoryはとてもクリエイティブだけども気難しい人々の集まりでしたか?
「FactoryやNew OrderJoy Divisionを見てあのビジネスモデルをまた使う事は出来ないと思うんだ。とにかくカオスな方法でいろんな人がいろいろやっていたからね。でも奇妙な事にそれは成功したように見えた。振り返ってみると、唯一言えることは楽しかったっていう事だよ。僕らはお菓子屋にいる子供たちのようだったよ・・・でもそのお菓子を作っていたのは僕らだったんだけどね」

http://www.gq-magazine.co.uk/entertainment/articles/2012-02/28/bernard-sumner-interview-2012-new-order