この本は真実であり、完全な真実であり、真実そのものである...おれが覚えている限りでは!
読者の皆様へ
ニュー・オーダーのレコーディング時間は、多くのウェブサイトに掲載されている時間と照らし合わせると、矛盾に気付く方もいるかもしれません。本書に記載されている時間は、私の知る限り、当時のレコーディング時のものです。
はじめに
ハシエンダについての本を書き始めた時、もしニュー・オーダーの物語を語ることになったら、それは間違いなく最も困難なものになるだろうと分かってた。ニュー・オーダーの26年間には素晴らしい瞬間もあったが、多くの痛みや失恋、自信喪失、フラストレーション、苛立ちもあった。おれたち全員がそれらを乗り越えられたのは不思議なことである。
ジョイ・ディヴィジョンがおれの人生を定義したとすれば、ニュー・オーダーはそれを形作った。セックス、ドラッグ、そして(インディーズ)ロックンロール、芸術、金、粗野な愚かさ、盲目的な信仰、そして驚くべき幸運な魅力的な物語。そして、素晴らしいミュージシャンによって書かれた本当に素晴らしい曲のサウンドトラックがそれを支えている。
グループを結成する際に必ずすべき10のこと
1. 友達と協力する
2. 志を同じくする人を見つける
3. 自分に絶対的な自信を持つ
4. 素晴らしい曲を書く
5. 素晴らしいマネージャーを雇う
6. マンチェスターに住む
7. どんな時も支え合う
8. 誰一人としてグループより偉大ではないことを理解する(これはジーン・シモンズの言葉です)
9. お金の流れに注意する
10. 署名する前に、必ずすべてについて個別に法的助言を受ける。それができない場合は両親に相談する
プロローグ
1985
「彼の時差ボケ解消法は、今まで見た中で一番長いコカインの列だったんだ。」
まずは物語から始めよう。この本の中で、ハリウッド女優、オーケストラ・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク、そしてマッシュルームのヴォロヴァンが登場するのはこの物語だけなので、その点でユニークだ。一方で、物語が進むにつれて、他にもいくつかテーマ(女の子、コカイン、バーニーの嫌な奴ぶりなど)が出てくるので、舞台設定にはうってつけ。物語は1985年、ニュー・オーダーはジョン・ヒューズが新作映画『プリティ・イン・ピンク』でおれたちの曲を2曲使うこと、そしてそれらの曲の代わりに映画のために特別に書き下ろした新曲が欲しいと告げられたところから始まる。
それはそれで良かったのだが、残念なことに、誰かがジョン・ロビーに新曲をプロデュースさせるという素晴らしいアイデアを思いついた。ああ、当時のおれはジョン・ロビーを心底嫌っていたんだ。彼は時に、いわゆる「とても面白くて扱いにくい」性格だったから。ニューヨークでアーサー・ベイカーとの『コンフュージョン』セッションで彼に会ったことがある。でも、ローディー仲間のトゥイニーが言ったように、「彼は俺たちとは違うよ、フッキー」。
カリフォルニア州サンタモニカにあるヴィレッジ・レコーダーというスタジオで、彼の『サブカルチャー』をミックスしていた時(フリートウッド・マックが100万ドル以上を費やした史上最高額のアルバム『タスク』をレコーディングした場所だが、後に俺たちが自分たちのアルバムでそれを上回ることになる)、彼は女性に対して驚くほど大胆だった。それは俺にとっては夢のようなことだった。彼はレストランやクラブなどで女の子たちに声をかけ、「イギリス出身のグループ、ニュー・オーダー」とレコーディングしている曲のバックコーラスをやらないかと持ちかけていた。
彼女たちは必ずOKしてくれたので、毎晩スタジオはくすくす笑うバカたちでいっぱいになり、おれたちの取り巻き(この本を読む中で何度も出てくるフレーズだ)の何人かが安っぽいスーツのように彼女たちに覆いかぶさっていた。
それだけでなく、ロビーがバーナードに「この曲は君のキーじゃないって気付いてるよね?」と一言言っただけで、ニュー・オーダーの魔法の大部分を一気に破壊してしまったとおれは信じていた。もちろんバーナードは、この曲が自分のキーじゃないことに気づいていなかった。誰も気づかなかった。そんな技術的なことは何も知らなかった。おれたちはいつも曲作りを先にやっていた。バーニーのボーカルでおれがずっと好きだったのは、曲に合わせようと無意識に緊張しているような声質だった。イアンと同じく、彼も世界一の歌声に恵まれていたわけではないが、感情と情熱が込められていた。そしておれにとって、バーナードの声に宿る苦闘こそがバンドの魅力の大きな部分を占めていた。(「歌手の声が良ければ良いほど、彼らの言っていることを信じにくくなる」と言ったデイヴィッド・バーンに、おれも同感である。)
しかしロビーとの仕事の後はそうではなかった。彼が口を挟んだ後は、必ずバーナードのキーで曲を書かなければならなかった。それだけでなく、それは新たな目覚めを意味した。突然、バーナードはこう考えるようになった。「ああ、物事には正しいやり方があるんだ。正しいやり方ってあるんだ」と。そして時が経つにつれ、おれたちは全てを一つか2つのキーで書くようになっただけでなく、全ての曲にボーカルのバース、ボーカルのブリッジ、ボーカルのコーラス、ボーカルのミドルエイト(これは違った)が必要となり、ダブルコーラスで締めくくらなければならなかった。おれにとってそれは、おれたちがこれまで目指してきた全てに反する行為だった。おれたちはルールブックを破り捨て、書き換えることに専心していた。5分ごとにルールブックを参照するようなことはしなかった。おれたちはパンクであり、反逆者だったんだ。
おれに言わせれば、そのルールはおれたちを退屈させてしまった。「ブルー・マンデー」のような素晴らしい曲を書いていた頃は、9分間の独特なサウンドを作りたかった。もし誰かが「そんなことはダメだ」と言ったら、おれたちは「くたばれ」と言っていただろう。ところが今では「ジェットストリーム」のような型通りの曲を書くようになった。
さて、1985年の冬に話を戻すと、バンドの他のメンバーはロビーを気に入っていたし、彼とバーナードは親友同士だったから、ロビーはストックポートのイエロー・ツーで行われた『プリティ・イン・ピンク』のセッションに飛行機で来てくれた。そこはストロベリー・スタジオの真向かいだった。そこでロビーは「シェルショック」のベースを外して、代わりに弦楽器に乗せて、おれを怒らせることに明け暮れた。「分かってるだろ、フッキー」とニヤニヤしながら、夜遅くになるとハシエンダを闊歩していた。
おれたちは彼を女の子たちに紹介したが、彼が「ああ、ボッティチェリの天使みたいな顔をしてるね」みたいなセリフを言うと、呆然と立ち尽くしたものだ。
「失せろ」と彼女たちは言ったものだ。
アメリカでは女性たちが列をなしていたが、マンチェスターの女の子たちは彼を軽くあしらっていた。
ロビーには厳格なスタジオ・ルーティンがあった。毎晩8時になると、彼は二階へ行き、事前に注文しておいた中華料理のテイクアウトを食べていた。紐で縛られた、あのおかしな小さな椅子に座り、少しテレビを見て、食事を済ませ、それからまたニュー・オーダーを台無しにする仕事に戻るのだ。ある晩、夕食後、バンドメンバーが二階に集まって、ロビーがいつもあの椅子に座っていることを笑い話にしていた。その時、バーニーが、次にロビーが座った時に椅子が倒れてロビーも一緒に倒れるように、ウェビングを外してはどうかと提案した。
「素晴らしい、面白いだろう」とおれたちは思った。
そして彼はそれをやってみた。そして本当に面白かった。でも、ロビーはおれが彼を嫌っていることに気づいていたので、椅子から落ちて中華で全身を汚してしまった時、彼はおれを責めた。おれがどれだけ無実の傍観者だと言い張っても、彼は仕返ししてやる、復讐してやると言った。
「待ってろ、フッキー…待ってろ!」と彼はニューヨーク訛りでゆっくりと言った。
しかし、彼は待たなかった。少なくともそのセッション中は。『シェルショック』が完成し、ジョン・ヒューズに渡した。気がつけば1986年の初め、ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターで行われた『プリティ・イン・ピンク』のプレミア上映会に臨んでいた。サイケデリック・ファーズ、OMD、エコー&ザ・バニーメン、スザンヌ・ヴェガ(自分の曲がほとんど聞こえなくて号泣していた)、その他たくさんのバンドが出演していた。ロブ・グレットンは来られなかった。コカインによる精神疾患で病院に入院しているという些細な問題があったからだ。それで、ロビーと一緒に行ったのはおれ、テリー・メイソン、スティーヴ、ジリアン、そしてバーニーだった。当時、二人の間には紙巻タバコの巻紙さえ挟めないほどの仲良しコンビだった。ほとんど恋人同士のような関係だった。
まず、全員で映画を観た。『シーブズ・ライク・アス』と『エレジア』は使われていたが、『シェルショック』はたった6秒のクリップしかなかった。ジョン・ヒューズは古いトラックを差し替えていなかった。明らかに「シェルショック」が物足りないと思っていたようで、おれはそれが面白くて、後でロビーに文句を言おうと思った。その後、ナイトクラブのレセプションでOMDと話をした。ファクトリー時代以来会っていなかった彼らに、おれは時差ボケがひどいと文句を言っていた。
「一緒に来ないか」と、彼らの取り巻きの一人が誘ってきた。
「ちょうどいいものを見つけたんだ」
結局、彼の時差ボケ解消法は、今まで見た中で一番長いコカインの列だった。そして、さらにもう一本、さらにもう一本と、おれが完全にラリってしまうまでやり続けた。それまでコカインをあまりやったことがなかったので、その感覚は実に奇妙だった。それに、その時は大量に飲む前だったので、負担を軽くするものが何もなかった。確かに目が覚めるという効果はあったが、歯を食いしばったような嫌な女になってしまうという望ましくない副作用もあった。まるで尻に硬い棒が突っ込まれているような気分だった。とても静かになり、じっと一点を見つめるようになった。その後に起こったことは、全くもっておれが受けるべきことではなかった。おれ自身に何の挑発も無かったのだから。
その後、モリー・リングウォルドの向かいに座って、スティーブ、ジリアン、テリーと二人でお酒を飲んでいると、まるで棒のように硬直した様子で(上記参照)、ふと目に入ったのは、数フィート離れたところでバーニーがくすくす笑っている姿だった。「ああ、あのバカ、何やってんだ?」と思っていたら、次の瞬間、ロビーが目の前にいて「おい、フッキー、イエローツーの椅子、覚えてるか?」と言いながら、巨大なマッシュルームのヴォロヴァンをおれの顔にぶつけた。おれはショックを受けた。彼とバーニーは笑いながら立ち去り、おれはただ座って、それがゆっくりと顔面を滴り落ちていた。
おれはその夜のためにきちんとした服装をしていた。クロムビーに素敵なシャツとネクタイを着けた、おれにとってはとてもスマートなスタイルだった。顔中にマッシュルームのヴォロヴァンを塗るのは、おれが求めていたスタイルではなかった。すごくクリーミーなやつで、熱くてベタベタして、あちこちに飛び散った。スティーブとジリアンとテリーが手伝ってくれて、体を拭いてくれた時も、おれはまだショックから抜け出せずにいた。「あんなこと、とんでもない!」って。バーニーがやったのはストックポートのど真ん中で、しかもおれたちだけだったのに。ロビーは『プリティ・イン・ピンク』のプレミア上映で、モリー・リングウォルドの目の前で、おれにこんなことをしたんだ!
みんな同意した。「ああ、あいつはクソ野郎だ。お前はあいつをぶちのめすべきだ、フッキー」って。コカインでいっぱいのおれは「よし、よし、あいつをぶちのめしてやる」って。3人とも「ああ、ぶちのめしてやる、ぶちのめしてやる」って。
その時、俺はすっかり興奮しきっていて、赤い霧が降りてきた。もう完全に怒り狂っていた。「よし、あのクソ野郎はどこだ? ぶっ殺してやる!」って言って、奴を探しに階段を下り始めた。半分ほど降りたところで、ロビーとバーニーが二人の女の子とおしゃべりしながら「あら、君たち二人、バックシンガーにできそうね…」って言ってた。
「おい、この野郎」って言って、奴が振り向いた瞬間にぶっ放した。バンッ! 目の間を狙ったと思ったら、頬をかすめただけで、それ以上は何もなかった。とにかく、奴はまるでジャガイモ袋みたいに崩れ落ちた。
なんてこった。大混乱だ。サイケデリック・ファーズが逃げ出し、OMDも逃げ出し、スザンヌ・ヴェガがまた泣き出し、二人の女の子は叫びながら逃げ出した。辺りは一面空っぽになった。バーニーだけがそこに立っていた。「あんなことするべきじゃなかった、フッキー。本当に胸くそが悪い」って。「そして、このクソ野郎」って言ったんだ。「もう一言言ったら、次はお前だ!」とおれは言った。そしてゆっくりと振り返り、テリーが執事のようにおれのコートを優しく肩にかけ直してくれた。おれたちは2階に戻った。そこではおれの行為が噂になっていた。おれはその夜の残りを、ロビーに相応しいことをやってくれたと祝福してくれる人たちと握手しながら過ごした。胸が高鳴り、自分が3メートルも伸びたように感じた。コカインですっかりイカれた、小柄なたくましい男になった気分だった。そう、その通り。
そして翌朝
ああ、なんてことをしてしまったんだ!
テリーが早くにおれの部屋に来た。彼は緊張すると肉垂れを引っ張る癖があった。「バーナードがグループミーティングを開きたいそうだ、フッキー」と彼は言いながら、精一杯肉垂れを引っ張りながら言った。「バーナードは機嫌が悪いんだ!」
案の定、バーニーは機嫌が悪かった。美しいサンセット・マーキス・ホテルで、彼は尻を叩かれたような顔で座り込み、「お前のやったことはひどい。本当にひどい。よくもあんなことができたもんだ」と呟いていた。
でも、午前中ずっと電話がかかってきて、ドアの下にメモが挟まれていた。ロビーの件でいい知らせが届き、あのクソ野郎をヤッてくれたことへの感謝の言葉が山ほど届いた。少しは正当性が証明されたような気がしてきたので、ただ座って受け入れるのではなく、「いいか、彼はクソ野郎だ。映画のプレミアで、モリー・リングウォルドの前で、俺の顔にヴォロヴァンを突きつけるなんて。そもそもイエロー・ツーであんなことをしたのはバーニーお前だろ、このクソ野郎」と言った。
「まあ、それでもひどい」と彼は上品ぶって言った。「お前が謝りに行かないなら俺はバンドを辞める」
おれは言った。「謝る? 頭をぶち割ってやるわ」
問題は、ロビーがまだ『シェイム・オブ・ザ・ネイション』と『サブカルチャー』をプロデュースしていたから、みんなロビーが必要だと思っていたことだった。ロブ・グレットンがいなくなったことでも、おれたちはリーダー不在となり、アメリカのレコード会社に彼の神経衰弱の件が知られてしまうのではないかと心配していた。だから穏便に済ますため、おれは謝ることに同意し、彼の部屋へ行った。
彼はドアを開けた。少し傷つき、ひどく落ち込んでいた。
「ああ、君か」と彼は言った。
「ああ」とおれは言った。「昨晩のことを謝りに来たんだ」
「わかった」と彼は頷いた。「入って座って」
おれは座った。彼はおれを見た。傷ついた小さな兵士のようだった。「お前のやったことは本当に最低なことだ、フッキー」と彼は言い始めた。
そして、まるで学生時代に戻ったようだった。彼がおれのことを卑劣で最低な人間だと執拗に責め立て、卑怯者呼ばわりし、不意打ちで殴りつけてきた時、新たな怒りが湧き上がってきたのを感じた。
「いいか。レッドカーペットのプレミアで、モリー・リングウォルドの前でおれをぶちのめしただろう?俺に言わせれば、あれは凶器を使った暴行だ」
彼は言った。「あの椅子、お前がやったんだろ。お前が…」
おれは言った。「椅子の件は俺じゃない、このクソ禿げ野郎め。椅子をやったのはバーニーだ!」
彼は激怒していた。「とにかく、お前は最低な奴だと思う。お前のやったことは本当に最低だ」
おれは言った。「そうだな、このクソ野郎」さあ、外へ出て。お前のクソみたいな歯をぶち壊してやる。廊下で、今すぐだ!
だが彼は動かなかった。
おれは怒り狂って、ドアをバタンと閉め、壁を蹴りながら、飛び出した。部屋に戻ると、ミニバーをミニハリケーンのような勢いで叩きつけた。もういいやと決めた。もうバンドにはうんざりだ。これ以上ひどい目に遭うのは嫌だった。帰ることにした。スティーブとジリアンに伝えに行ったら彼らも帰るという。
くそっ。本当にこれ以上ひどい目に遭うなんて?
ああ、なんてこった。
パート1
Movement
「1人の天才と3人のマンチェスター・ユナイテッドサポーター」
1973年、北ウェールズのリルで休暇中にコックニー・レベルの「セバスチャン」を聴いたことが、若きピーター・フックの音楽への情熱に真の火をつけた。フックは新進気鋭のセックス・ピストルズについて読み、すぐにこの「労働者階級のろくでなし」たちに共感を覚えた。当時、彼と学友のバーナード(バーニー)・サムナーはすでに定期的にライブに通っていた。そして案の定、1976年6月4日、ピストルズがマンチェスターのレッサー・フリー・トレード・ホールで演奏した時(チケット50ペンス)、フック、サムナー、そして学友のテリー・メイソンが観客の中にいて、同じく会場にいた大多数の観客(ミック・ハックネル、マーク・E・スミス、モリッシーなど)と同様に、彼らはバンドを結成することを決意した。マンチェスターの伝説的な楽器店メイゼルズを訪れた後、サムナーとフックはそれぞれリードギターとベースギターを手に入れた(メイソンは短期間ボーカルを務めた)。
マンチェスターの成長するパンクシーンで急速に顔見知りになったフックとサムナーは、市内のエレクトリック・サーカスでイアン・カーティスに出会った。「彼のジャケットには『Hate』と書かれていた」とフックは回想する。それで「すぐ気に入ったんだ!」
1976年12月18日のサウンズ誌の記事が、「スティッフ・キトゥンズ」の最初のプレス記事となった。その後まもなく、カーティスがリードシンガーとして加入。グループが「スティッフ・キトゥンズ」(「漫画パンクすぎる」)という名前を捨ててワルシャワに改名する前に、ドラマーのスティーブ・モリスが加入し、1977年8月27日にリバプールのEric'sでバンドとの最初のギグを行い、バンドのラインナップを完成させた。そして1978年1月までに再び名前を変更し、ジョイ・ディヴィジョンとなった。
1978年5月、地元のDJ兼パフォーマーであるロブ・グレットンがグループのマネージャーに就任し、翌月、ジョイ・ディヴィジョンはコンピレーションアルバム『ショート・サーキット - ライヴ・アット・ザ・エレクトリック・サーカス』にフィーチャーされた。比較的短期間で、彼らは街を代表するポストパンクバンドの1つになった。その後すぐに、グラナダ・レポートに出演し、トニー・ウィルソンが「シャドウプレイ」のパフォーマンスを紹介し、世界、少なくともイングランド北西部はカーティスの独特のダンススタイルを知ることになった。その後もリリースを重ね、1979年1月13日には、イアン・カーティスがNMEの表紙を飾った。しかし数日後、この問題を抱えたシンガーはてんかんと診断された。事態は急速に動き始めた。気まぐれなプロデューサー、マーティン・ハネットとレコーディングしたデビューアルバム『アンノウン・プレジャーズ』は6月に大絶賛を浴びてリリースされた。バンドは1979年の残りの期間、ライブやテレビ出演で成功を確実なものにしていった。当時すでに新米パパだったイアンにとって、過酷なスケジュールは大きな負担となり自傷行為にまで発展した。
1980年3月、バンドはハネットとセカンドアルバム『クローサー』のレコーディングのために集結した。しかし、その翌月、当時ベルギー人ジャーナリストのアニック・オノレと恋愛関係にあったイアンは自殺を図った。その後まもなく、夫の不倫にうんざりしたデビー・カーティスは離婚手続きを開始する意向を表明。
そして1980年5月18日、ジョイ・ディヴィジョンは解散した。ニューアルバム『Closer』とシングル「Love Will Tear Us Apart」のレコーディングとリリース準備が整った頃、ボーカルのイアン・カーティスは、バンドが全米ツアーに出発する数日前に自殺した。生き残った3人のメンバー、ベースのピーター・フック、ドラムのスティーブン・モリス、ギターのバーナード・サムナーは再集結し、イアンとジョイ・ディヴィジョンが残した2曲「Ceremony」と「Little Boy」(後に「In a Lonely Place」に改名)から活動を再開することを決めた。その間、3人組によるライブ活動の計画が立てられ、中止となったジョイ・ディヴィジョンの全米ツアーのプロモーター、ルース・ポルスキーがアメリカでの一連の公演をブッキングした。
イアンの死の経緯をここで改めて説明する必要はあるだろうか?
それらはよく記録されているし、ジョイ・ディヴィジョンの本でも既に書いているし、とにかく、すべての本はイアンの死について書かれている。おれたちはとても若かった。おれはまだ24歳で、今振り返ると20代前半。あの出来事に向き合うには、驚くほど若すぎた。おれたちはとても、とても不安だった。どうなるんだろう?イアンがいなくなったら、おれたちはうまくいくんだろうか?彼無しで、おれたちは大丈夫だろうか?おれたちは怖かった。深く話し合うことはなかったし、分析することもなかった。ただ、簡潔な言葉で表面をなぞるだけだった。一緒にいることで力を得て、最終的には、いかにも北イングランドらしいやり方で、イアンとお互いをからかうことになった。悲しみに向き合うことはなかった。周りの誰も、どうしたらいいのか、何を言えばいいのか分からなかった。おそらく、皆にとってあまりにも衝撃的だったからこそ、家族や友人たちはそれを無視して、そのまま続けさせてくれた方がずっと楽だったのだろう。振り返ってみると、おれたちの身近な人たち全員、ファクトリーのトニー・ウィルソンとアラン・エラスマス、ロブとピーター・サヴィルをとても誇りに思っている。彼らは誰一人として、これで終わりだとは言わなかった。彼らはいつも前向きで、まるでこれがおれたちの上昇軌道のちょっとした一時的な停止であるかのように、続けるように励ましてくれた。そのことには感謝している。
バンドとして、おれたちはとても孤立的になった。仲間がおれたちに何か言った記憶はあまりない。トニーとロブには言ったかもしれないが。ボノがその顕著な例だと思う。ファンからは、ショックと悲しみを表す手紙をたくさん受け取った。中には素敵なものもあれば、血で書かれたものもあった。当時、ついに自分の自宅電話を持つことができてとても嬉しくて、(愚かにも、あるいは真のパンクのように)電話帳に自分の名前を載せてしまった。すると、何ヶ月もの間、本当に奇妙な、どもりがちの電話がかかってきた。ついにおれは屈服し、電話番号を変え、名簿から外すしかなかった。
悲しいことに、デビーと彼女の娘ナタリー、そしてイアンの両親との関係もここで終わりを迎えた。おれは恥じ入り、彼らから身を隠すことで対処した。当時のおれの恋人アイリスは彼らと連絡を取り合っていた。おれの関係が再開したのは何年も後、デビーがロブとのビジネス上の問題に介入してほしいとおれに連絡してきた時だった。彼女はロブとのやり取りに非常に苦労しており、おれは喜んで協力した。それ以来、おれたちは良好な関係を保っている。
つまり、これは、長く引き延ばされた悲しみの過程の物語だ。彼の検死審問の数日後、おれとバーニー、スティーブ、マネージャーのロブ・グレットン、そして忠実な助っ人であるテリー・メイソンとトゥイニーは、サルフォードのピンキーズ・ディスコの隣にあるリハーサルルームに集まった。 3人がお茶を入れてマリファナを吸い、自分たちを憐れんでいる間、おれたち3人は唯一できることをやった。ただ演奏し、ジャムセッションをし、また曲作りを始めた。
なぜダメだったのか?だって、おれたちはまだプロのミュージシャンだったし、もう6ヶ月もそうだったんだから。プロのミュージシャンって、ツアーやレコード制作、プロデューサーとのやり取りをしていない時は、リハーサルルームでひらめきが訪れるのを待っているものだから。だから、ピンキーズが床に穴が開いた凍えるような寒さの穴場だったとしても、おれたちはそこと仕事に慰めを見出していた。それに、トニー・ウィルソンとロブが背中を押してくれた。特にロブは狂人みたいで、文字通り俺たちに演奏しろと命令してきた。彼にとってはまるでマントラみたいだった。「書け、さあ、書け!お前らが書く最高の曲は次の曲だ。さあ、さあ、カチカチと音を立てろ!」
彼は、俺たちがミュージシャンらしく振る舞い続ければ、しばらくすればただのミュージシャンに戻ってしまうと確信していた。今にして思えば、もちろん彼の言う通りだったし、結局そうなった。でも当時は「おい、何を言ってるんだ?もうダメだ。もう終わりだ。イアンは自殺したんだ」と思っていた。
でもロブが「指を動かして曲を書け」と言ったら、俺たちは実際にそうする、あるいはそうしようとした。「Ceremony」と「Little Boy」は既にテープに録音されていたので、歌詞を考えるために何度も何度も聴き直さなければならなかった。イアンの声を聴いていると、まるで彼がピンキーズに戻ってきたかのようだった。奇妙だ。
そして、彼がそうではなかったことに気づくことになる。
問題は、ジョイ・ディヴィジョンでは彼がおれたちの耳であり、指揮者であり、避雷針でもあったことだ。ほとんどの曲は、演奏中に彼が良い部分を拾い上げることで出来上がっていた。彼は時々おれたちのジャムセッションを止めて、「あれは最高だった。もう一度演奏して」と言っていた。
もうそうではなかった。おれたちは彼を探したが、彼はそこにいなかった。まるでバカみたいに何時間も演奏していたのに、誰も一言も発しなかった。ロブもテリーもトゥイニーも。おれもバーニーもスティーヴも。おれたちは彼を失い、自信も失っていた。
おれたちは新しい4トラック・テープレコーダーにジャムセッションを録音し始めた。後で聴いて、イアンがやったことを再現しようと。それは、ある意味うまくいった。問題は、誰もボーカルをやりたがらなかったこと。それで結局、壁に「アイデアNo.1」「アイデアNo.2」「ギター1」といったタイトルのインストルメンタル曲が山ほど出来上がった。でも、そもそも誰も歌いながら演奏するなんて無理だったので、ただ演奏するだけだった。ロブは歌詞とタイトルまで考えてくれた。本当にありがとう。
一方、待望のシングル「Love Will Tear Us Apart」がリリースされたが、おれたちはほとんど気にしていなかった。郵便局へ車で向かう途中、ラジオで聴いたのを覚えている。DJがチャート13位に躍り出たと言っていた。おれはラジオを止めて、車の税金を払いに行った。「Closer」がリリースされた時も、全く宣伝せず、レビューも読まなかった。何のためにやるんだ?もう終わったことだ。彼無しで何とかやっていこうと必死だった。我々は別のシンガーを雇うことを話し合った。ファクトリー・レコードのケヴィン・ヒューイックの曲「ヘイスタック」で3人で演奏したことがあったが、ケヴィンをボーカルとして起用する話は頓挫した。
ボノがトニーに協力を申し出たというのは作り話だ。そもそもボノが欲しかったわけではなく、U2が嫌いだったわけでもない(ロブはよく「アイリッシュのクソ野郎」と言っていた)。ただ、既に名声を得ているボーカリストが来て、自分たちの仕事のやり方を変えたくなかっただけだ。おれたちが欲しかったのはシンガーであって、イアンの代わりは欲しくなかった。
解決策はただ一つ。
おれたちのうちの誰かがシンガーになる。それを実現させるためにロブは、僕たちをマーティン・ハネットと一緒にスタジオに入れたらいいんじゃないかと考えた。ハネットがサイモン・コーウェル役を演じて、3人でポストパンクのXファクターみたいなオーディションをする、みたいな。でも、それはひどいアイデアだった。マーティンはイアンを崇拝していた。ファクトリー・ファミリーの中で一番ショックを受けていたのは彼で、スタジオに入ると、いつものようにマリファナとコカインで鬱を治していた。それに、彼が僕やスティーブ、バーニーをかなり低く評価していたのも、事態を悪化させた。彼はジョイ・ディヴィジョンを「天才1人とマンチェスター・ユナイテッドのサポーター3人」って呼んでいたんだ。厳密に言うと、スティーブはマクルズフィールド・タウンFCのサポーターだったから、これは真実ではないけれど、彼が何を言おうとしているのかはよく分かる。マーティンはイアンの天才の代役として僕たちがいかにひどい代物だったかを指摘することに、彼はそれほど抵抗はなかった。
「ああ、お前たちは本当にひどいな」と彼は、プレイバックを聞きながら頭を抱えながら言った。まあ、僕らはちょっと…衝撃的だった。だって、歌に関しては誰も勘違いしてなかったんだから。でも、そんなに下手じゃなかった。マーティンが嘆いていたのは、僕らの存在よりも、イアンの不在の方だったって、かなり早い段階で明らかになったんだ。
スティーヴは控えめに言っても歌うことに興味がなかったけど、それでもオーディションを受けた。おれとバーニーもね。二人とも密かにフロントマンになりたかったんだと思う。でも、マーティンに言わせれば、僕らはみんな下手くそだったらしい。ストロベリー・スタジオで「Ceremony」をレコーディングした時、マーティンは僕たちの3つのボーカルを同時にミックスしてトラックに使うことに決めていた。「これぞクズどものベストだ!」と彼は叫んだ。それから笑い出した。ところが、バーナードは「あと1回だけ」と言い張り、そのせいでおれとスティーブのトラックを全部消し去ってしまった。だからマーティンがついに諦めて手を上げて「出て行け」と言った時には、テープに残っていたのはバーニーのボーカルだけだった。こうして彼はおれたちのシンガーになったわけだ。
でも、おれだって結果的には良かったと認めざるを得ない。バーニーはみるみる上達し、優れたボーカリストになった。それに、彼が歌いながら演奏できなかったおかげで、おれたちはよりユニークなサウンドを生み出すことができた。彼が歌うのをやめてギターをかき鳴らし始めると、曲はいつも盛り上がっていく。まるで、彼のボーカルの不出来、フラストレーション、そして悲しみを、古びて哀れなギブソンのコピーギターにぶつけているかのように。
「1回のギグは10回のリハーサルの価値がある」とロブはよく言っていた。彼はおれたちを再びギグをやらせたくてたまらなかったので、ベルギーのバンド、ザ・ネームズがツアーをキャンセルした時、マンチェスターのビーチ・クラブで行われたファクトリー・レコード・ナイトで、彼は「ザ・ノー・ネームズ」としてやるべきだと言った。彼はそれがとても面白いと思ったのだ。夜になっても、観客も他のバンドもプロモーターも知らなかった。誰も元ジョイ・ディヴィジョンのメンバーだとは知らなかった。おれたちがセッティングして演奏している時の人々の驚きの表情は計り知れず、ア・サーテン・レイシオも驚いていた。覚えているのは、恐怖に震えながらセッティングして演奏し、おれが頼りになるテープレコーダーを操作してキーボードのパートをバックトラックに録り、スティーヴが3曲、バーナードとおれが2曲ずつ計7曲を歌ったことだけ…
そして、気を抜かないこと。これが一番重要だった。気を抜かないこと。
それで終わり。3人組として、初めてのライブを終えた。ロブはもっと何かが必要だと考え、アメリカにいるルース・ポルスキーに連絡を取ろうと提案した。「ジョイ・ディヴィジョンとして行くって約束したんだ。あのクソ野郎は自殺したけど、俺たちは行くって約束したんだ。だから、絶対に行く」
彼の考えは、マンチェスターで、いやイギリスのどこかで演奏するプレッシャーを少しでも軽減して、俺たちを少しリラックスさせることだった。機材に関してロブは、俺たちが元々少し不安定だったから、自分の機材を持っていないとさらに不安定になるだけだと考え、機材を全部アメリカまで飛行機で運ぶことにした。俺たちが一番得意とする機材で安心感を得て、まさに思い通りの音を出すために。そういうプランだった。リードシンガーと自信を失ったが、少なくとも素晴らしい機材はあった。だったら、それを持っていくのがいいだろう?
何が問題になるっていうんだ?
「ここはニューヨーク」
ピンキーズの練習室の近くに、ドーバー・キャッスルという小さな、本当に小さなパブがありった。ある夕食時に、ロブはその週のサンデー・タイムズから得たバンド名のアイデアをたくさん見せてくれた。
「さっさと終わらせよう」と彼は言った。
おれたちがまだ20代前半で、おれが2000ADやスヴェン・ハッセルの本を読んでいたことを考えると、彼がサンデー・タイムズを読んでいるのはかなり過激に見えた。とても大人びていた。
「そうだな」と彼は言った。「クメール・ルージュ?」
いや、テロリストっぽ過ぎる。
「The Shining Path?」
それもテロリストっぽ過ぎる。それにLPのタイトルみたいだ。おれとバーニーはそれが嫌だった。
「それって全部テロリストの名前なのか?」
「いや、そうでもない」とロブは続けた。「マウマウ、ジ・イモータルズ、フィフス・コラム、シアター・オブ・クルエルティ、イヤー・ゼロ、アラブ・レギオン…ああ、もしかしたらそうかもしれないな?」
たくさんあったけど、どれも気に入らなかった。
「さぁ、どれか1つ選ぶんだ!」とロブは言った。「今すぐだ!」いつものように、彼は要求というより脅迫のように言った。
ロブとスティーブは「ジンバブエのウィッチ・ドクターズ」に決めた。おれとバーナードは「ニュー・オーダー」を希望した。当初、ニュー・オーダーは「ザ・ニュー・オーダー・オブ・カンプチアン・レベルズ」だったが、余った「ザ」をマット・ジョンソンに譲り、カンプチアン・レベルズの部分は切り捨てた。しばらくの間、緊迫した対立があった。ロブとスティーブはニュー・オーダーなんてクソみたいな名前だと言い、おれとバーニーは「ザ・ウィッチ・ドクターズ・オブ・ジンバブエ」になったらバンドを脱退すると脅した。
我々は望みを叶え、すべて解決し、ロブは新しいバンド名をルースに伝えた。そして、正直に言って、我々はヒトラー氏とその忌々しい『我が闘争』について考えたことは一度も無かった。本当に!おれたちがいかに愚かだったかが分かるだろう。ただ、それがおれたちの新しいスタートを完璧に表していると思っただけだった。
それから、シェフィールドにあるウェスタン・ワークスというキャバレー・ヴォルテールのスタジオに行った。そこで彼らとレコーディングと作曲を行い、ロブがボーカルを務めた曲もいくつか作った。リバプールとブラックプールでもギグを行い、作曲とリハーサルを続けた。ニューヨークへ出発する頃には、「Ceremony」と「In a Lonely Place」に加えて、「Dreams Never End」、「Procession」、「Mesh」、「Homage」が完成していた。また「Truth」は、後におれたちの重要な武器となるドラムマシンを初めて使用した曲だった。
ギークアラート BOSS Dr. Rhythm DR-55
1980年にローランドから発売されたドクターリズムは、キック、スネア、ハイハットの3つのドラムサウンドに加え、アクセントサウンドと限られた数のプログラム可能なパターンを提供していました。アクティブトーン生成回路を使用したそのサウンドは、アナログで、鮮明でパンチの効いたものでした。バランスノブでキック、スネア、ハイハットのレベルを調整し、別のアクセントノブでアクセントステップの強調の度合いをコントロールしました。また、ボタンを交互に押すことで音符と休符を入力できるシンプルなステッププログラマーと、「タップライト」プログラミングモードを備えていましたが、タイムキーピング用のメトロノームクリックはありませんでした。メイン出力はモノラルでした。また、パターン内のアクセントステップごとにパルスを発する独立したトリガー機能もありました。パターンはバンクに分かれており、AとBはプログラム可能、CとDはプリセットです。各パターンは12ステップまたは16ステップ、3/4拍子または4/4拍子に切り替えることができ、最大128小節の2曲をプログラムできました。
スティーブが購入し、プログラムしたボス・ドクター・リズムは、新時代の先駆けとなった。彼とバーニーはジョイ・ディヴィジョンでエレクトロニカに傾倒しており、バーニーはトランセンデント2000シンセサイザー(Electronics Today誌に自作キットの形で配布)をゼロから製作し、スティーブはSynare Iドラムシンセサイザーを使用していた。彼らのエレクトロニックへの熱意はますます高まっていった。このドラムマシンは「Procession」のライブでもバックトラックとして使用され、スティーブは歌とキーボード演奏を行うことができた。
それは最悪な始まりだった。ニューヨークに着陸すると、ブリティッシュ・エアウェイズがおれたちの荷物を紛失していた。国旗を掲げて荷物を紛失するなんて、どういうことだろう?この旅にはおれ、スティーブ、バーニー、ロブ、テリー、トゥイニー、デイブ・ピルスの7人が参加していたが、4つの荷物が紛失した。犬の糞の桶に落ちてもバラの香りを漂わせるバーニーは動じることなく、いつものように同情的な態度でそこに立ち、「よし、荷物は届いた。じゃあ降りようか」と言った。おれを含め、荷物を紛失したおれたちは、書類が全部記入されるのを待たなければならなかった。
ニューヨークは素晴らしく、期待通りだったが地獄のように暑かった。マンチェスターからブーツと厚手のコートを着て到着し、ブリティッシュ・エアウェイズが着替えの入った荷物を紛失していたから大惨事だった。そのバッグは5日間も見つからなかった。その頃にはおれがどれほど臭くなっていたか、あなたは知りたくないだろう。それでも、我々はニューヨークにいた。ついに到着したのだ。マンハッタンを巡っていると、CBGBやマックス・カンザスシティなどイアンがきっと気に入ったであろう場所を目にするたび寂しく感じた。それでもニューヨークにいるのは素晴らしかった。特にホテルに着いて、そこが西44丁目にある悪名高いロックンロール・クラブ、イロコイだった時は特にそうだった。西23丁目のチェルシーに次ぐ人気店だった。
なぜかって?すごくいかがわしい場所だったから。
その時、ザ・クラッシュもそこに滞在していて、彼らはまさに絶頂期だった。ロンドン・コーリングとサンディニスタの間だった。ポール・シムノンはおれのベーシストとしてのヒーローの1人だったにもかかわらず、両者の間には瞬く間に憎悪が生まれた。彼らがコックニーでおれたちがマンチェスター出身だったからなのか、それとも彼らが自分たちを差別していたからなのか。とても真剣に、そしてめちゃくちゃだった、よく分からないけど、最初から激しいライバル関係があった。毎日午後5時にホテルはバーで無料のオードブル(俺たちは「ホース・ドゥーブル」と呼んでいた)を提供してくれた。そして毎日午後5時になると、ニュー・オーダーとクラッシュがそれを待ち構えていて、それを奪い合い、当時はエキゾチックに思えたチキンウィングとポテトスキンをバーテンダーがまだ置く前に奪い取っていた。俺たちが「くたばれ、コックニー野郎ども」と言うと、やつらは「ああ、くたばれ、マンチェスターのクソ野郎」って言うんだ。ニュー・オーダーが金欠なのは知ってた。俺たちは1日3ドルしか稼げなかった。でもクラッシュがおれたちと同じくらい飢えていたとは驚いた。(ちなみに、ロブの本には、彼が旅費として1日700ドルを支給したと書いているが、おれたちが実際に受け取った金額は1度もなかった。)
「日当」とは、古くからあるロックンロールの魅力的な慣習で、バンドメンバーやクルーのメンバーには給料に加えて、日々の生活費として現金が支給されます。実質的にはボーナスのようなもので、このお金はたいていドラッグに使われ、妻にも税務署にも申告されません。記録には領収書が添付されるはずでしたが、1985年にニュー・オーダーが英国歳入関税庁(HMRC)の調査を受けた際、ロブが領収書を参照したところ、ほとんどにM・マウスやW・チャーチルなどの署名が付いていたため、バンドは会計処理の不備で罰金を科されました(クルーは免責されましたが)。現在では、この慣習はPIID個人所得税申告書に個人所得として記載する必要があります。
ある時、バーニーとおれはホテルのエレベーターでジョー・ストラマーと一緒になった。ストラマーは黒いコートの肩にフケをびっしり乗せ、アメリカ人の女の子にぎゅっとしがみついていた。おれたちが自分の階に降りると、バーニーは振り返って微笑みながら「外は雪かい?」と尋ねた。
ドアが閉まると、ストラマーは「Fack off!」と怒鳴った。
一方、ロブはマネージャーのバーニー・ローズを見るたびに、バーの向こう側に向かって「コックニー野郎」と罵倒した。
その軋轢は理解できる。僕らはそれほど愛想良くはなかった。
とにかく、クラッシュと敵対関係になったことで、機材を積んだU-Haulのバンと、僕らミュージシャンが移動するためのシューティングブレークという車を借りることになった。水色のビュイックの8人乗りで、後部座席はリアガンナー風だった。ジョイ・ディヴィジョンの本を読んだことがあるなら、スティーブの運転がどれだけ下手だったかご存知だろう。バーニーは前の週に免許を取ったばかりで、全く自信がなかった。それでおれが運転することになったんだ。困ったことに、おれは免許証を忘れていたので、バーニーにレンタカーを借りてもらい、レンタカー会社を出たらすぐに席を交換して、残りの旅程はおれが運転するという計画を立てた。バーニーはただレンタカー会社を出て行くだけでよかった。たったそれだけ。9メートルほどのドライブだ。くそっ、ゾッとするほど怖かった。オートマ車で、彼は運転したことがなかったので、おれは彼の隣に座ってこう言った。「落ち着け、落ち着け。道に出たらすぐにおれが運転するから。さあ、ブレーキから足を離せ、アクセルを軽く踏め…」
「あああああああ!」車が交通量の多い通りに向かって激しくカンガルーのように急旋回を始めると、6人のマンチェスター人が恐怖の叫び声を上げた。バーニーはブレーキとアクセルを交互に踏み込んだ。出口に向かう間、彼はハンドルを握りしめ、顔と指の関節は恐怖で真っ白になっていた。
「バーナード、ブレーキを!」とおれは言った。「ブレーキだ、相棒。頼むから、ブレーキを!」
そして彼は間一髪でブレーキをかけた。バーニーが急ブレーキをかけ、車にぶつからずに済んだ時、6人のマンチェスター人は安堵のため息をついた。それからおれたちはマンハッタンをドライブしながら「やあ、みんな、俺たちはバンドやってるんだぜ!」などと窓から叫びながら楽しく走り始めた。その時、バーニーが道路脇のゴミ箱にスキー板を見つけ、それを拾うために車を停めた。「これは最高だ!」と彼は言ったが、実際はそうではなかった。ひどく古くて、塗装が剥がれかけたベニヤ板で、だいぶ黒くなっていた。一方、2台目の車はU-Haulのバンだった。運転していたのはテリー。彼の運転は上手だったが、神経質で、ニューヨークの交通量の多い道路ではなおさらだった。ニュージャージー州マックスウェルズでの初ライブでは、彼とトゥイニー、そしてデイブ・ピルスの3人が空港で機材をピックアップし、ホテルに持ち帰って、翌日のライブに持っていかなければならなかった。
翌日、おれたちは皆興奮して出発し、数時間後には仲間たちもおれたちも後を追った。しかし、マックスウェルズに着いた時、バンもテリーもトゥイニーもデイブも見当たらなかった。しばらくして彼らは車を走らせてきた。顔は真っ青で、悲鳴を上げていた。テリーは途中でバンを2度も事故に遭わせていた。バスとニュージャージーのトンネルの脇にぶつかったのだ。しかもパンクまでして。それでも、誰も死んでいなかったので、おれたちは変圧器を含む機材の荷降ろしを始めた。変圧器はイギリスとアメリカでの電圧差に対応するために必要な機器だった。テリーはこの機材をロブの指示で借りたのだが、2人とも電圧を上げる方法は全く知らなかった。大きな変圧器があれば間違いないだろうという前提で、ロブはテリーにできるだけ大きなものを借りるように言った(これは後にロブの習慣になった)。テリーは実際にピンク・フロイドの変圧器を借りてきた。彼らは当時スタジアムで演奏していたのだ。重さは1トン、いや2トンもあった。250キロワットの変圧器だ。それは巨大だった。どうやってバンに積み込んだのか神のみぞ知るだ。6人で持ち上げたんだろう。マックスウェルズで電源を入れると、マンハッタンの照明が暗くなったのが印象的だった。
3人組になってのギグはまだ4回目だったが素晴らしいギグになった。少し元気を取り戻したような気がした。3人でボーカルを分担することで、もしかしたら成功できるかもしれないと思い始めた。ホテルに戻るとバンドメンバーは皆、最高潮だったが、テリー、トゥイニー、デイブ・ピルスは会場までの悪夢のような旅を、スリル満点のドライブで締めくくっていた。おれたちより何時間も遅れてようやくホテルに到着し、44番街のすぐ外に駐車した彼らは、あまりにも疲れ果てていて、ベッドに潜り込むことしかできなかった。
翌朝、駐車違反切符を切られないようにバンを移動させるようテリーに頼んだ。彼は重い足取りでバンを移動させようとしたが、数分後、ひどく気まずそうに帰ってきた。
「あの・・・」と彼は肉垂れを引っ張りながら言った。「バンがどこかに行ってしまったんだ」
「何だって!?」
「バンが見当たらないんだ!」
「バンが見当たらない?」とおれは尋ねた。「一体全体、どうしてバンが見当たらないんだ?」
素晴らしい。
それでも、バンは交通違反でレッカー移動されたと結論付け、その日の残りをマンハッタン中探し回った。何度目かの警察に「楽器、重たい変圧器、古い木製スキー板が詰まったバンは見ていない」と言われ、ついにバンと機材が全部盗まれたという事実を突きつけられた。
ちくしょう!
それで、ロブとおれは急いで地元警察に向かった。おれは係員のところへ真っ直ぐに進み出て、ヒュー・グラントを真似て「失礼、お兄ちゃん、どうやら荷物が盗まれたみたいなんだよ」と言った。しかし、APB(緊急命令)を出すどころか、彼はニューヨーク訛りのひどい口調で「あっちに座れ!」と言い、ベンチを指差した。おれは愕然とした。「おいおい、君は何も分かっていないようだな。おれはイギリス人だぞ、イギリス大使館に電話するぞ!」おれが言い終わる前に、彼は同じことを繰り返した。今度はずっと大きな声で「とっととあっちに座るんだ!」
おれとロブは言われた通りにした。その後、彼はおれたちに紙切れを渡し、記入するように言った。できる限りのことを記入して警官に返したが、警官は顔を上げもしなかった。そして、おれたちが立ち去ろうとした時、警官が「おい!」と言った。おれたちは笑顔で振り返り、結局は彼が助けてくれるだろうという期待に胸を膨らませた。やったー!ロブとおれは互いに顔を見合わせ、それから警官の方を見た。「ニューヨークへようこそ!」彼はニヤリと笑うと、また下を向いた。
外に出て、正義感に燃えるおれたちは大使館に電話し、大使と話したいと頼んだ。きっと助けてくれるだろう? だっておれたちは納税者なんだから。受付に事情を説明すると、彼女はただ警察に行くように言っただけで、電話を切られた。
最悪だ!
次に保険会社に電話することを思いつき、ロブがホテルの電話口で電話を取った。冗談ではなく、こんなやり取りだった。
「もしもし、そうだ、ロブ・グレットンだ。ニュー・オーダーだ。保険に加入している。番号は○○だ。そうだ、そうだ…」
みな顔を見合わせた。相手は詳細を調べに行ったに違いない。ロブは親指を立てた。「心配するな、みんな。すべて解決できる」。男が電話に戻ってきた。
「ああ」とロブが言った。「保険に入っているんだな。よかった。機材が全部盗まれたんだ。まあ、補償されるんだな?」少し間を置く。「ああ、よかった」と再び親指を立て、少し間を置く。「バンには盗難警報が付いていたか?いいえ、付いてない。もしもし…もしもし?電話を切られた」
信じられない思いで口がぽかんと開いた。1万ポンド相当の機材が盗まれ、もう2度と戻ってこないかもしれない。
だが今さら悔やんでも仕方ないので、とにかくやってみた。当時ニューヨークでA Certain Ratioのセカンドアルバムをレコーディングしていたトニー・ウィルソンは、「なんて詩的なんだ、ダーリン。完璧な結末だ!」と言ってくれた。
おれたちは声も出ず、怒りが込み上げてきた。
次のステップはルースに伝えることだった。おれたちはダンステリアにある彼女のオフィスへ移動し、機材を借りるために電話をかけた。その間、ロブはおれとバーニーに新しい機材の購入をクレジットカードで支払わせることで埋め合わせした。48番街にある巨大なアラジンの洞窟のような楽器店、マニーズへ行った。そこでバーニーは、素敵なヤマハのギターコンボと、ヘッドストックの裏に「セカンド」と刻印されたギブソン335を手に入れた(誰もその理由が分からなかったが、550ドルなら安かったので黙っていた)。おれはヤマハBB800を431ドルで手に入れたが、シャーゴールドの6弦ベースの代替品を見つけるのに苦労した。アメリカには同等のものがなかったんだ。そして、どんなに探しても、レンタルできるのはフェンダー版しか見つからず、マンハッタンのダウンタウンまで取りに行くしかなかった。状況は一向に好転せず、血と汗と涙の日々だった。バーニーとスティーブは部屋で、全ての曲をもう一度覚え直し、書き直さなければならなかったのだ。
ギークアラート フェンダー バリトンベースギター
フェンダー社製の6弦エレクトリックベースギター。1961年に発売され、それ以前のフェンダープレシジョンベースとは、6弦の軽いゲージ、短いスケール、機械式ビブラートアームを備えている点で異なっていました。当時のほとんどのフェンダーと同様に、指板半径は74インチでした。オリジナルのBass VIには、ストラトキャスターのシングルスタイルコイルピックアップが3つ搭載されていました。コントロールは、一般的な3ポジションスイッチではなく、3つのオン/オフスライダースイッチパネルで操作します。フェンダーバリトンベースギターは通常のギターの4度低いBEADFBにチューニングされていますが、シャーゴールドの6弦ベースギターはコンサートピッチのEADGBEにチューニングされています。
レンタル担当者はおれに警告していた。「これはバリトンですからね」と彼は何度も念を押した。
「気にしないよ。おれは歌っているわけじゃないんだ、ただ弾いているだけだ!」
ホテルに戻ってEADGBEにチューニングしたが、弦を締めすぎたせいで、1本ずつ切れてしまい、ネックがバナナのように曲がってしまった。片目を失わなかったのは幸運だった。全く役に立たなかった。おかげで、おれはパニックに陥り、スティーブが隣でスネア代わりの電話帳を叩きながら、6弦ベースの曲を全部4弦ベースで覚え直さなければならなかった。だが窮地に立たされたからこそ、特別な仲間意識が生まれるのは確かだ。
とにかく、残りのギグはなんとかこなすことができた。機材のほとんどを盗まれたことで1つ言えることがあるとすれば、それは、それを管理する責任から解放されたことだろう。おかげで、そうでなければできなかったほど思いっきりパーティーをすることができた。
そして、ニューヨークに戻ると、警察からバンを見つけたという知らせが届いた。
「ブルックリン・エクスプレスウェイの真ん中だった」と言われた。
犯人たちは、ドアが開いたままエンジンがかかったまま、中央分離帯にバンを捨てていた。
「まだ何か入ってる?」と尋ねる勇気がほとんどなかった。
警官は自信満々に頷いた。「ああ、何か入ってたよ。保管所に行けば取り戻せる」
おれたちは警察署の中で文字通り踊り狂い、喜びに浸りながら歌っていた。「中身は奥にある、中身は奥にある」と。楽観的な気持ちで保管所に向かうと、市職員がずっと行方不明だったバンまで案内し、新しい南京錠を外して、後部ドアを華麗に開けてくれた。
「ほら、ほら」と彼は言った。「荷物はここにある。」
後部には巨大な変圧器と、あのクソスキー板があった。
「素晴らしい!」バーニーはそう言った。彼は大喜びでバンに乗り込み、嬉しそうにスキー板を回収した。残りのおれたちは信じられないといった様子で口を開けて顔を見合わせていた。
変圧器は銅がたっぷり含まれていたので、スクラップとして売れば大金になっただろうが、バンから持ち上げることができなかったのだ。
それでも、初めてのツアーとしては最高だった。なんという冒険だったことか。マンハッタンの素晴らしいクラブを片っ端から回ったことは言ったっけ?「このクラブ、なんてシンプルなんだ。黒く塗られて、片隅にPAがあるだけだ」なんてロブは言っていた。素晴らしい!(そうしてハシエンダのアイデアが生まれた。)
最後の夜、おれたちの仲間の1人が売春婦にフェラチオをしてもらいたい一心で、ホテル近くの路地裏で15ドルという格安料金でいやらしい行為をした。ロブはこれに大興奮し、売春婦を連れ戻させ、おれたち全員にフェラチオをさせた。「俺が全員の分も払うぞ!」
それはワイルドで目を見張るような時間で、一瞬一瞬が楽しかった。最後に空港に向かうタクシーの中で、41番街の橋を渡っている時、肩越しにマンハッタン全体が巨大なクリスマスツリーのように美しくライトアップされているのが見えた。疲れ果てて目を開けていられないほどでだったので、それはまるで素晴らしい幻覚のようだった。他のみんなを起こそうとしたが、誰も起きようとしなかった。それからおれも眠り込んでしまい、空港に着いた時にタクシーの運転手に揺り起こされた。よろめきながら飛行機に乗り込み、すぐにまた寝てしまった。
帰りの飛行機はみんなずっと寝ていて、マンチェスターに着陸した時にだけ目が覚めた。それほど疲れていたんだ。家に帰ってアイリスが「それで、ニューヨークはどうだった?」と聞いてきたのを覚えている。僕は「穏やかだったよ。ほら…」と言って、ベッドに倒れ込んだのを覚えている。
あのツアーは浮き沈みが激しかったから、イアンが死んだ時の悲しみを吹き飛ばしてくれた。おれたちが真の意味で本物のバンドだったのは、あれが初めてで、今振り返ってみると、数少ない時の1つだった。ディーバみたいな癇癪もなかったし、ボーカルを分担していたから「序列」みたいなくだらないこともなかった。ツアーの浮き沈みが僕らを1つにしてくれた。より結束が固まった。あのツアーがなかったら、おれたちは続けられなかったかもしれない。
ところで、あのスキー板は戻ってこなかった。おれとトゥイニーがそれをゴミ箱に捨てたから。それをバーニーは決して許さなかった。
「おれたちはロックバンドなんだ。ギターとドラムだけでいこうぜ」
マーティン・ハネットはニュー・オーダーと同時にアメリカに滞在しており、トニー・ウィルソンに連れられてニュージャージー州のイースタン・アーティスト・レコーディング・スタジオ(EARS)でア・サーテン・レイシオのアルバム『To Each』をレコーディングした。ニュー・オーダーはまた、1981年3月に最初にリリースされ、後にジリアン・ギルバートと再レコーディングされ、同年9月に再リリースされたファースト・シングル『Ceremony』の制作もそこで完了させた。その間に、ニューヨークで盗まれた機材を補充する仕事もあった…
NYツアー後、リハーサルルームに戻ると、文字通り何も無かった。小さなアンプ2台、バーニーのギター、おれのベース、そしてスネアドラム、それだけだった。まるでおれたちを嫌っている誰かがそこにいるかのようだった…。まるでイアンがおれたちの機材に囲まれて天国で笑い飛ばしているかのようだった。
でも、可笑しなことに、ここからが面白くなってくる。ア・サーテン・レイシオから機材を借りることはできたものの、まだ他にも自分たちの機材が必要だったので、トニーに頭を下げてお金を出してもらいに行った。その結果、バーニーとスティーブは新しい機材に関しては少し野心的になった。ミスター・ロックンロールは「何をしているんだ?おれたちはロックバンドなんだから、ギターとドラムだけで行こう」と囁いていたが、スティーブは新しいパールのシンセサイザーキットを、バーニーはより大きなシンセサイザーとシーケンサーに目を付けた。ジョイ・ディヴィジョンのサウンドからニュー・オーダーのサウンドへの真の移行が始まろうとしていたんだ。
そして、おれたちが最終的に「シンセサイザーを増やす」ことになったもう1つの理由もあるが、それについては後で説明しよう。
他にここでの大きな出来事の1つは、バーニーがボーカルになったことだった。記憶を遡っても、どうやってそうなったのか思い出せない。当初、ボーカルは3人分担だったのに、すぐに彼だけになったような気がする。NYツアーで、ロブはおれたち全員が新しいことをすることでバンドは変化しているものの、決して良くなっているわけではないことに気づいたんだと思う。サウンドが変わりすぎて、自分たちの居心地のいい領域から外れてしまっていた。ロブにしてみれば、それは難しいことではなかった。リズムセクションはそのままに、バーニーに歌わせて、ギターとキーボードは別のメンバーを入れるだけ。シンプルなことだ。作曲の力学は変わらず、まず音楽、次にボーカル。
ロブがジリアン・ギルバートを推薦したのは、第一に彼女が以前一緒に演奏したことがあり(バーニーがリバプールのエリックで手を怪我した時)、それにザ・インデクエイツというバンドに在籍してたから。第二に、彼女はスティーヴのガールフレンドだったので、既に仲間内では有名だったから。第三に、経験が浅く、おれたちのスタイルやサウンドを変えることはないだろうから。そして内心では、彼が彼女に好意を抱いていると思っていた。
バーニーとおれに関しては、特に反対した覚えはない。ジリアンは物静かで、あまり口出しはしないから、無視するのは簡単だった。彼女がバンドに入ってきて、演奏の指示をしたり、音楽スタイルを変えようとしたりしないのは分かっていた。それは重要な点だった。ロブと、椅子もないオフィスの床に座って、彼女を試してみて、出版のことは後で考えよう、と話したことを覚えている。私はうなずきながら、心の中で「出版って何だ?」と思った。(そして、その無知さのせいで何百万ドルも損した。)
作曲された楽曲の報酬は通常2つに分かれている。作家への報酬は1つ、つまり「アーティストへの報酬」だ。出版料(通常はラジオや映画、広告/映画のサウンドトラックでの使用で実現され、現在でも非常に儲かる)と、それを録音した演奏者のための演奏料(通常はレコード販売、ダウンロード、ストリーミングなどで実現されるが、インターネットの普及により許可や購入なしに音楽を共有することが非常に容易になったため、今日ではあまり儲からない)である。
曲が作られると、誰が何を書いたかに応じて、作詞家と演奏者の間で分配する割合が合意されなければならない。ニュー・オーダーのような民主主義社会では、すべてが4分の1ずつに分けられ、それぞれ25%で、演奏料も同じだった。これは『Republic』まで続いたが、バーニーはもっと欲しいと思ったが、正直に言うと、彼はそれに値すると思った。彼は2つの仕事を掛け持ちしていたのだ。
「ストーカー被害」
初期の頃は、プロモーターにどれだけニュー・オーダーだと主張しても、彼らはおれたちをジョイ・ディヴィジョン、元ジョイ・ディヴィジョン、あるいは「かつてジョイ・ディヴィジョンだった」と宣伝した。振り返ってみると、観客には同情せざるを得なかった。ジョイ・ディヴィジョンを応援していたのに、ニュー・オーダーは新曲をテストするためのモルモットとして自分たちを使っていると知ったかわいそうな人たちだ。
その後は、スパイナル・タップの「ジャズ・オデッセイ」の日々が続き、観客は困惑した様子で顔を見合わせ、「これは何だ?」と考えたり、ジョイ・ディヴィジョンの曲名を叫んだり、おれたちにグラスを投げつけて不快感を示したりした。
だが彼らを責めることはできなかった。まだレコーディングしていなかったので、彼らは曲を知らなかった。それに、当時のおれたちはライブでは少し厄介者だった。隠れるための看板がいないと、無防備な気持ちになったんだ。問題は、ジョイ・ディヴィジョンには完璧なバランスがあり、4人それぞれが素晴らしい仕事をしていたのに対し、ニュー・オーダーには弱点があったということだ。ジリアンは演奏があまり上手くなかったし、バーニーはまだフロントマンとしての役割にうまく適応できていなかった。緊張のせいか、それとも生粋のプリマドンナ気質が開花し始めたばかりなのかは分からないが、彼はイライラすると物に当たって壊したり、たいていはペルノを飲み、薬漬けの日々を送っていた。ジョイ・ディヴィジョンにおける彼のペルソナはすっかり変わってしまった。クールで寡黙でよそよそしい。ショックだった。だから、おれたちは少し不安定な気分になり、ライブは良いものもあったが、ほとんどが酷いものだった。当たり外れがあるというおれたちの評判は当然のものになりつつあった。
会場では喧嘩や小さな暴動が何度も起った。特に、20分から23分という非常に短いセットしか演奏しないことが明らかになった時はなおさらだった。彼らは曲を気に入らなかったのに、もっと演奏して欲しがったのだ。皮肉でしょう?
最初は悪夢だった。しかし、いつものように頑張り続けた。おれたちについて言えることの1つは、キャリアを通して、おれたちは非常に頑固で、意固地だったということ。おれたちは心から音楽を信じていた。音楽は常に勝利すると信じていた。その他のことは何も問題じゃなかった。当初はジョイ・ディヴィジョンと同じように活動するつもりだった。シングルはアルバムに収録せず、ジャケットにはメンバー写真は掲載せず、グッズも出さなかった。メディアに対しては、曖昧で予測不可能で、扱いにくい存在になるだろう… おれたちはまだ若く理想主義的だったので、自分たちの信念を貫き通すつもりだった。新しいグループとして自分たちを証明したかったのだ。唯一の問題は、ニュー・オーダーの曲をまだレコーディングしていなかったことだった。
しかし驚くべきことに、ロブは私たちに報酬を与えてくれることに決めた。彼はおれに電話をかけてきて、「お前に必要なのは新しい車だ」と言ったのだ。
「何だって?」とおれは言った。
新しい車だ、バカ野郎。新しい車を買ってやるぞ!
おれたちの予算はそれぞれ5,000ポンドだったが、私とバーニーはすぐにそれを使い果たし、2人とも5,012ポンドを使った。信じられないことだった。世界はおれたちの思いのままだった。おれたちはすぐに集まり、どの車を買うかを議論した。すごく興奮し、家の金の問題を忘れてしまった。おれとバーニーは、いつものように実用的なスポーツカーの名前を次々と挙げた。最後におれたちはスティーブに尋ねた。「スティーブはどんな車を買うんだ?」
「ボルボだよ」と彼は言った。「退屈だけど頼りになる、おれみたいな車」
おれは黒のアルファロメオ・スプリント・ヴェローチェを選んだ。美しい車だった。唯一の問題は保険だった。どういうわけか、ミュージシャンは保険に関してはハンセン病患者のように扱われ、今でもそうだ。それは昔から変わっていない。いつもおれたちは300%の荷物を積んでいる。サルフォード・バン・ハイヤーにバンを借りに行くと、机の上に大きな文字で「行商人お断り。ジプシーお断り。ミュージシャンお断り」と書いてあるのがいつも面白くて仕方なかった。高リスクドライバーと若いドライバーを専門とするクローバーリーフ保険からの最初の見積もりは、5,000ポンドの包括保険で、車の購入価格より12ポンドも安かった。ディーンズゲートのバウアー・ミレットで車を受け取ったときのことを覚えている。おれは我を忘れていた。セールスマンがおれを道路に連れて行った。「こちらが、あなたの車です」と彼は言った。「なんて美しい車なんだ!」
でも、2台あったんだ。同じモデル、内装まで同じ。
おれは困惑した。すると、角を曲がって来たのは、なんとバーニーだった。
「こんにちは」と彼は微笑みながら言った。「お前と同じ車を買ったんだ」。本当にそうだった。おれのナンバーはNBU 140Wで、彼はNBU 141Wだった。おれにはストーカーがいたのだ。
年表1 1980年 4月~12月
1980年4月
ジョイ・ディヴィジョン:『Love Will Tear Us Apart』(ファクトリー・レコード FAC 23)
7インチ・トラックリスト:
『Love Will Tear Us Apart』3.25
『These Days』3.25
ランアウト・グルーヴ1:幻滅させないで
ランアウト・グルーヴ2:残されたのはレコード店だけ
「ランアウト・グルーヴ・メッセージは、歌詞の一部だったり、ちょっとしたパズルでリスナーを魅了する方法だった。ロンドンにあるマスタリング工場、ポーキー・プライム・カッツでインスピレーションを得た。カッティング・エンジニアのポーキー(ジョージ・ペッカム)は、自分がマスタリングしたレコードのランアウト・グルーヴにささやかなメッセージを刻み込むことで有名だった」
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオと、オールダムのペニー・サウンド・スタジオで録音。
エンジニア:クリス・ネーグル、ジョン・ニーダム
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル
1980年5月18日
ジョイ・ディヴィジョンがアメリカへ出発する前日、イアン・カーティスが自殺した
1980年5月23日
イアン・カーティスが火葬された。ファクトリー・レコードはパラタイン・ロードで通夜を執り行い、セックス・ピストルズの映画『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』を上映した
「本当に悲惨な出来事だった。葬儀の後に立ち寄ったらみんなマリファナを吸っていたので、おれは帰った」
1980年6月13日(金曜日)
イアンの死因審問はマックルズフィールドで行われた
「デビーの父親が『彼は別の飛行機に乗っているんだ!』と言ったのを覚えている。おれは、彼が乗るべきだった飛行機は分かっていると思った」
1980年6月16日(月曜日)
バンドはピンキーズに集合した
1980年6月19、20日
「The JDs」(ピーター・フック、スティーブン・モリス、バーナード・サムナー)は、プレストウィッチのグレイブヤード・スタジオで、スチュワート・ピカリングがエンジニアリングを担当し、ケヴィン・ヒューイックとレコーディングを行った。録音された2曲のうち、「Haystack」はその年の後半にコンピレーション・アルバム『A Factory Quartet』でリリースされ(ライブバージョン)、「A Piece of Fate」は1993年にヒューイックによって「No Miracle」にリワークされた。
「素晴らしいセッションだった。バーニーを含め、皆とても協力的で熱心だった。ケヴィンはとても興奮していた。素敵な少年だった。スチュワート・ピカリングと彼の素敵な家族は現在、チェシャーで「ヤード」というデリを経営している。そこでおれは安く肉を仕入れている。最高だ。」
1980年6月20日
ジョイ・ディヴィジョン:「コマキノ」
無料プレゼント
(FAC 28)
7インチ・フレキシディスク トラックリスト:
『Komakino』 3.40
『インキュベーション』 2.50
『As You Said』 1.55
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
初回プレス:25,000枚、無地の白いスリーブ入り(2回目のプレス25,000枚、1980年11月18日)
「素晴らしい曲ばかりで、未発表のまま残されるのは非常に残念だった。『As You Said』は主にマーティンの作品で、『Closer』の制作中にARPシーケンサーで作ったループとドラムを編集して1曲に仕上げた。タイミングのズレははっきりと聞こえるが、今日でも非常に現代的なサウンドだ。この時期のおれたちは利他的だった。レコード店は、LPを買ったファン全員にフレキシディスクを渡すように指示されてた。ちゃんとそうする店もあれば、そうしない店もあった。別売りする店もあれば、いい子なら誰にでも無料で渡す店もあった」
1980年6月27日
ジョイ・ディヴィジョン:「Love Will Tear Us Apart」 12インチ (FAC 23.12)
12インチ限定特典:
「Love Will Tear Us Apart」(ペニー・バージョン)3.14
ランアウト・グルーヴ1:スペクタクルは儀式
ランアウト・グルーヴ2:ピュア・スピリット
1980年6月28日にイギリスのチャートにランクインし、16週間チャートに留まり、最高位は13位。
マンチェスターのストックポートにあるストロベリー・スタジオと、オールダムのペニー・サウンド・スタジオで録音。
エンジニア:クリス・ネーグル、ジョン・ニーダム
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル
マーティンは『Love Will Tear Us Apart』のミックスに決して満足せず、それがペニー・バージョンを生み出した。彼はできる限り何度もミックスをやり直した。トニー・ウィルソンがイギリス全土のスタジオオーナーに対し、この曲のミックスは今後、どこであれ、一切費用を支払わないと告げたことでミックス作業は終わった。
1980年7月18日
ジョイ・ディヴィジョン:Closer(FACT 25)
ランアウト・グルーヴ1:オールド・ブルー?
ランアウト・グルーヴ2:該当なし
ロンドン、ブリタニア・ロウ・スタジオで録音。
エンジニア:ジョン・カフェイ、アシスタント:マイク・ジョンソン
プロデュース:マーティン・ハネット
デザイン:ピーター・サヴィル、マーティン・アトキンス、クリス・メイサン
写真:バーナード・ピエール・ウルフ
「おれのお気に入りのアルバムの1つ。2011年におれのバンド、ザ・ライトで演奏した時は本当に興奮した。」
1980年7月26日にイギリスのチャートにランクインし、8週間チャートに留まり、最高位は6位。
1980年7月30日
ニュー・オーダーがマンチェスターのビーチ・クラブで初ライブ
1990年頃、ダヴズがおれたちのリハーサルルームであるチータム・ヒルを買収した。その後、ジミ・グッドウィンから連絡があった。「君のテープが入った袋を見つけた。欲しいかい?」すると、なんとその袋の中には、ビーチ・クラブでのギグで使ったバッキングテープが入っていた。
1980年9月2日
ジョイ・ディヴィジョン:『シーズ・ロスト・コントロール』(FACUS2/UK)
12インチ・トラックリスト:
『シーズ・ロスト・コントロール』
『アトモスフィア』
ランアウト・グルーヴ1:若者たちよ、ここにいる
ランアウト・グルーヴ2:しかし、彼らはどこへ行ってしまったのか
マンチェスター、ストックポートのストロベリー・スタジオで録音
エンジニア:クリス・ネーグル
プロデュース:マーティン・ハネット
スリーブ写真:チャールズ・ミーチャム
タイポグラフィ:ピーター・サヴィル
1980年9月4日
ニュー・オーダー、リバプールのブレイディーズで演奏。スカフィッシュがサポート。「Ceremony」はスティーブン・モリスがヴォーカル
1980年9月5日
ニュー・オーダー、ブラックプールのスキャンプスで演奏
1980年9月7日
ニュー・オーダーはシェフィールドのウェスタン・ワークス・スタジオでキャバレー・ヴォルテールと共にデモを録音した。「Dreams Never End」、「Homage」、「Ceremony」(ヴォーカルにスティーブン・モリスをフィーチャー)、「Truth」、「Are You Ready for This」(キャバレー・ヴォルテールとの共作、バックボーカルにロブ・グレットンをフィーチャー)
1980年9月
ニュー・オーダー、北米ミニツアーに出発
1980年9月20日
ニュー・オーダー、ニュージャージー州ホーボーケンのマックスウェルズで演奏
1980年9月21日
ニューヨーク州西44丁目のイロコイ・ホテルの外からニュー・オーダーのバンが盗まれる
1980年9月22日~23日
ニュー・オーダーは、ニュージャージー州イーストオレンジのイースタン・アーティスト・レコーディング・スタジオに入り、マーティン・ハネットがプロデュースした「セレモニー」と「イン・ア・ロンリー・プレイス」を完成させた
1980年9月26日
ニュー・オーダー、ニューヨークのハラーでア・サーテン・レイシオのサポートを受けて演奏
1980年9月27日
ニュー・オーダー、ニューヨークのティア3でア・サーテン・レイシオのサポートを受けて演奏
1980年9月30日
ニュー・オーダー、ボストンのアンダーグラウンドで演奏
1980年10月24日
ファクトリーは正式に有限会社となり、ファクトリー・コミュニケーションズ・リミテッド(FCL)となった。取締役のウィルソン、エラスムス、サヴィル、ハネット、グレットンはそれぞれ20%の株式を均等に保有した。
「株は本来私たちのものだったのだが、ロブが自身の名前で保有していた。『もしおれたちが報酬を受け取らなくても、ファクトリーから何かを受け取っていることになる』と言って。しかしすぐに争いの種になりました。法律用語では「利益相反」と呼ばれます。ご注意ください」
1980年10月24日
ニュー・オーダー、マンチェスターのスクワットで演奏。ジリアン・ギルバートをフィーチャーした初のギグ
「彼女にとっては非常に緊張したに違いない。とても短いセットだった。20分でアンコール無し。今では、20分演奏するためにどこかへ行くなんて考えられない。そうは言っても、「オマージュ」を除けば、それがおれたちの全曲だったんだ」
1980年11月
ブリュッセルより愛をこめて(TWI 007)
トラックリスト:ケヴィン・ヒューイック「ヘイスタック」&数人のミュージシャン 3.35
1980年6月、グレイブヤード・スタジオで録音。ケヴィン・ヒューイック作詞
マーティン・ハネット録音
オリジナルのカセットブックレットには、「ケヴィン・ヒューイック - ヘイスタック / グレイブヤード・スタジオでの実験。1980年6月。ケヴィンは数人のミュージシャンと演奏。マーティン・ハネットによる録音」と記載されている。「数人のミュージシャン」とは、後にニュー・オーダーとなるバーナード、ピーター、スティーブンのことである
1980年11月24日~28日
ニュー・オーダー、ロッチデールのカーゴ・スタジオに入る
「これは、主にボーカルパートに取り組み、いくつかの曲のデモを作成する目的だった」
1980年12月
ニュー・オーダーは、ジリアン・ギルバートと共に『セレモニー』を再レコーディングするため、ストロベリー・スタジオに入った
「ジリアンをグループに完全に組み込むというロブのアイデアは、結果として非常に似たサウンドになり、違いはほとんどわかりません。少し速くなったかもしれません。主な違いはジャケットの違いだった」
1980年12月13日
ニュー・オーダーは、ロブ・グレットンの旧友であるマイク・ピカリングが主催するロッテルダム・ホール4で演奏した
グループを結成する際に絶対にやってはいけない10のこと
1. 友人と仕事をする(そうしても長くは続かない)
2. ボーカルにバックボーカルを任せる(バンドをまとめる絶好の機会。放置すると危険。「ナルシシズム」も参照)
3. バンドにカップルを入れる(彼らは必ず陰謀を企てる)
4. A&Rマンの言うことを聞いてみる(ピート・トン以外、おれが今まで会ったA&Rは皆バカだった)
5. マネージャーにクラブやバーを開かせてみる(『The Hacienda: How Not to Run a Club』参照)
6. 出版とパフォーマンスの分割を口に出さない(レコーディングが終わったらすぐに整理し、書面で残す。これは最悪のことだが、最も重要なことで、多くのバンドは活動を始める前に解散する)
7. バスを降りる(ファッティ・モロイは一度これをやりました。それ以来ずっと後悔しています)
8. メンバーの1人がグループ全体より偉いと考える(これもジーン・シモンズの例え)
9. 「永久に」と書かれた契約書にサインする(つまり永遠に。たとえあなたがそんなに長生きしても)
10. レコード会社に借金をさせる(ファクトリー・レコードの例を参照)
11. 機材を発送する。必ずレンタルする(非常に有名なサブダンス・サブインディーズバンドが、解散後にマネージャーに電話をかけ、「お金はどこへ行ったんだ?」と尋ねたことがある。上記参照!)
12. 他のグループメンバーの睡眠を妨害する(彼らはとても意地悪になり、警察を呼ぶかもしれない)
13. 他のグループメンバーのガールフレンド/妻の邪魔をする(これは必ず暴力に終わる)
14. 自分のホテルの部屋でパーティーを開かない(必ず誰かの部屋に行く)
くそっ、多すぎる。もうやめておく
「ロブを喜ばせるためなら何だって…」
1981年5月、バンドはメロディー・メーカー誌のニール・ローランドにニュー・オーダーとして初めてのインタビューを許可した。「何事も真剣に受け止めようとせず、面と向かっての議論を避けるためにただベースをいじっていた」と評されるピーター・フックとのやや緊張したやり取りに加え、バンドのキャリアを通して繰り返し登場するテーマが取り上げられている。それは、「バンド名が示唆する」ファシズムへの非難、イアン・カーティスの遺産への執着、そしてバンドのライブ形式への関心です。(「ニュー・オーダーのライブは、例えばピンク・フロイドがラウンドハウスにいた頃のようなエネルギッシュさを持っている」)
家庭では、アイリスとおれは収入が1つしかないことに慣れつつありました。彼女は協同組合保険サービス(おれたちの機材代金の支払いを拒否したまさにあの会社)のマンチェスター事務所で事務員として働いていた。
この頃、おれたちはモストンのほぼ空っぽの家に住んでいた。家具といえば、デッキチェア2脚、マットレス、そしてビバという名の美しい白い子猫だけで、ビバは嬉しそうにそこらじゅうにおしっこをしていた。女の子たちはおれに群がってきた。おれがしょっちゅう家を空けては回復のために戻ってくることに慣れてきていた。おれは定期的に「家を離れて演奏」していたと言えるだろう。
1981年は、より多くの経験を積み、音楽でまだチャンスがあることを証明したいという思いから、慌ただしいギグでスタートした。ギグに関しておれたちが獲得していた評判は、人々がいつもよりも高い期待を抱いてやって来ることを意味していた。何かが起こるだろうと。必ずしも良いことばかりではないかもしれないが、何かが起こるだろうと。連中は本当にジョイ・ディヴィジョンの楽曲を無視して、新曲だけを演奏するんだろうか?先ほども言ったように、最初はほとんどのファンが純粋な好奇心から来ていたに違いない。
例えば当時のセットリストを見てみよう。あの時代のもの(そして公平を期すために言えば、バーニーが抵抗を始めた1987年までのほぼすべての時代)を見れば、常に変化していたことが分かる。その理由の1つは、ロブが楽屋で横になり、眼鏡を鼻に押し上げながらおれたちに向かって叫んでいたから。「おい、クソったれ、あのクソみたいな曲は何だ?「この部屋で、あの部屋で」って歌ってる曲は何なんだ?」すると、おれたちは「ああ、あれはもうしばらく演奏してない。リハーサルもしてない」って言うんだ。
「じゃあやるんだ。『Homage』をやれ。そう、『Homage』だ。」
ロブを喜ばせるためなら何でもした。でももちろん、リフや構成、バーニーは歌詞を思い出すのに苦労していた。チャンスに恵まれて魔法にかかった夜がある一方で、他の二晩はまったく酷い出来だったりした。確かに当たり外れはあったが、決して退屈ではなかった。おれたちはまだパンクだったし、喜んでそれに付き合っていた。
何年も後、アメリカでブルース・スプリングスティーンが同じツアーで2つの異なる都市で演奏するのを見たときのことを覚えている。彼は何時間も同じ曲を同じ順番で演奏しただけでなく、曲の合間にも同じことを同じ順番で言っていた。彼らがそこまで準備をしていたことに驚いた。なんてプロフェッショナルなんだろうと。
それから、当時おれたちは最長でも20分から30分しか演奏しなかった。それで十分に長く感じたから。観客を飽きさせないためというのがおれたちの言い分だった。おれたちはどれほど思いやりがあったのだろうか?しかし、おれたちの思いやりに報いるために、怒って暴動を起こす連中もいた。恩知らずの野郎どもめ。
だからおれたちには評判があった。おれたちのギグは、最悪な夜になるかもしれないし、素晴らしい夜になるかもしれない。それは誰にも分からない。唯一確かなことは、思い出に残る夜になるだろうということ。オーディエンスはたくさんの物語を持って帰っていった。
5月にヨーロッパツアーに乗り出し、フランス、ベルギー、ドイツ、デンマーク、スウェーデンで演奏した。素晴らしいツアーだった。バーニーは、歌手であることの大変さを嘆いていない時は、フロントマンとしての地位を利用して特定のファンに気に入られることを厭わなかった。ギグは非常に小規模で、汚い楽屋、ペールエール4缶とニシンの酢漬け、運が良ければそれだけだったが、それでも十分だった。懐かしく思い出すしかないようなギグばかりだった。いわば、代償を払っているようなものである。
ニュー・オーダーは1981年9月にシングル『プロセッション』、11月にアルバム『ムーブメント』を短い間にリリースし、12月にはファクトリー・ベネルクスから12インチシングル「エヴリシングズ・ゴーン・グリーン」をリリースした。当初は『プロセッション』のB面曲だった『エヴリシングズ・ゴーン・グリーン』は、当時のニュー・オーダーのシングルの中で最もエレクトロニックな曲で、バンドの新たな方向性を示した。
おれたちの作曲方法は、1989年の『テクニーク』まで、すべての作品でほぼ同じだった。アコースティックな曲は、3人でジャムセッションをし、一番良い部分を選んで大まかな構成を作った。そこにバーニーがキーボードパートを追加し、おれたちの1人がボーカルラインを担当し、それから一緒に歌詞を考えた。それは素晴らしい共同作業だった。エレクトロニックなシーケンサーが主体の曲では、最初にプログラミングしてからジャムセッションしていた。
ストロベリー・スタジオでマーティン・ハネットと新しいアルバムを作る計画だったが、彼はその頃には完全に嫌な奴モードに入っていた。スタジオでは「よし、モニタールームに行ってくる」とか言って席を外し、エンジニアのクリス・ネーグルがセッティングした小さなオーラトーン・モノラルスピーカーでおれたちが演奏している音を聴きながら、本を読んだりドラッグをしたりしていた。
「気に入った曲が聴けたら、出てくるよ」と彼は言っていた。
彼は決して出てこなかった。
ほとんどの場合、彼が家へ、あるいはドラッグを買いに行くためにスタジオの玄関ドアをバタンと閉める音が聞こえただけだった。たまに彼が出てくると、イアン無しではおれたちがどれほどダメ人間かを思い出させようとした。まるで真の天才の貧弱な代役であるおれたちがそこにいることに耐えられないかのように。彼がそんな風に振る舞うのは、胸が張り裂けるようだった。
おれたちの旅は、セックス・ピストルズを観ることから始まり、イアン、ロブ、トニー・ウィルソンと出会い、そして最後はマーティンと仕事をすることになった。すべての導きの光の中で、イアンとマーティンは最も明るく輝いていたが、今や片方は亡くなり、もう片方はおれたちを憎んでいた。おれたちと同じ部屋にいることさえ耐えられない、とおれたちは感じていた。今思えば、彼の行動の一部は薬物のせいだったと言えるかもしれないが、当時は本当に耐え難いものだった。
ある夜、ストロベリー・スタジオでバンドのメンバーとロブだけで話をした。ストロベリーはいつも凍えるほど寒く、蓄熱暖房器はほとんど動かなかったので、その夜、階下で考え込んでいたおれたちは一際寒く感じていた。おれたちは自分の気持ちを打ち明けた。人生で一度きりのような、そんな時間だった。結局、全員が泣いてしまった。抱き合ったりはしなかったが。ただ、それぞれが自分の小さな世界の中で泣いていた。少し血を流したようなものだったと思う。なぜだろう?おそらく、溜まった感情は遅かれ早かれ外に出さなければならなかったからだろう。あるいは、マーティンの状況が悪化し、彼がドラッグに溺れ、イアンのように失ってしまうのではないかと嘆き悲しんでいたからかもしれない。そんなバンドミーティングには凍えるような寒さのスタジオは、どこよりもうってつけの場所だった。
1981年初頭、ストロベリーでのアルバムレコーディングはなんとか完了し、今度はミックス作業が始まった。
奇妙なことに、トニーとロブはレコーディングの進行具合に満足していた。ボーカル的にも音楽的にも、そしてマーティンの行動についても。新しい作品に対して全くパニックに陥っていなかった。それはおれたちに大きな勇気を与えてくれた。しかし、それはすぐに変わることになる。
おれたちはロンドンのケンジントン・ガーデンズ・スクエアにあるマーカス・ミュージックという新しいレコーディング・スタジオに移った(マーティンについては、少なくともしばらくの間はマンチェスターから離れるのは良い考えだと考えていた)。おれたちも環境が変わったことを嬉しく思っていた。おれたちは角を曲がったところにあるホテルに滞在し、夜間に制作していた。今回はうまくいった。クイーンズウェイで夜明けに朝食をとり、午前8時頃に就寝するのだ。他の宿泊客は観光に出かけているので、ホテルは静まり返っていた。彼らが戻ってくると、おれたちは起きてインディーズ・ヴァンパイアのようにスタジオに向かうのだった。
初日、マーティンは仕事を始める前にコカインを1グラム要求した。おれたちは皆、全く信じられないという表情で彼を見た。当時、おれたちはコカインについてほとんど知らず、どこで手に入れられるかなど全く知らなかった。ましてや、ロンドンにいて誰も知り合いなどがいなかった。最初は冗談だと思い、抗議したり、理屈をつけようとしたりしたが、1時間ほど経つと本気であることが明らかになり、おれたちは愕然とした。そこでロブは電話をかけ始め、マーティンとクリス・ネーグルはまるで悪意に満ちた仏陀のように座り、マーティンはノブを回すことさえ拒否した。確かに天才かもしれない。だが、なんて間抜けなやつなんだろう。
そして、数時間後、ようやく薬を手に入れると、彼はそれをクリスに渡し、クスクス笑いながら「クリストファー、それを整理してくれ。そうすれば始めよう」
彼は最終的にいくつかの曲をミックスしたが、バンドとしては全く満足できなかった…
『クローサー』の制作中、おれたちはマーティンの肩越しで見守り、自分たちでやり方を学ぼうと熱心に取り組み、時にはアイデアを出し合った。そして今、おれたちは自分たちの意見を持ち、それが声となり始めていた。
『ムーヴメント』でおれたちが主に求めていたのは、ドラムの増量だった。マーティンは相変わらず、すべてを歪ませ、マーシャル・タイム・モジュレーターを通して録音し、それを元に戻すという、昔ながらのやり方を続けていた。しかし、おれたちはサウンドをもっとクリーンでパワフルにして、羽毛のような感じにならないようにしたかった。『アンノウン・プレジャーズ』の制作時には、ドラムの増量を求める勇気などなかった。『クローサー』の制作時には、それを提案する勇気があったかもしれない。しかし今、『ムーヴメント』の制作においては、おれたちはそれを明確に要求した。さらに、ロブが私たちのバックについてくれていた。ロブはプロデューサー席に座っているコカイン中毒のプリマドンナではなく、おれたちの味方になってくれた。マーティンはすべてのミックスを担当したが、家で振り返ってみると、いくつかの曲はもっとハードにして、より幻想的では無いものにできると感じていた。おれたちは自分たちのために立ち上がることを楽しみ始めていた。
マーカス・ミュージックの後、おれたちはノッティング・ヒルにあるトレヴァー・ホーンのサーム・ウェスト・スタジオに移った(そこでのテープ・オペレーターは、後にU2のレコード制作で有名になるフラッドという素敵な若者だったが、この時点では紅茶を入れることで有名だった)。そこでバンドが気に入らなかった曲をリミックスする予定だった。だがここでもマーティンの「突飛な」(つまり、間抜けな)行動は続いた。おれたちはまだアイデアを出し合っていたが、マーティンが気に入らない曲があると、「クリストファー、ちょっと散歩してくるから、おれがいない間にミックスをやっておいてくれ」と言って出て行った。そこでクリスにドラムの音量を上げて、ベースをもっと太く、大胆にしてもらうように頼んだ。クリスはマーティンに完全忠実だったので、彼は渋々従った。そしてマーティンが戻ってきて、「もうやったか?」と言うので、おれたちが「うん」と言うと、彼は「よし、じゃあ次の曲」と言うのだった。
彼はおれたちが何をしたのか全く聞きたがらなかった。知りたくもなかったのだろう。
彼とは何度か喧嘩した。一番言い争ったのは「Truth」と「Everything's Gone Green」の2曲だった。どちらも、ドラムマシンとシンセサイザーを力強く、大音量にしたかったんだ。(ちなみに、これらはおれたちの最初の「エレクトロニック」トラックだった。「Truth」はドラムマシンを使った最初の曲。そしてドラムマシンとパルスシンセサイザーを使った「Everything's Gone Green」)
それから「Procession」。
ある夜、イエロー・ツー・スタジオで、おれとマーティン、バーニーがボーカルを再録音していた。最初のテイクの後、トークバックでマーティンが「ひどい。もう一度やり直せ」と言った。
ブースの中のバーニーはまた同じことをした。
「ひどい。まただ。」
そうやってマーティンは彼を何度も何度も罰した。彼はバーニーがイアンではないことを罰しているのだ、とおれは思っていた。
「まただ。」
15回目か16回目には、おれは彼を説得しようとしていた。「マーティン、頼むよ」とおれは言った。「別の良いパートがあるから、それを使おうよ」
「いやいや」と彼は言い放った。「フルテイクだ。フルテイクにしないと。」
それから彼はバーニーにもう一度歌わせた。
「もう一度だ。」
そしてまた…
数えてみた。バーニーは43回歌ったが、ついに、バーニーの言う通り、あの頃は短気だった彼はついにパニックに陥り、セッションは突然終了し、おれたちは怒って出て行った。
何もかもがクソだった。マーティンはいつだって手に負えないタイプだったが、彼の狂気にはひどく欠けている手法があった。以前は実験していたが、その頃の彼は幸せそうで、イアンに43回も歌わせるようなことは決してしなかっただろう。今の彼は、良い結果を出そうとするのではなく、ただおれたちを怒らせるために残酷な方法でプロデューサーとしての権力を行使していると感じていた。「Procession」は良い曲で、バーニーのボーカルも良かった。その夜、スタジオで唯一の問題はマーティンだけだった。
後にマーティンはバーニーのボーカルが弱く、補強が必要だと考え、ジリアンにバックボーカルを依頼した。時代遅れなおれは女性的なバックボーカルが好きではなかったが、多数決で負けた。そして、B面に「Everything's Gone Green」を収録した。これが後にエレクトロニック・ミュージックのベンチマークとなったことを考えると、エレクトロニック・シングルの聖なる三位一体(「テンプテーション」と「ブルー・マンデー」に続く)の最初の曲としては少し不可解な動きだった。
しかし、それは後知恵であり、バンドが素材に近過ぎた、あるいは謙虚になり過ぎたという良い例でもある。だが幸いなことに、ファクトリー・ベネルクスがこの曲のポテンシャルを認識してくれたのだった。
ファクトリー・ベネルクスは1980年にミシェル・デュヴァルとアニック・オノレ(イアン・カーティスの愛人)によって設立されたが、奇妙なことに、マンチェスターのトニーと本家ファクトリーよりもワイルドで自由な発想を持っていた。1981年12月にリリースされた「Everything's Gone Green」の12インチバージョンを作る機会を与えてくれたのは彼らだったのだ。このバージョンはついにこの曲にふさわしい存在感と聴覚的インパクトを与えた。ファクトリーからの7インチシングルでは、この曲は短く編集され、B面曲としてマークされていた。
この頃には、ドラムマシンやパルスシンセサイザーを使っていたが、シーケンサーはまだ使っていなかった。これらの機材は素晴らしいサウンドだったが、セットアップには長い時間を要した。おれにとってこの時期は、バンドの他のメンバーがドラムマシンとシンセをプログラムしている間、エレクトロニックバンドのアコースティック奏者が耐えなければならない、果てしない座り込みの始まりだった。
何かをするのは好きだが、プログラミングには興味がなかった。ただ退屈で、目的を達成するための手段ではないと思っていた。「なんでただ演奏できないんだ?おれたちはバンドなんだぜ?何百曲も素晴らしい曲を書いてきたんだ。なのに、なぜただ普通に演奏できないんだ?」と思っていた。
他のメンバーはポップスを再発明するのに忙しかったが、おれはポップスは現状のありのままで十分だった。
でも、おれがクヌート王みたいなものだと思われてしまう前に言っておくが、プログラミングされた音楽に対するおれの反抗的なスタンスが、おれたちのサウンドを(自分で言うのもなんだが)ロックとダンスのハイブリッド、つまり未来のサウンドに仕立て上げたのだった。その代わりに、おれはレコーディングのプロセスに没頭し、バンドのレコーディング・エンジニアになることを決意したのだった。
マーティンにとって決定的な決定打となったのは、アルバムのマスタリングだった。マーティンは、バンドが使いたいかどうかに関わらず、自分のミックスだけをマスタリングした。彼はおれたちのミックスを聴こうとせず、アセテート盤やテストプレスにさえ入れることを拒否した。
ギークアラート
アセテートは、ヴァイナルの特性を模倣したラッカーコーティングされた金属ディスクで、ヴァイナルにプレスする前の音質確認のために使用されます。テストプレスでは、レコーディング工場で曲のマスターテープを使用して金属マザーが作られ、そこから品質向上のために限定数のテストレコードがいくつか作られます。これらが承認されると、より多くのレコードが生産されます。
レコーディングセッションの終わりまでに、アルバムのアセテートとテストプレスには2つのバージョンが存在した。マーティンのバージョンは彼が気に入ったミックス、バンドのバージョンはおれたちが気に入ったミックスが入っていた。彼はアルバムの最終バージョンを実際に聴くことはなかった。それでお終い。
それからおれたちはアメリカに舞い戻ることになる
「以前ここに来たことがあるような気がする」
「Everything's Gone Green」は、他のどの曲よりもマーティン・ハネットとニュー・オーダーの関係を過去のものにした。この曲を録音した後、おれとバーニーは新たな自信で胸がいっぱいになった。マーティンがいなくたって良いバンドになれるんだと感じた。もっと言えば、彼がいない方がもっと良いバンドになれると思っていた。
そこで、ロブ、トニー、スティーヴ、ジリアンに、もう彼を使わないと伝え、それで終わりにした。彼は解任され、おれたちは新しいバンドになったような気持ちでアメリカへ向かった。
再びルース・ポルスキーがおれたちのツアーのプロモーションをしてくれて、彼女とおれは不倫関係になった。彼女はニューヨークで最も人気のあるクラブ、ダンステリアとハラーを経営し、NYの音楽界で最もクールで人脈の広い人物の1人だったのに、おれはサルフォード出身のただのチンピラだった。おれの素晴らしい恋愛能力だったのか(だったらいいのだが)、それともY字型の体型ではなかっただけなのか?それとも、彼女が完全なコカイン中毒だったからなのか?当時のおれには理解できなかった。ルースは気性が荒かった。彼女はたくさんのバンド仲間と付き合っていたため『Under the Stars』という本を出版する計画を立てていた。彼女が亡くなって数年後、おれはそのタイトルをモナコでトリビュートソングとして使った。彼女は素晴らしい女性だった。おれは彼女の心を傷つけたが、今でも彼女がいないと思うと寂しい。
ある晩、彼女はおれたちをニューヨークのリッツに連れて行ってくれた。バウハウスか何かのバンドを見に行ったのだ。当日、おれたちは普通のライブハウスのように床がベタベタしていて、客たちがおれの足を踏みつけるだろうと思っていたが、それは大間違いだった。実際には、おれたちはプライベートな中2階の予約テーブルに座り、専用のバーサービスまで完備されていた。イギリスのように他の客から「お前は誰だ?くたばれ」と見られるようなことはなく、皆がスター扱いをしてくれた。「こちらへどうぞ」。まるでビリー・ビッグ・バナナズになった気分だった。思わず自分の体をつねって「これは本当なのか?」と思うような瞬間だった。
神よ、アメリカに祝福を。
厄介なのは、こういうことは注意しないと感覚がおかしくなることだ。
数年後、おれはテリー・メイソンと一緒にロンドンのクラブ、seOneの列に並んでいた。前に立っていたのは、Curiosity Killed the Catのシンガー、ベン・ヴォルペリエール=ピエロ。ベレー帽をかぶった嫌な奴で、ドアマンに「おれが誰だか知らないのか?」と全力で叫んでいた。彼らは当時、大人気だった。しかし、ドアマンは気にせず、「お前らはゲストリストに載っていない」と言い放った。おれたちは彼の後ろで大笑いしていたが、彼は振り返って顔をしかめ続け、ついにドアマンの忠告に従い、おれたちから野次を浴びながら去って行った。
さあ次はおれたちだ。おれはドアマンに満面の笑みで「ニュー・オーダーのピーター・フックだよ」と言った。
彼はゲストリストを見下ろした。
「ピーター・フックも、ニュー・オーダーも載ってないぞ」
列に並んでいた他の全員がおれを見て大笑いしていた。
しまった!カルマだ。必ず報いを受ける。
さて、1981年11月にアメリカに戻ると、バンドが新たに見出した目的意識と自信に貢献したもう1つの出来事がマイケル・シャンバーグとの出会いだった。2006年にミトコンドリア病を患い、悲しいことに2014年に亡くなったマイケルは素晴らしい人物だった。彼とガールフレンドのミランダは、ファクトリーのアメリカ支社であるファクトリーUSの運営で大きな成功を収めたわけではなかったが、素晴らしいミュージックビデオを通じてニュー・オーダーの国際的なイメージ形成に貢献したことは間違いない。
マイケルは新進気鋭のビデオ/映画監督を見つける優れた目を持っていた。『ザ・パーフェクト・キス』のジョナサン・デミを始め、『タッチド・バイ・ザ・ハンド・オブ・ゴッド』のキャスリン・ビグロー、『ビザール・ラブ・トライアングル』のロバート・ロンゴ、『トゥルー・フェイス』のフィリップ・ドゥクフレをビデオ監督に迎えたのも彼だった。多くの点で、彼はピーター・サヴィルがグラフィックイメージを表現したのと同じように、おれたちのビデオイメージを表現するようになった。おれたちは彼に完全な自由と完全な芸術的コントロールを与えた。言い換えれば、それらの仕事と関わることに煩わされずに済んだ。おれたちはそれらが本当に退屈な仕事だと思っていたから。また、それらは莫大な費用がかかり、レコード会社に多額の負債を抱えることになった。それはおれたちが苦労して学んだもう1つの教訓だった。それだけでなく、マイケルはアーサー・ベイカーとジョン・ロビーを紹介してくれたのも彼だった(まあ、誰しも完璧ではないのだが)。
当時、チャイナタウンにある破天荒なホテルに泊まっていた。なぜかって?振動ベッドがあったから。ヘッドボードのスロットに25セント硬貨を入れると、ベッドが30秒ほど揺れ、さらに硬貨を入れるまで動き続ける。どんな効果があるのかは分からないが、とても楽しくて、特にロブが大いに気に入っていた。彼はみんなに電話して「25セント硬貨ない?もう25セント硬貨ない?」と尋ねていた。
ある夜、おれたちは中華料理を食べに行った。ロブは中華料理に詳しいことをひけらかし、「中国の酒は最高だからきっと気に入る」と言った。ウェイターは「特別なワインがあるよ。特別なワインだ…」と言って運んできたのが、なんと鹿の胎児が入ったワインだった。おれたちは皆それを見て吐き気を催したが、もちろんロブはあくまでもロブなので、結局それを飲んでしまった。彼は普段から頑固な野郎で、酔っ払うとさらにひどい有様だった。
何年も後、ロンドンで、ギリシャ人のプロモーター、ペトロス・ムスタカスという名の抜け目のない小僧がロブにこう言ったのを覚えている。「お前の手の甲に50ポンド札を置いて、火のついたタバコをくっつけてやる。もし札が燃えるまでそこに保持できたら、それはお前のものだ」と。
ロブは怒り狂いながら「大丈夫だ、ペトロス。くそ、くそったれ。くそったれ、くそったれ」と言った。男は50ポンド札を手の甲に置いてタバコに火をつけた。
ロブは「さあ、クソ野郎、焼けろ」と言ったが、焼けなかった。レストランは焼ける肉の臭いで満たされ始めた。その間、ロブは激痛に顔をしかめながら座っていたが、ついに我慢できなくなり、手を引っ込めると、手の甲に大きな水ぶくれができていた。
ペトロスは「ああ、運が悪かったな、ロバート。反対の手で試してみないか?」と言った。
相変わらず好戦的で喧嘩腰のロブは、眼鏡を鼻に押し上げて「ああ、じゃあ、やれよ、この野郎」と言った。みんなは「ああ、ロブ、やめて、だめ、だめ」と言いながら、ロブが燃える悪臭を払いのけるために鼻に手を当てていた。
ペトロス以外、誰も知らなかったが50ポンド札に使われている紙は非常に優れた熱伝導体だった。紙幣を燃やすのではなく、その熱はロブの手の方に伝わっていたのだ。頑固なマネージャーは手の甲に2つの穴が開き、一生消えることはなかった。まるで十字架にかけられたかのような聖痕だ。
最後に彼はペトロスを見て、ただ「失せろ」と言った。
ロブはタフだった。彼は間違いなくハードコアだった。
『ムーヴメント』はおれたちが留守の間にリリースされた。レビューはまあまあで、年月が経つにつれてどんどん好きになっていったが、当時は満足していなかった。完成版を聴いたとき、プロデューサーの信頼を失ったバンドの音に聴こえたから。それは明白だった。アルバムは最終的に、ニュー・オーダーのボーカルを加えたジョイ・ディヴィジョンのアルバムのように聴こえた。
そうは言っても、名作とまでは言えないが最近ではあのプロダクションが好きになった。『パワー・コラプション・アンド・ライズ』の方がずっと上回ってはいるが、それでも良いアルバムだ。歌詞にはあまり深みが無いが、音楽は素晴らしいと思う。最近では、イアンなら『ドリームス・ネバー・エンド』や『I.C.B』でどんなことをしただろうか?あるいは『ブルー・マンデー』でどんなアイデアを思いついただろうかと想像したりする。もしそれが分かったら、どんなに素晴らしいことだろうか。
Movement トラック解説
「Dreams Never End」: 3.13
恐怖に怯える者に逃げ場はない…
イアンの死後、最初のベースリフ、そして「Novelty」の後の最初のボーカルライン。1人で演奏するのは決して良い気分ではなく、すぐに心が折れてしまった。アルバムの冒頭にこんな曲があるなんて、まるで予言のようだ。6弦のShergoldベースギターが真価を発揮している。レコードでは、マーティンがおれのボーカルに苦戦し、ローテイクとハイテイクをミックスしているのが分かる。「ライブのように」録音されたこの曲では、3人で激しく演奏している。不思議なことに、マーティンはこの曲でドラムキットを完全に分解しなかった。彼はおれたちが一緒に演奏することを許可し、最高のテイクを使った。後に彼はクローズドとオープンの両方のハイハットをオーバーダビングした。ニュー・オーダーのロッククラシック。PA担当のオジーがかつておれに言ったのを思い出す。「あのイントロを最後にバンドは落ち目になったよ!」
「Truth」: 4.37
私を囲むノイズ
ドラムマシンを使った初めての曲。とても雰囲気のある曲。ARP Omniのストリングスは特に印象的。バーニーはメロディカも効果的に使っている。この曲には素晴らしいサウンドを期待していたが、マーティンとの争いで、まさに論争の真っ只中に放り出されてしまった。ジョイ・ディヴィジョンの「インサイト」を彷彿とさせる。冷酷なディストピア的ビジョン…新しい世界秩序。
「センシズ」:4.45
理由は示されない
この曲の核心は、おれたち3人の相互作用です。それが何よりも重要である。ジョイ・ディヴィジョン風に曲のパートを重ねて新しい3番目のパートを作り出す、素晴らしいテクニック。スティーブのシンドラムと、マーティンのタムのタイムモジュレーションが非常にモダンな雰囲気を醸し出している。マーティンの一番嫌いな曲で、彼は理解するのに苦労していた。また、おれにとって初めてのベースのオーバーダビングに挑戦した曲で、4弦と6弦の2つが同時に異なるパートを演奏している。
「Chosen Time/Death Rattle」:4.07
信じて
ゆったりとしたボーカルが、この暗く陰鬱な曲を覆い隠している。6弦ベースによるメロディーは非常に力強い。ニュー・オーダーの曲の中で初めて、初期のアコースティック・ベース・パートから独立したベース・シンセ・ラインを採用し、バーニーの素晴らしいギターワークも加わっている。スティーブのシンセドラムは素晴らしく、Powertranシンセサイザーと相まって、曲の最後に素晴らしい効果を生み出している。マーティンのアイデアだった。ライブで行われたクラシックな録音スタイル。オーバーダビングはほとんど無し。
「I.C.B.」:4.33
天から降るマナ
この曲はジョイ・ディヴィジョン時代に作り始めたものの、完成には至らず、個人的には最もジョイ・ディヴィジョンらしいサウンドだと思っている。マーティンによるタムのエレクトロニックな処理が、この曲を素晴らしくモダンで刺激的なものにしている。バーニーのゆったりとしたボーカルは、自信の無さを改めて感じさせるが、それはすぐに修正される。スペースサウンドシンドロームによる素晴らしいビルドアップは、スティーヴがクランジャーズのファンだったことを示唆している。バーニーのバックで歌っている自分の低いボーカルを聴くのは興味深い。
「ザ・ヒム」: 5.29
生まれ変わった、とても素朴に、私の目には…
このベースラインが大好きだ。バーニーのARP Omniストリングスの重ね合わせも非常に効果的。マーティンの強い要望で、おれの低いボーカルが再び彼をバックアップした。彼がライブでこの曲を歌ったとき、最後のリフレインは、働き過ぎのシンガーにとって特に悲痛なものだった。「とても疲れた、とても疲れた、とても疲れた」
「Doubts Even Here」: 4.16
警告なしに崩壊…
アルバムの中で1番好きな曲。スティーヴがボーカルラインを書いたのだが、当時彼は歌う自信が無かった。バーニーは気に入らなかったので、おれに任された。素晴らしいメロディーとタム。ボーカルのエンディングはおれが考え、マーティンはジリアンが「主の祈り」を朗読するのをオーバーダビングした。シンセドラムのエンディングが終末的な雰囲気を醸し出している。
「Denial/Little Dead」: 4.20
突然現れては消え、私を怖がらせる
インタープレイとドロップアウトが非常に重要な曲。このトラックにはオーバーダブが最も多く、ベースキーボード、高音弦、スネアドラム、タムなどが使われている。その後のライブでは、スティーヴはスネアドラムを2つ使っていて、1つは彼の背後に置いていた。彼がロールでそれを叩いたとき、それは素晴らしい光景だった。おれはとても感動した。だが悲しいことに、ボーカルは酔っているように聞こえる。
アルバムが発売される少し前の夜、ロブから電話があった。
「いますぐロンドンに行ってくれ!」
「え?」
「ピーター・サヴィルが偏頭痛でジャケットデザインを仕上げられないから、代わりにお前にやってほしいんだ!」
当時、ピーター・サヴィルはロンドンにあるヴァージン・レコードの子会社ディンディスク・レコードで、キャロル・ウィルソンというとても元気で若い女性のために働いていた。普通のレコード会社で働くプレッシャーが彼にのしかかっていたようで、彼はプレッシャーからくる偏頭痛に悩まされ始めていた。それでおれがその救援に選ばれたのだ。おれはアスピリンを握りしめ、熱にうなされた彼の額を拭きに向かった。
その時、ピーターは2つのジャケットを依頼されていた。1つは両A面シングルの「Procession/Everything's Gone Green」、もう1つがMovement。ロブは最初のアルバムだったので、どうしてもリリースしたくて、いつも以上にピーターを急かしていた。
おれが電車でロンドンに着いたとき、彼はとても体調が悪く、おれは優しく彼を導き、なだめて、彼が何を作っているのかを見せてもらった。彼は頭を抱えながら、自分のアイデアを説明した。彼は1909年のイタリア未来派運動においての工業都市、機械、速度、飛行といった近代性の指標に関連するグラフィックイメージを探求してた。未来派は、新しく破壊的なものを称賛していた。
なんてこった、彼がひどい頭痛に襲われているのも無理はないと思った。
そこで、おれはアルテ・メカニカ(機械美学)に関する本を数冊見せられた。おれはぼんやりと見つめていた。1時間ほど後、ロブの言葉が耳に残る中、おれは2つのデザインをピックアップした。1つはムーブメント用のもので、「ピート、これの文字だけ変えられない?」と言った。もう1つはシングル用の、素晴らしく力強いデザインだった。彼は「わかった。任せてくれ。少し気分が良くなった。色は変えるかもしれない」と言った。
その後、彼はおれを彼のプライベートクラブであるザンジバル(ソーホーのグルーチョクラブの前身で、後ほど詳しく説明します)に夕食に連れて行ってくれた。そこで彼はロンドンでの生活について語り聞かせてくれた。ある時、「ロンドンで暮らすのがどれだけ大変か分かるかフッキー?ズボン1本に600ポンドも払わなきゃいけないんだぞ!」と言った。
「なんてこったい、ピート。週に30ポンドしか稼いでない俺が知るわけないだろ?」
考えてみると、ロブにとってお金のやりくりはとても大変だったに違いない。彼はニュー・オーダーをマネージメントしていたが、収入は全くなかった。ニューヨークで盗まれた機材を山ほど購入し、すべてジョイ・ディヴィジョンのお金で賄っていた。ロブは経理が上手かった。誰かが疑問を呈すると、彼はいつも「ポケットは2つある。左はバンドのもので、右はおれのものだ。絶対に間違えない!」と言い、両方のポケットを軽く叩いて見せた。不思議なことに、夜の終わりにみんなに飲み物などを買っている時、彼はどちらのポケットに手を入れたかをメモしていないようだった。でもおれたちはそれで満足だった。彼が飲み物を買っていたのは主におれたちのためだったので、どちらかのポケットに金が入っている限り、おれたちは気にしなかった。
ニュー・オーダーのプロデューサーを解任されたマーティンの苦悩は、ハシエンダ開業への反対意見が聞き入れられなかったことでさらに深まった。ファクトリーのディレクターとして、彼は利益をレーベルの最も重要な側面である音楽に注ぎ込みたいと考えていた。彼はレコーディング・スタジオ、あるいは少なくともケイト・ブッシュ、ジャン・ミッシェル・ジャール、そしてマーティンの宿敵トレヴァー・ホーンが使用していたのと同じモデルの、新しいフェアライトCMIシリーズIIシンセサイザーが欲しかったのだ。案の定、クラブのオープン直前、ファクトリーの音楽魔術師は、自身が設立に関わったレーベルを相手取り訴訟を起こし、オープンを阻止し、会社への出資額からさらに金銭を要求しようとした。それがファクトリーとの関係の終わりの始まりだった…。
マーティンはファクトリーにレコーディングスタジオを買ってほしいと考えていた。アルバム1枚でスタジオ代は回収できるし、残りのレコードはすべて無料で録音できると言っていたからだ。彼は完全に正しかった。レコード会社にとって最も愚かなことはクラブに投資することだった。その後、ハシエンダが赤字に陥ったとき、トニーは何度も頭を抱えてこう言った。「ああ、マーティン・ハネットの言うことを聞くべきだった…」
マーティンはフェアライトで何ができただろうか?『愛の狩人』みたいなものは作れただろうか?答えは永遠に分からない。ただ、ファクトリーの残りの役員たちが彼に反対票を投じたということだけだ。彼らは彼を追放した。皮肉なことに、まさに2011年にニュー・オーダー「他の連中」がおれにしたことと同じだった。
彼らはマーティンに総額2万5000ポンドでの和解案を提示し、ジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーを含むファクトリー所属の全アーティストのレコーディングで獲得したアルバムポイントを放棄することを条件とした。その価値は何年にもわたって数百万ドルにもなったはずだった。
翌年3月、彼はファクトリーに対して訴状を発行した。ファクトリーはそれに独自のカタログ番号を付け、馬鹿げているように見せかけた。だが訴状は彼にとって何の役にも立たなかった。マーティンには、高等法院に付託された訴訟で戦うお金がなかったのだ。彼には8000ポンドが必要だった。さらに薬物中毒も再び彼を苦しめていた。
今にして思えば、それは忌まわしい引ったくり強盗のようだった。おれたちは何も知らなかったし、ニュー・オーダーで同じことが起こった時に、彼のガールフレンドであるスザンヌが教えてくれなかったら、おれは決してそんなことはしなかっただろう。マーティンと別れた時にどんな気持ちだったとしても、彼がいなければ、特にジョイ・ディヴィジョンで、おれたちがこれまで築いてきたような永続的な影響は決して得られなかっただろうと分かっていた。だから、彼からそれらのポイントを奪い、彼を買収することは、特に彼が正しかったことを考えると、容赦ない仕打ちだった。彼はクラブを開店するなとは言っておらず、今は開店すべきではないと言ったのだ。まずスタジオを作ってからクラブをやれ、と。おそらくファクトリーと関わった人々が提案した中で唯一の賢明な提案だったが、彼の意見は黙殺されてしまった。トニーは正しかったのだ。おれたちはマーティンの言うことに耳を傾けるべきだったのだ。
ギークアラート 機材リスト
この時までに、おれは盗まれた機材を、マーティン・ハネットがベーシストだった頃に使っていたものとほぼ同じセットアップの、はるかに優れたバージョンに交換していた。より技術的なことに詳しい方のために説明すると、おれはヤマハBB1200Sの4弦ベースとシャーゴールドの6弦ベースギターを使用していた。どちらもAlembicのステレオ真空管プリアンプに接続し、モノラル出力でRoland Sip-301プリアンプに入力する。Rolandのモノラル出力は、ステレオAmcron DC300Aソリッドステートステレオアンプ(チャンネルあたり1,200ワットrms = 大音量)にブリッジされ、それぞれ15インチJBL 4560 1000ワットベーススピーカー2台を搭載した2つの特注フライトケースキャビネットに接続していた。
それは最高だった!
マーティン、ありがとう。
ベーシストにとってもう1つ、とても重要なギアは「弦」だ。おれはこれまで様々な種類を使ってきたが、成功の度合いは様々だった。しかし、かなり早い段階で、ロンドンのベースセンター(考えてみれば、おれの最初で唯一のスポンサー)のエリートベース弦に落ち着いた。この弦はとても明るく、しかも強いので、とても信頼できた。通常のベースギターは、平均して105、80、60、45の弦ゲージでE、A、D、Gにチューニングする。しかし、これではおれのスタイルには不十分だった!またかなり早い段階で、主に高音弦のD、Gを演奏していたので、より太い音にするために低音域の周波数をもっと増やす必要があることに気づき、105、85、65、65の弦を使い始めた。しかし、最後の弦は音程を取るためにきつく張られてしまい、切れやすく、顔を怪我することもあったので、すぐにG弦を60に下げた。それによって切れにくく使いやすくなったので、今でも使っているが、本当に指が硬くなる。ライブで弦が切れた記録は3本。強く叩いたので、AとDとGの3本が切れてしまった。若くパンクだった頃は、すべてのライブを命がけで演奏していた。最高に興奮した時代だった!だが最近は、なるべく1度に1本づつ鳴らすことにしている。
つづく

