2012/03/14

2001年8月『MOJO』ニュー・オーダー

2001年7月東京。日本はメルトダウンしている。

 ソニーの四半期収益は90%下落。国の厚生プログラムは崩壊寸前。若者の暴力や失業率は記録的な高さ。明日の総選挙で勝つであろう男の仕事は、まず髪型をキメておくことだ。こんなことには何の関心も持たず、ホテルオークラの外にたむろしている中年欧米人の集団がいる。連中は遥かにレベルの高いことを考えているのだ。

 「ハローキティーショップはどこかなあ?」バーナード・サムナーはすぐ近くのタクシー運転手に頼み込む。「そこにやってくれ。キティーワールドに!」彼は怒鳴りながら飛び乗る。それから私を見てこう言い張る。「あれってラップ・ダンシングのクラブのことだよね?」

 そうです!少し前なら、ニュー・オーダーの童顔シンガー兼ギタリストは一晩中ラップ・ダンシングしまくったろうし、自分がおもちゃ屋にいたことをジャーナリストに手放しで認めていただろう。だが、これはニュー・オーダー第二部である。成長期なのだ。大人らしさというものはもっと早く来るもんじゃ ないかと思うかもしれない -何たってバンドのメンバーは皆40かそこらなのだから- が、1993年、つまり彼らが最後に注目されていた頃、「この20年間で最も文化的に重要なイギリスのバンド」(Uncut 誌)は傲慢なまでにティーンエージャー風の生き方をしていた。「みんないつもパーティーしたがってたね」とサムナーは振り返る。「俺たち楽しかったよ」

 音楽業界というのはそんな振る舞いにぴったりにできている、というか今でもそうだ。25歳になったこのバンドは、コールドプレイのどのメンバーよりも年上である。8年前に中断を迎えるまで、ニュー・オーダーは快楽主義まみれの17年を過ごしてきた。そして今、彼らは戻ってきた。「何が違うかって?」ドラマーのスティーヴン・モリスは言う。「全部。でなきゃ、何にも。俺たちはもうプロなんだ。」

 彼がプロと言うことの意味は、ニュー・オーダーはかつてのような過激色が薄れ、よりクリーンな暮らしぶりになったということだ。インタビューの途中で出ていく可能性は少なくなり、朝8時前に起きる可能性は高くなった。だが彼の言っていることはまた、ニュー・オーダーの4人、サムナー、モリス、ベーシストのピーター・”フッキー”・フック、キーボーディストのジリアン・ギルバートにとって、音楽は今や生活に対する意味での仕事なのだ、ということでもある。最近は家族のことが頭にある。ニュー・オーダーは8人の子持ちである。だからハローキティーというわけだ。

 「俺たち、キティーにハローって言うんだよ。キディー・ランドって店でね。何フロアかあるデパートで、えげつなく可愛いマンガのキャラでいっぱいの所さ。可愛らしいアフロ・ケンっていうけむくじゃらの子犬もいるんだ」

 ニュー・オーダー装填完了。フッキーはポータブルカラオケを発見、店内で「ワンツーワンツー」とでかい音をたててテストする。ゲームボーイをガチャガチャいわせて付近の子供を怯えさせる。それから繰り出したのは渋谷だ。ネオンだらけのショッピング・エリアで、ジャンクマニアが欲しいものは何でも売っている。サムナーは二つの同じような腕時計を前に錯乱。「どう思う?暗い文字盤かな白い文字盤かな?こっちはバックライト付きだ・・・」他のみんなは店の外で彼を待っている。一時間も。

 まもなく夜は加速。ニュー・オーダー関係者の食事会だ。中にはプロデューサーでバンドの長年の友人でもあるアーサー・ベイカー、ジリアンの代わりにライブの仕事を請け負ったフィル・カニンガム(ジリアンはイングランドにいる)、そして今では消滅したアメリカのゴス・ロック・グループ、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンがいる。コーガンは妙なことに、ニュー・オーダーの新LP「Get Ready」に参加しており、明日のフジヤマ・フェスティバルでもギターを弾くことになっている。妙な、というのは、ニュー・オーダーがどこまでもマンチェスター的なのに、一方のコーガンはとてもとてもアメリカ的だからだ。彼はマクドナルドのことを「ゴールデン・アーチ」と呼ぶ。

 ともかく、コーガンの主張で、私たちの一部はレキシントン・クィーンズで飲み直すことに。狂ったモデルで一杯の、とことんばかげたナイトクラブだ。「あいつはロックスターが出入りしてる場所って言ってたのに」サムナーは言う。「でもこれハード・ロック・カフェと同じようなもんだよね?」私がトイレに行くと、二人の女の子がヒステリックにしゃべっているのが聞こえる。「だからここに来ようっていったでしょ」一人が息をつく。「ビリー・コーガンがいるよ!」フッキーはすぐに出ていった。モリスは最初から来なかった。サムナーとコーガンは居座った。コーガンは水を飲み、女たちを受け流す。サムナーはペルノを飲んでリッキー・マーティンで踊る。結局、もう一軒バーを廻り、ホテルの回転ドアでくるくる踊ったあと、彼は寝床についた。朝の4時。45歳にしてはなかなかだ。昔からの癖はなかなか直らない。ニュー・オーダーはいつもと大して変わっていなかった。

 しかし次の日、違いがわかった。サムナーは10時に起きて、愛想を振りまくための準備を整えていた。プロモーション用のインタビュー7時間半である。以前は、彼はこんな面倒などごめんだったろう。でなくとも、そんなことはできなかったろう。サムナーの酒量は計り知れないが、彼はまた、アルコールに極端なアレルギー反応を示す。かつて彼は13時間連続で吐いてのけたことがある。それでも、彼は少なくとも明るい面を見ている。彼は自分の数多い二日酔い話をするのが好きで、3つを一気に話してくれた。一つ目は、愛車のBMW Z1の車内で耐えられず膝の間にゲロってしまったこと(「みんな俺を見るだろうからドア開けられなくてさ」)。二つ目は、目が覚めたらバケツに頭を突っ込んでいたこと。ベッドのそばに置いていたバケツに、夜気分が悪くなって上から寄りかかったら固定されてしまい、そのままベッドに戻って寝てしまったらしい。三つ目は、嘔吐物で満杯のショッピング・バッグをJFK空港の荷物検査機にかけてしまったこと(「他にどう始末したらいいかわからなかったんだ」)。そんなバカなと思うだろうが-彼は未だに聖歌隊の少年歌手のように無垢に見えるのだから-サムナーはレミー(・モーターヘッド)と同じくらいロックンロールなのだ。


 そしてニュー・オーダーの全てがそうであるように、彼は陽気である。インタビューの合間に、彼とフッキーは冗談や悪ふざけで私たちを楽しませてくれる。今日のメイン・ターゲットは、昨夜しこたま酔っぱらっていたプレス担当のジェインだ。フッキーは自分の半分の齢の人間が履くようなリーバイスをもつれたまま身につけ、部屋中をはね回り、ギターをつかんで即興でジェインの歌をつくる。サムナーの服と身振りは穏やかで、はるかに当たり障りのないやり方をするが、彼のウィットは同じくらい悪質だ。彼は、ジェインをカニンガムと一緒に見せしめにするためのお立ち台が必要だと決めつけた。カニンガムはヒースローでフッキーにひどくぶつかったので、フッキーは離陸前から飛行機のトイレ一面に吐いていたのである。ジェインは、インタビューに戻らなくちゃ、とサムナーを促す。

 「ああ、答えはもう通訳がみんな知ってるよ」サムナーは言う。「俺たちは行って、4番の答えを言ってやれ、って言うだけさ」

 こうしたユーモアとは違い、ニュー・オーダーの音楽は感情的だがクールで、機械駆動で、人工的である。そして彼らのイメージも、陰気なマンチェスター人という南部人の決まり文句のようなものがはびこっている。彼らの歴史もそうで、おふざけに読めるものではない。このバンドが最初に生まれたのは、破滅的で陰気なジョイ・ディヴィジョンとしてであった。サルフォードのクラスメートだったサムナーとフッキーが1976年、マンチェスターのフリー・トレード・ホールでセックス・ピストルズの演奏を見た後に結成したのである。彼らはイアン・カーティスの着ていたジャケットが気に入って(背中に”HATE”と書かれていた)彼をヴォーカリストとして引き込み、広告でモリスを雇った。バンドがアメリカ・ツアーに出ようとしていた1980年5月、てんかん持ちだったイアンは自殺した。彼はたった23歳だった。

 ジョイ・ディヴィジョンは解散し、数ヶ月後にニュー・オーダーとして再結成した。サムナーがヴォーカルとなり、モリスのガールフレンドのジリアンがキーボードとして加わった。新バンドはすぐに新しいサウンドを発見した。その一部は、彼らがニュー・ヨークのナイトクラブで楽しんでいたアメリカの電子音楽シーンに基づいていた。彼らはこうしたクラブに非常に感化されたので、1982年には自分たち独自のバージョンも作ってしまった。マンチェスターのホイットワース・ストリートにあるハシエンダである。「これでうちのマネージャーも行き場ができて、女にちょっかい出せるだろうってね。」彼らは毎晩クラブを開いた。誰も来なかった。ハシエンダは金が流れ出す傷口のようになった。そして1983年、ニュー・オーダーは「ブルー・マンデー」をリリースし、これは史上最も売れた12インチシングルになった。運悪く、ジャケットが高くついたため、レコードが一枚売れる度にバンドは金を損した。フッキーはその額が一枚あたり50ペンスだったという。ファクトリー・レコード社長のトニー・ウィルソンによれば1ポンドである。2ペンス程度というのが妥当なところだろうが、それでも総額は25万ポンド以上だった。

 80年代から90年代はじめにかけて、ニュー・オーダーはすばらしいレコードを何枚かリリースし、非常に売れたが、むしろさらに金を損した。彼らは「Dry 201」というバーをオープンしたが、週末には賑わうものの、平日には枯れ草のようだった。ハシエンダはアシッド・ハウスの頃は非常な人気を博したが、その後悪質な客の問題で潰れてしまった。しかし、銀行口座の残高が痛々しい状況でもなお、ニュー・オーダーのクールさは損なわれなかった。彼らは芸術的であると同時に大衆的でもあり、ダンスやロックのファンからサムナー曰く「サッカーのフーリガンやニキビ面の学生まで」アピールしたことで、申し分のない名声を獲得した。

 しかし彼らは単にファンを感化しただけではなかった。未来にも影響を及ぼしたのである。ハッピー・マンデーズはハシエンダの常連だったし、M-Peopleのマイク・ピカリングやDJ転じてライターのデイヴ・ハスラムもここからキャリアをスタートした。プライマル・スクリームやコーガンのスマッシング・パンプキンズに至る多様なバンドがニュー・オーダーに影響を受けたことを認めている。今でも覚えているが、私はニュー・オーダー第一部の最後となった1993年レディング・フェスティバルのギグを、ちょうどLoaded誌を立ち上げようとしていたジェイムズ・ブラウンと見ていた。彼は群衆を見ながら、「このオーディエンスは僕が自分の雑誌に考えている読者そのものだよ」と言ったのである。それはフーリガンと学生、汗くさい若者と頭でっかちな若者の混じったものだった。

 成功と天才の歴史を分かち合ったにも関わらず、ニュー・オーダーがそのレディングのギグを終えると、彼らはステージを立ち去り、その後まる5年間、会いもせず口もきかずに過ごした。三者 -モリスとジリアンはほとんど常に一体と見なされるからだが- のうち誰も、ニュー・オーダーが再結成するかどうかを知らなかった。今日、そうなっていることに彼らはまだ驚いているようだ。
 では何があったのだろう?
モリス:わからないよ。例によって誰も何も言わなかった。俺たちがアメリカ人か大陸系ヨーロッパ人だったら、泣いて頬をたたき合って抱き合ってたかもしれないけど、でも俺たちは北部の人間だからね。「口に出さず黙って耐えろ、部屋を立ち去ればそれで奴らにはわかる」ってやつさ。

 ニュー・オーダーは長い長い間部屋を出ていた。彼らがいない間、ブリットポップがあり、ブリトニーがあり、ビッグ・ブラザーがあった。大した価値もないお子さまバンドたち。ダンス・ミュージックはポップになり、インディー・ミュージックは衰退した。まだニュー・オーダーに居場所はあるのか?

 日本に来る前、バンドはカニンガムとコーガンをギターに据え、リバプールでウォームアップのギグを行った。会場は古顔で一杯になった。ハッピー・マンデーズのベズとローウェッタ、プライマル・スクリームのマニとボビー、ジャー・ウォブル、デイヴ・ハスラム。ジリアンはギグを照明用の机から見ていたら、後ろの男に声をかけられた。「あんまり動き回らないでくれませんか、うちの母が見られないんで」

 「うちの母って!」

後で私が会ったとき、ジリアンは笑っていた。笑っていたが怒っていた。文句を言った人は、ジリアンが実はニュー・オーダーのメンバーだということを明らかに知らなかったのだ。ジリアンは末娘のグレースが病気なので、ツアーには参加できない。彼女は置き去りにされたように感じている。「ランドール&ホップカークの幽霊みたい。白いスーツを着て出ていって、死んでないわよ!ってやったらいいかしらね」

 しかし問題はこうだ。ニュー・オーダーは死んだか?「Get Ready」から判断すれば、明らかにそうではない。わかるには二回聴く必要があるが、いつも通りキャッチーだし、硬質でギターの層が厚くなったサウンドに、サムナーのいつものおかしな(二つの意味でだが)歌詞がのっている。しかし、8年はポップの世界ではひと昔だ。リバプールでは、30歳以上の観客はニュー・オーダーの演奏を見て恍惚としていた。しかし30以下の観客は、このバンドとは実際何なのかがよくわかっていなかった。彼らはビリー・コーガンを見に来ていたのだ。バンドの関知しないところでは、BBCのRadio Oneが「Get Ready」からのファースト・シングル”Crystal”をプレイリスト入りさせることで、ちょっとした騒ぎがあった。実はこの曲はCリストだったのだが、二週間後にBリストに格上げされたのである。

 もちろん、当のバンドは自分たちがそれに「関与した」かどうかなどということは考えていない。本当にそんなことをやるバンドではないからだ。彼らは、空白期間がそれほど長いとは思っていないに違いない。結局この8年間、実際に働くのをやめたメンバーはいなかった。フッキーはリヴェンジとモナコという2つのバンドを作り、3枚のLPをリリースした。サムナーはジョニー・マーとエレクトロニックで2枚のアルバムを作った。モリスとジリアンはジ・アザー・トゥーとして独自に2枚のCDをものにした。さらに、こうした音楽とは別に、平たく言って生きるための人生というものがあった。フッキーはキャロライン・アハーンと離婚して、インテリア・デザイナーのベッキー・ジョーンズと結婚した。二人にはジェシカという子供がいる。サムナーは長年のガールフレンドであるサラと暮らしていたが「アシッド・ハウスのパーティーでシケた面をしていた。そしてそれから引きこもるようになった」。
 私たちは東京を引き払って、フジヤマ・フェスティバルが開かれる山間のスキー・リゾートに向かった。別のホテルの別のレストランで、サムナーがニュー・オーダーの失われた年月について語る。

「ただのバカげたちょっとした下らない敵意が俺たちを分け隔てていた」と、彼はマンチェスター訛りでつぶやきながら言った。「何千という間抜けで愚かなことがね。みんなに歩かれて磨耗した石の階段を見るようなものさ。そうなる過程を見ることはできないけど、結果は見ることができる。結果はリアルなんだ」

 サムナーにしつこく問えば最後には認めるだろうが、彼が耐えられないのは、フッキーのリンゴの食べ方(「ひでえじゃりじゃりいう音」)とか、スナックを一袋食べた後に指を一本一本しゃぶることとか、「俺の嫌いなレコードをツアーバスの中でかけること」であったりする。しかし本当の説明は、80年代の終わり頃、ニュー・オーダー、とりわけサムナーは、疲れ切ってしまったということだ。ギグを楽しむこととはほど遠い彼は(彼はライブ演奏よりレコーディングを好む)、ニュー・オーダーのどんちゃん騒ぎツアーのためにほとんど廃人寸前になっていた。ギグの後のアメリカ流社交辞令を景気づけるため、バンドは楽屋をちょっとしたナイトクラブにするのが常だった。それから彼らは本物のクラブに飛び込み、ホテルに帰ってもパーティーを続けた。「それで朝の7時になる」とサムナーは振り返る。「それで思うわけさ。よし、えっと、フライトが8時半だ。じゃもうまっすぐ飛行機まで行こう、ってね」

 サムナーは早く寝ようとしたこともあったが、意志が弱く、何とかそうした時は「カンザス・シティーのホテルに一人で座って56チャンネルもある下らないテレビを見てる」羽目になるのだった。こうしたことの全ても、ニュー・オーダーがビジネスとして破綻していなかったら、耐えることができたろう。彼は最後のアメリカ・ツアーから帰国するときのことを覚えている。フッキーとニュー・オーダーのマネージャーだったロブ・グレットンが彼に言ったのは、ハシエンダの凋落を止めるためにギグで稼いだ金を全額つぎ込まなくてはならない、ということだった。これだけ苦しんだのに何にもならない。「それで俺はもうキレちゃったんだ」

 1992年にニュー・オーダーが「Republic」を作っていた時には、緊急会議が毎週行われていた。ハシエンダは儲かっていたが、負債が巨額すぎるために、儲けでは利子を払うのがやっとだった。所有物を抵当に入れることは不可能だった。ファクトリー・レコードは、抵当に物を出すどころではない有様だったからである。

 もちろん全ては崩壊した。ニュー・オーダーには60万ポンドの未払い金があることがわかった。その後の地獄絵図の中で、誰かがファクトリー社長サイン入りの紙切れを見つけた。それにこう書いてあった。「音楽を所有するのはミュージシャンであり、我々は何も所有しない」これはつまり、バンドはこれまで作曲した全ての曲の版権に関して、また将来のレコーディングについて、莫大な契約を結ぶことができるということだった。ロンドン・レコードが、サムナー曰く「騎兵隊のように」ニュー・オーダー獲得に名乗りを上げた。全ては混沌としていた。その紙切れが、ファクトリー唯一の資産を債権者たちの手から首尾よく持ち去ったのである。サムナーは清算人たちの前に出ていったときのことを覚えている。
「彼らはこの紙切れの存在がただ信じられなかった。でもそれはあったんだ。契約はなかった。この紙切れだけだったんだ。彼らは、何日か前に俺たちがそれを書いたことにしようとしたけど、神に誓って、俺たちはそんなことはしなかった。だけど」彼はニヤリと笑った。「もしそれが存在していなかったら、書いてたかもね・・・」

 こんな苦痛の後でニュー・オーダーが姿をくらましてしまったのも無理はない。私は1993年の夏、モントリオールとロスクライドのフェスティバルで、彼らの最後の数日を共に過ごした。覚えているが、サムナーはサウンド・チェックで他の人たちを1時間半待たせていた。それから姿を現したが、コードを2,3弾いただけで立ち去った。考えてみれば、彼は1時間もどっちの時計にするかだらだら選んでいられる人間である。「俺は恐ろしく優柔不断なんだ」彼はうなずく。「それでいて、嫌なことを自分に無理強いはできないんだ。負けず嫌いなんだよ」さらに、サムナーには人を待たせる癖がある。彼は質問に答えるのに時間をかけ、追い打ちをかけるような質問などで気が散って都合が悪くなると、単にそれを無視してしまう。彼はやりたいことを、やりたいときに、やりたい間だけやる。実際の所、ニュー・オーダーに関しては、彼が到着するまでは何も起こらない。つまるところ、その点について言えば、バンドを分裂させたのは彼だったということだ。フッキーはツアーが好きだし、モリスは二年の中断の後にこういっている。「もう終わりだと思ったよ。時間が経てば経つほど、俺たちは元に戻りにくくなるね」

 サムナーは他のメンバーなしでも実にハッピーだった。彼はセイリングを始めた。サラとイギリス中を旅して廻った。子供と一緒に過ごした。時々グレットンからこんな感じの電話がかかってくることもあった。ダラスにいる男が、娘の誕生パーティーに演奏してくれたら1400万ドル出すって言ってるんだけど。だがバンドはそんなことはしなかった。「それほど俺たちは互いを嫌っていたんだ」

 5年後、グレットンが突破口を作った。彼はメンバー一人一人にこんなファックスを送ったのである。君たちのためにフェスティバルを開きたいそうなんだが、やらせてみたいかい?彼らは再会することにした。モリスとサムナーは同じ上着を着て現れた。彼らは皆極端に神経質になっていた。

 「何かかわったことあるかい、って俺は言った」サムナーは振り返る。「するとみんなは、おまえはどうだ?って言った。俺は、何にもないよ、って言った」

 フッキーはサムナーに10ポンド貸しがあると言い張った。その通りだった。3分で全ては再び良好になった。「一体全体何が起こったんだ?って感じだった」サムナーは言う。「今でも俺、起こったことに100%確信が持てないんだ」

 それが1998年のことだった。以来、ニュー・オーダーはゆっくりと仕事に着手し始めた。こちらで二つ三つフェスティバルのギグ、あちらで一つビデオ撮影、というように。彼らはLPを作ることに決めた。レコーディングはダービシャーにあるモリスとジリアンの農場のスタジオで行われた。

 どんな感じだったかモリスに聞いてみた。「連中はやってきて俺のスタジオをめちゃくちゃにしたよ。うええ、こんなミルク嫌だよ、こんなサンドイッチ嫌だよ、これちょっとイッちゃってるぜ、てな具合さ」

 レコーディングの間、モリスの行動は決まっていた。11時起床。誰かが現れるまで、音楽で遊んでみたり掃除したりする。それが1時か2時頃まで。2時半頃に全員が揃うと、仕事するが、5時頃には子供のために切り上げる。遅いプロセスだ。「だけど洗練されてるだろ。でも時間が経つにつれて、こんなのは全部なくなってしまう。サムナーが夜に歌詞を書き始めて、それでご承知の通りさ・・・」

 LPの制作中、バンドの「5人目のメンバー」で、ジョイ・ディヴィジョン時代からのマネージャーだったグレットンが心臓発作に見舞われ他界した。46歳だった。ニュー・オーダーは打ちひしがれた。そしてそれは、モリスが「悲嘆」と呼ぶものの始まりだった。立て続けに起こった出来事のため、彼はエキセントリックな酔っぱらいから、今のようなもっと陰気な男に変わってしまった。彼の父親が病死し、それから彼とジリアンは、18ヶ月になったばかりのグレースが珍しいウイルスに脊髄を犯されており、回復の希望はあるものの、ことによるともう二度と動けないかもしれないということを知った。すぐ後、モリスは食中毒になり、水疱瘡に罹り、背骨を傷めた。彼は酒を止め、寝る前にグラス一杯のワインを飲むだけにしている。「俺をキレさせるネタはもう出尽くしたよ」彼は不満でもなさそうに言った。

「もう・・・たくさんだよ」

モリスはニュー・オーダー第一部以降、最も変化した人物だ。それは特に、ジリアンがいないためである。二人は出会って以来、ほとんど一日も別々にいたことがなかった。「ニュー・オーダーのポール&リンダ・マッカートニーね」と考えもなしに私が言うと、モリスは畏縮した。このバンドはきれいに二つに分かれる。サムナーとフッキーは11の頃から友達で、やかましく目立ちたがりの煽り屋。モリスとジリアンは物静かで分かちがたいが、負けず劣らず無軌道。モリスは彼女がいないと、ちょっと打ちひしがれた感じだ。

「こいつ(バンド)はもう俺の人生じゃない」彼は言った。「俺の人生の小さな一部だ。昔とは違う。あの頃は、うまく行ってなくても、俺たちは家族だった」

 ああ、昔は良かった、って思うの?「いや、今そういうのやってる映画があるだろ、違ったっけ?」

 彼が言っているのは来年公開予定のマイケル・ウインターボトムの 24 Hour Party People のことで、1979年から93年までのファクトリー・レコードをひねった角度から見るはずの映画だ。ハシエンダを再現したセットに行ってみた?

「いや。ジリアンは行ったよ、俺は耐えられなかった。どっちみち、あそこに行って楽しかったことはないんだ。俺はオーナーなのに金を払わないと入れてくれなかった。連中は一度も俺が誰なのかわからなかったんだ。それは実際のところ、今だってそうさ。人が道を渡って俺のところに来るなら、それは俺にサインしてやろうと思ってんのさ」

 まだ死んでもいないのに、自分の人生について映画が作られるのは奇妙なことに違いない。「24Hour Party People」だけではない。アメリカでは、イアン・カーティスの未亡人デビーの書いた本から取材して、ジョイ・ディヴィジョンのストーリーを映画化するという話がある。トラヴィスのストーリーの権利を巡って闘う人間など、想像もできないだろう。しかしニュー・オーダーはそんな神話を作る気にさせる。彼らは全てを生き抜いてきた。死、ドラッグ、酒、破産、敵意、じゃりっとかじったリンゴ、末期的な仕事の遅さ。ニュー・オーダーは25年間、尊厳と信頼性を損なわずに何とかやってこれた。

 その秘密はもちろん、楽曲にある。ギグの前にコーガンは私にこう言った。「彼らはビートルズと同じ天上の存在だよ。彼らのレパートリーは圧倒的だ。」フジヤマでは、ニュー・オーダーのショーケースはこの圧倒的なうちの一部、90分いっぱいだった。サムナーは ‘Touched By The Hand Of God’ を演奏する前の語りでこう言った。「こいつはフッキーのベースが全てだ」フッキーは驚きのあまり倒れそうだった。ニュー・オーダー第一部では、サムナーはフッキーに一度も謝辞を捧げたことなどなかったからだ。私は ‘True Faith’, ‘Temptation’ そして ‘Love Will Tear Us Apart’を聴くために、群衆をかき分けて前に進んだ。最後の二曲では私は涙が出た。

 ポップ界一の激情家フッキーはといえば、自分を抑えることなどとてもできそうにない。彼はそれほど、復帰してこのバンドでプレイし、こうした曲をプレイするのが楽しいのだ。彼は自分で二つのバンドのフロントをやってみて、サムナーがどうしてあれほど物事を難しく思うのかがはじめてわかったと言う。「歌詞ってのはケダモノだよ」彼は簡潔に言った。「そして歌って演奏するってのは殺人的だ」ということは、今や彼はサムナーの努力に感謝するし、サムナーも彼のそれに感謝するというわけだ。「俺は2回奴に礼を言ったことがある」フッキーは言う。「25年間で2回だ。そのことを奴に言ったら、クセにならないようにしろ、だってさ。あのクソッタレが。だからこれほど好きなんだけどな」

 彼は別の酒を求めて出ていく。ニュー・オーダーの楽屋は例によって満員だ。しかしモリスと、驚いたことにサムナーも、もう部屋に帰って寝ていた。フッキーが戻ってくる。

「わかるだろ、生まれ変わったみたいだ」彼は叫ぶ。「ファンタスティックな感じだぜ。人生でこんなにハッピーだったことはない。ロブ・グレットンとイアン・カーティスのために神様に感謝するぞ。あいつら、空の上で俺を応援してくれてるに違えねえ・・・」

 生、死、愛、憎しみ。ポップのつやつやした感情でなく、血と喜びと恐怖と家族の優しさ。ニュー・オーダーの両親が死んだ今、フッキーはバンドが一生の絆を得たと思っている。ではサムナーは?

「家族に不幸があるっていうのは」サムナーは言う。「とてもひどいことだ。でも、時間は過ぎるものだよね。それは循環することの一部なんだ。そんなに傷つくことじゃない。俺にとっては、過去は夢のようなものだよ。だけど現在は、俺はそれがリアルだってことを知ってる。現在のほうがもっとエキサイティングなのさ」