2012/03/16

2012年2月『GQ』バーナード・サムナー

あなたは再びNew Orderとして活動すると思いましたか?
「いや思わなかった・・・でもそれは特に何も計画していなかったというだけで、不可能だとは思ってなかったよ」

ジリアン・ギルバートをバンドに呼び戻す事は難しかったですか?
「その話は1年半前くらいに提案されたんだけど最初はショックを受けたんだ。でも、ジリアンが戻ってくる事だけじゃなく、New Orderとしての活動を再開することも含めて、色々と考えてるうちにそれがだんだんいいアイデアだと思うようになったんだ」

スティーブとジリアンはOther Twoとしても活動していましたし、あなたはBad Lieutenantのセカンドアルバムの制作に関わっていたうえ、Les Rhythmes Digitalesのスチュアート・プライスと一緒にエレクトリック系のアルバムも制作していました。それらの作品の進行状況はどうなっていますか?現在は保留状態なのでしょうか?
「僕らは何をどうするかなんて決めていないんだ。とりあえずNew Orderのギグをやってみて様子を見る事にしたんだ。一歩ずつ先に進むような感じでね。実際、かなりの数のギグをオファーされたんだよ」

ピーター・フックのベースがない状態でどうしていますか?
「別にそんなに難しい事ではないよ。Bad Lieutenantでもベースを弾いていたトム(トム・チャップマン)がやってるんだ。他に手の打ちようも無いから、フッキーのベースパートを他の人間に任せたんだよ。フッキーはそれだとうまくいかないと言ってたけどね・・・フレディー・マーキュリーのいないQueenみたいだって・・・」
そしてSweepがいないSootyだとも・・・(注:英国の有名な児童向け番組The Sooty Showに出てくるキャラクターたち)
「それってどっちがSweepなのか分からないよ。でもBad Lieutenantではうまくいっていたからね。トムはいいベーシストだし、背に腹はかえられない。僕らは前に進まなきゃいけないわけで、そうするしかなかったんだ。ジリアンとも長い間一緒に活動していなかったし、物事というのは長い年月でいろいろと変わっていくものなんだ」

New Orderはいろいろ適応したきた歴史がありますね。
「そう、その通り」

我々は最近ジョニー・マーと話しましたが、彼は“Electronicの新作を作ってみたい”と言っていました。あなたもElectronicとして曲を作ってみたいですか?
「うん、そうだね。ジョニーとはまた一緒に仕事してみたいと思ってるよ。いま彼がソロ作品を作っているのも知ってるし」

現在、ジョニーはThe Healersで活動しているんですが、彼もベーシストを探していましたよ。
「ハハハ・・・みんなベーシストを探しているんだね」

12曲程度なら作ってみたいですか?
「まぁ、12曲くらいならね。ジョニーと仕事をするのはいつも楽しかったよ。彼は偏見の無いミュージシャンで、進取の気性に富んでるんだ。彼はThe Smithsにいた時間よりもむしろElectronicにいた時間の方が長かったと思うよ。今でも仲のいい友達さ」
New Orderの新作を期待することは出来ますか?
「その可能性はある。でも今の僕らはギグに集中してるだけさ」

曲を作る過程についてですが、作詞をするという事は楽しいですか?
「いや、未だに苦労するよ。だんだんと楽になるような事ではないからね」

あなたはときどき作詞する時に行き詰まる事がありますよね?
「いや、僕は作詞をする時にいつも行き詰まるよ。自分が思ういい歌詞を書くためには敢えて苦労しなきゃいけないんだ。苦労をする、というのは夜遅くまで起きて、ワインを飲んで、計画的に書くのではなく、何かひらめくまで待つ事なんだ。自分が一番満足するような言葉というのは自分の意識からではなく、潜在意識からやってくる言葉なんだよ。いつもそれが何となくしっくり来るんだ。それは作曲に関しても同じだと思うね。1つのアルバムを作るとして、1011の歌詞を考えなきゃいけないから、10回か11回もひらめかなきゃいけない。それってすごく難しいことだよ。僕が音楽に関して好きな側面の一つが、音楽自体が抽象的である事なんだよ。ものすごく抽象的でも感情を伝える事が出来る。それが素晴らしいと思う」

あなたの歌詞はあまり情報を含まないけれども、それでも聴く人をいろんな気持ちにさせますね。ドラマチックな内容を点滴みたいに少しずつ垂らしてるかのように。
「僕の性格の一面をちらりと見せてるような感じなんだよ。僕は全てを明かすようなタイプの人間じゃないからね。具体的なコンセプトじゃなくて、むしろイメージや気持ちで考える傾向が強い。頭の中でいろんなイメージを組み立てて、言葉でそのイメージを描写していくんだ」

“今日はこれについて書くんだ”というように前もってストーリーを考えないんですね。
「ときどきやってみたこともあるよ。たとえばLove Vigilantesでは、田舎者のストーリーを書くと決めたんだ。それはベトナム戦争に関する内容で、ある兵士が戦場から戻ってきたんだけど、妻は彼が亡くなったという電報をもらったという話。エンディングは二通りの解釈ができるよ。すでに亡くなっていて幽霊として戻ってきたのか、本当は生きていたのに電報が誤報だったのか。でも妻は電報をもらった時点で自殺してしまった。それってとても田舎っぽい悲劇だよね」

あなたの一番有名な歌詞はThe Perfect Kissの“Pretending not to see his gun, I said Let’s go out and have some fun”だと思いますが、あなたもそう思いますか?
「うん、そうだね。おもしろい事に、最近その曲をいじってたんだけど、この歌の内容ってまったく分からないって思ったよ。The Perfect Kissといえば72時間一睡もしないでレコーディングやミキシングをしたんだ。ほんと殺人的なスケジュールだったよ。僕は自宅でシンセの一部とシンセベースの部分を準備して、残りはロンドンにあるBritannia Rowスタジオで仕上げたんだけど、最後には頭がおかしくなった気がしたね。短期間で制作したのは、その後すぐにオーストラリアツアーがあったからなんだけどさ。72時間一睡もしないで曲を仕上げて、ハロッズ(注:ロンドンにある高級老舗デパート)の近くに借りていたアパートの荷物をまとめた。この時点で朝6時だったよ。それからマンチェスターまで運転して帰って、次の日にはオーストラリアに向けて出発。飛行機で丸一日かかったよ。で、次の日からすぐにツアーに入った。だからものすごく忙しかったんだ」(注:NOOLの掲示板の有力情報によりますと、この超多忙なスケジュールで制作されたのはThe Perfect Kissではなく、Touched By The Hand Of Godだったそうです)
では、歌詞の内容は?トニー・ウィルソンいわく、エイズについての歌詞だそうですが。
「いや、あれはエイズの事なんかじゃないよ!僕はアメリカである男に家にいた時、彼がベッドの下から銃を取り出してきたんだ。それは彼の武器だった。そのあとで僕らは一緒に出かけて素晴らしい夜を過ごしたんだ!」

他にも誇りに思っている歌詞はありますか?
「ジョージ・マイケルがComic Relief(注:英国のチャリティー)のためにやったTrue Faithのカバーは興味深かったね。というのも歌詞をうまく引き出していたと思うから。あれは音楽よりも歌詞の部分が全面に出ていたんだ。彼はあの曲をR&Bっぽいバージョンに仕上げたってことで好き嫌いが分かれるんだけど、少なくとも僕は素晴らしいと思ったよ。さっきも言ったけど、僕は潜在意識から湧いてくる言葉で作詞するから、その時には歌詞の意味がよく分からいないんだ。でも他の誰かが歌うバージョンを聴く事によって、詞の意味が分かる気がするんだ」
隣の部屋で作業をしているスティーブンの様子を見て、New Orderが未だに最先端のテクノロジーを使っているのが分かります。本当に初期の頃から電子機器を使っていたんですね。
1981年のアメリカツアー中、本来ならライブで使うべきではない機材を使っていたんだよ。だからあの時は機材と葛藤していた時間が多かったね。ある時、ツアーマネージャーの一人が“シンセが動かないんだ。ステージに上がって何とかしてくれないか?”って言うんだ。彼(テリー・メイソン)はテクノロジーに疎い人で何がどう動くか分からなかったから、色分けされたケーブルを持ってたんだ。でも当時の僕らはいつも青い照明を使っていたから“バーナード!さっきからケーブルを差し込もうとしてるんだけど、照明のせいで緑が青に見えるし、黄色が赤に見えるんだ!”ってね。だから僕はARPシンセを接続する前に、観客の前でドライバーと工具セットを持ってステージに上がらなきゃいけなかったんだよ」

それはよく起きる事だったんですか?
「うん。ある時、トロントの楽屋で僕はこう言ったんだ。“いったい今度は何だい?”って。そしたら、“何にも動かないんだ、全部いかれてる。エコー・ユニットもだ。とにかく何にも動かないんだ”ってね。それから機材が届かなかったギグもあったよ。確かあれはSimple Mindsとのギグだった。僕らの出番は彼らより先で、テリーが戻ってきてこう言ったんだよ。“機材が無いんだ。税関で何かが起きたみたいで、とにかくまだ何も届いてないんだ”。“でもあと1時間でステージに上がらなきゃいけないんだぜ?”。“もちろんそれは分かってるよ、でも届いてないんだ。機材が全く無いんだよ”。で、僕はその時どうしたかというとペルノーを1本丸ごと飲んだんだよ。でもそれはあまりいいアイデアではなかったね」

1時間で1本を飲んだのですか?
「そこまではよく覚えてないけどね。それで、Simple Mindsに対して“僕たちの機材が届いてないから君たちの後に演奏してもいい?いま税関からこっちに向かってる途中だと思うんだ”と言ったんだけど、“それは出来ない”って断られたんだ。だからギグ全体がだんだん遅れてしまってね。出番は午後9時の予定だったけど、結局11時半になったんだよ。Simple Mindsの方は気が狂いそうになってたね。それでようやく機材が届き、ロブ(マネージャーのロブ・グレットン)がやってきて、“よし、じゃあステージに上がったらまずスティーブがドラムを叩いて、その次にバーナードのアンプを持ち込んでギターを弾いて、最後にフッキーのベースをやればいい”って言ったんだ」

New Orderは他のバンドと比べて混沌とした状況が多かったと思いますか?
「だと思うね。そういう事はよくあったし。そんな時はたいていすごくカオスな状態だったけど、別にあんまり気にしてなかったよ」

メンバーやスタッフのせいでそうだと思いますか?
「ハハハ。確かにそれが原因の一つだったかもしれないね。まさにカオスな状態だったけど、それはそれで雰囲気を高めたし、トニー(トニー・ウィルソン)はそれが気に入っていたよ。そこにはある種の物語があったんだ。確かにいろんな混乱はあったけど、ツアー中はよくある事だし。でも僕らはそれをわざとやっていたわけじゃないんだよ」
去年のインタビューでスティーブンは、その内の二つが故障するという理由で機材がそれぞれ三つずつ必要だと言っていましたが。
「そうだね。あまりにも故障するからマーティン・アッシャーという専門家をオーストラリアツアーに連れていった程だよ。彼は電話通信とかやっていた人で、ソニーの初代のビデオカメラとも関わった人でね。人口知能に関する仕事をするためにカリフォルニアに行ってしまったけど、彼はいいやつだったよ。Unknown Pleasuresを作ってた時、飲んでたブラウン・エールをうっかりアンプにこぼしてしまったんだ。それをマーティン・ハネットが、マーティン・アッシャーに修理させたんだ。あの日は日曜日で、ブラウン・エールを1本飲んでいて、ちょうどレコーディングを始めるところだった。アルバムをレコーディングするのにたった2日しかなかったから、マーティン・アッシャーが修理しに来てくれたんだよ。彼はおもしろい人だった。昔は機材が高くてなかなか手が出せなかったんだよ。シーケンサーを買うなんて、二軒連続住宅(注:英国に多い住宅の形式。壁が仕切りとなって二軒が左右対称となって建てられている)を買うのと同じ事だったからね。だから僕は自分でシンセを組み立てて、マーティン・アッシャーがアドバイスをしてくれたんだ。僕が組み立てて、彼に見てもらいに行くんだ」

今では主にソフトウェアなどを使いますか?
「ああ、今ではコンピューターを使ってるよ。最近、僕たちがやっているのはすごく複雑な視覚効果に関することで、テクノロジーの限界に挑戦してるんだ。だからコンピューターがあまりにも熱くなるので、扇風機を2つ設置してるんだ」

Blue Mondayは画期的な曲だと思いますか?またそれは主にあなたが作ったんですか?
「まあ、そうだと思うね。でももちろん他のメンバーだって貢献したし、フッキーだってベースを弾いてるよ。当時では先端の機材を使ったんだ。僕が組み立てたシーケンサーと、モーグシンセ、そして新しく買ったDMXっていうドラムマシンを使ってね。あの時は、純粋なエレクトロニック・ミュージックに挑戦していたので、機材の限界に挑戦したんだよ。当時の機材では基本的な事しか出来なかったので、数少ない機材でその最大限を引き出そうとしたんだ」

スティーブンは、機材を何かで強く叩けばいい、叩けば機材が動くと言っていました。
「シーケンサーについてはそうだったね。でも僕がはっきりと覚えてるのは、ドラムマシンもそうだったって事。一日中バックトラックを打ち込んでた時、途中で足がDMXのケーブルに引っかかってしまって、電源ケーブルを抜いてしまったんだ。もちろん打ち込んでいたドラムは全部消えてしまったよ。だから最初から全部やり直さなきゃいけなかったんだ。最終的にほとんどやり直すことが出来たんだけどBlue Mondayの元のドラム音は失われてしまったんだよ。元々の音は違ってたんだ。でもおかしな事にそれが僕らの曲の中で最も有名な曲になってしまったけど」

色褪せない曲だと思います。
「あれは曲とは言えないような曲だね。クラブのサウンドシステムでこそよく映える機械のような物だね。当時、僕はファクトリーに所属していたマンチェスター出身のグループ52nd Streetと関わっていた事があって、彼らはファンク系の曲をやっていたんだけど、僕は彼らと一緒にキーボードのエフェクトとかをやっていたんだ。彼らとはいろんなクラブに通ったよ。普段なら自分が行かないようなクラブに行ったりして、そういう所でサブベースの音域に耳を傾けてたんだ。Joy Divisionにいた頃は、そういう音域に耳を傾けるなんて考えなかったよ。フッキーのベースは中音の帯域だったから本当の低音なんて使っていなかったからね。だからは僕らはサブベースも聴こえるような最高のサウンドシステムがあったクラブに行って、その知識をBlue Mondayで活用したんだ。だから気づかない所でBlue Mondayにはいろんなからくりがあるんだ。ベースだけじゃなくて聴こえないような音域も含めてね」

アルバムを作るのというのはあなたにとっては疲れるような作業ですか?
「不愉快な疲れ方という意味ではそうだね。本来はいい経験であるべきなんだけどさ。というのは、アルバムってすごく特別な物だから最後の1ミリまで努力をすべきなんだ。かつて僕は夜に作業してた。ある晴れた日曜の午後にジョニーのところに着いて、“ボーカルは地下室でやらなきゃな”と思ったんだ。するとジョニーはこう言ったんだ。“どうしたんだ?晴れた日にスタジオ入りする以外に望める最高の事なんて無いんだぞ”。それっていかにもジョニーらしいんだけどね。彼は外で陽を浴びるより、スタジオにいる方を好む人間なんだ。だから僕らは午後1時にスタジオ入りして、午前4時半まで出て来なかったんだ。確かあの地下室は2年間使ったと思う。何年も日差しを浴びないような生活だった。でも子供ができると物事は変わってしまうんだ。おかしなことに僕は若い頃、普通の95時仕事には就きたくなかったんだ。とにかく普通の人がする事をしたくなかったから、徹夜をするのは最高だったよ。Bad Lieutenantのアルバムの時は午前2時まで仕事してたけど、今では午前0時までしか仕事をしないんだ。この調子で行けば午後5時半に仕事を終わらせる時も来るかもしれない。最近思ったんだけど、この先また曲作りにとりかかる時は95時で仕事をすると思う。考えてみるとそれは本当にいいアイデアなんだよ。子供の面倒を見る時間やテレビを観る時間もあるからね。なんでみんながそうするのか、今となってようやく分かるんだよ」

なぜあなたはジャムセッションが好きではないのですか?
「キーボードや打ち込みのビートから音楽を作ろうとすると、ジャムセッションは役に立たないんだよ。その都度ビートを打ち込まなきゃいけないからね。僕はジャムセッションがあんまり好きじゃないけど、僕らがやっている事の一部として重要な事だという事はちゃんと分かっているよ。レタスはあんまり好きじゃないけど、体にいいのは分かってるって事と同じさ」

デビッド・ノーラン氏が執筆したあなたの伝記についてですが、執筆されない方が良かったと思っていますか?
「あの本はあまり好きではなかったね。僕は全てのページに目を通して校正をして、その後で彼が出版したんだ。楽しい作業ではなかったよ。自分の人生に誰かが立ち入った感じがするからね。僕は結構プライベートな人間だから」

自伝を執筆する事は考えた事はありますか?
「まだ考えた事はないけど、この先考えるかもしれないね」
ピーター・フックの『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』は読みましたか?
「いや、読んでないよ」

ハシエンダについて下された決断は、全ての状況において最悪な決断ばかりのようですが・・・。
「本を読んでいないので、コメントが出来ないね。何がうまくいかなかったという事については、手短に話せないよ。あの時は結局ハシエンダのビルを買い取ったんだけど、つなぎ融資で買い取ったんだ。ファクトリーの経営が危なっかしい状況にあったし、自分たちの自宅を売却したくなかったので、普通の融資が受け取れなかったんだ。だからすごく高額なつなぎ融資を抱えることになったけど、ハシエンダの客の入りだけでは返せなくなったんだよ。すごく人気があったクラブだったから、木、金、土は大盛況だったけど、融資を返せるほどのお金を稼ぐためには月、火、水も大盛況でなければいけなかったんだ。でもさすがにそれは不可能な事だったんだよ」

この問題についてミーティングをしましたか?
「うん。何年もしたよ。あとの方の段階で、僕とスティーブンがほとんど関わっていなかったというフッキーの言い分は聞いたよ。でも実際にはもっとあるんだ。僕も最初の頃はたくさん関わっていたよ。フッキーいわく、1人ずつ100万ポンドを投資したんだ。でもどれだけお金を投資したか見ると、それはもはや痛々しい程になっていたんだよ。僕は“借金を返せるほどの集客が望めない以上はうまく行かないと思う。もう十分だよ”って言ったんだ。それで僕らはこれ以上お金を投資しないことにしたんだ。フッキーはうまくいくと思ってたけど、僕らはうまくいかないと思っていたんだ。結局彼らはそのままの状態でクラブの経営をして、やっぱりうまくいかなかったんだよ。それで最終的にクラブは売却された。あのあと追加で投資をした分は彼らに戻ってきたんだ。でも僕らには何も戻って来なかった。だから、ハシエンダの名前の使用権を彼が買い取った事について、興味がなかったというのは確かに本当だけど、それだけじゃないんだよ。僕らは100万ポンドを投資したけど、彼は都合良くその事実を無視するんだ。彼らは結果的に僕らよりもお金を多く費やしたわけじゃないんだよ。というのは、彼らが余分に費やした分はちゃんと戻ってきたからね。だからむしろ僕たちの方こそハシエンダの名前の使用権を持つべきだと思うんだ」
ハシエンダが存在しなかったら、New Orderはそんなに成功を収めなかったかもしれませんね。
「答えを出すのが不可能な質問だけど、僕らにとってはそんなにプレッシャーがかかった状態ではなかったかもしれないね。それはいい事もあるし、悪いこともあるよ。それでもまあ文句はないよ。今の僕はいい家に住んでるし、いい車も持ってるし、それに関しては不満がないよ。自分のエゴで手放せなかったんだ。勝てない馬に賭けているような事だ。面子を保つためにお金を投資し続けたわけだよ」

でもハシエンダはこの国を変えたんですよね。
「確かにそうだったよ。ロブにとっては自慢の種だった。なんで彼がやったかというと、この国を変えたかったんじゃなくて、マンチェスターを変えたかったからなんだよ。彼は“ここは俺たちが住んでる場所だから、ここをより良い場所にしなければいけない”という考えだったけど、結果的に国を変えることになったんだ。だからいい事もあったし、悪いこともあったのさ」

New Orderのメンバーたちの間ではいろいろありましたが、バンドについていろんな人に話してもメンバー同士の相性が良かったとみんな言っていました。スティーブンは“他のグループの一員である4人のソロアーティストたちの集まり”という表現をしていました。でもなぜかうまくいきましたよね。
「まあでもいろんな嫌な事もあったよ。確かにいろんな素晴らしい事も成し遂げたけどね。それは僕やフッキーも含めてなんだけど、僕らはまったく異なるタイプの人間なんだよ。僕が思うにはエゴのせいで馬鹿げた妨害もあったんだ。それはもういろんな相違があったよ。フッキーはツアーに出るのが好きだったけど、僕はそうでもなかったんだ。言っちゃ悪いけど、年を重ねて家族や子供がいると、20代の頃と比べてあまりツアーをしたくなくなるんだよ。彼はそれにあまりうまく対処できなかったんだ。僕にとってはフッキーと一緒にツアーをするか、子供と一緒に過ごすかの選択だったんだよ。僕だったら子供と一緒に過ごしたいと思うんだ。年を重ねるとそうなるもんさ。もちろんギグをやりたくないというわけじゃないよ。たしかに僕らは結構ギグをこなしていた。でも他の人と仕事をする時は妥協しなきゃいけないんだよ」
一緒に仕事をしたかったプロデューサーはいますか?例えばブライアン・イーノとか。
「そうだね。確かにそういう話もあったよ。実は、前のアルバムではブライアン・イーノと話をしたけど、何らかの理由でボツになったんだ。僕はたくさんのプロデューサーと仕事をするのが好きだったよ。スティーブ・オズボーン、アーサー・ベイカー、スティーブン・ヘイグ、マーティン・ハネット、ジョン・レッキー、スティーブン・ストリート、スチュアート・プライス・・・。これだけたくさんのプロデューサーと仕事をしたひとつの理由は、僕ら(バーニーとフッキーの事)の仲が悪かったからだよ。僕がノーと言えば、フッキーはイエスと言うし、僕が黒と言えば彼は白と言う。エゴのせいだったよ。だから決断を下すためにプロデューサーを使ったんだ。それから、新しい事も学ばなきゃいけないけど、新しい事を学ぶには・・・これはポジティブな理由なんだけど・・・新しいプロデューサーを使わなきゃいけないんだよ。いろんな人たちはそれぞれの方法で物事に取り掛かるからね。僕らだけでもやっていけたかもしれないけど、それだとあまりにも多くの揉め事があっただろうね。“これは嫌だ。あれはしたくない”ってね。それは子供じみた事だし、気力の無駄使いだよ」

なぜWorld in Motionのプロモの中でエルヴィスの格好をしたのですか?
「よくわからないなぁ。あれはバカな発想だったね。あの時はジョニーの家で着替えたんだよ。当時、彼は2匹のジャーマン・シェパードを飼っていたんだ。その2匹は普段だったら僕に対して平気だったんだけど、エルヴィスの格好をして出てきたら、誰だか分からなかったみたいで僕を追いかけ回したんだ。そのあと、撮影場所のリヴァプールまで屋根なしのスポーツカーを運転したんだけど、僕は間違って別のサッカー場に着いてしまってね。その時ちょうど学校帰りの子供たちが乗っていたバスがやってきて、“おいエルヴィス!カツラをくれよ!”って僕に向かって叫んだり、物を投げつけたりしたんだよ」

かつてあなたはいろいろ夜遊びして楽しんだと思います。特に思い出深い夜はありましたか?
「アメリカでのパーティーで、死ぬかと思った時があったよ。確かDe La Soulと一緒にフェスをやった時。あまりに酔っていて悪魔が自分に取り憑いてると思ったんだ。もし踊るのをやめたら悪魔が自分を滅ぼすんじゃないかと思ってすごく怖かったよ。でも実際に踊るのをやめたら、最悪な夜になってしまったんだけどね。そして次の日にもギグがあったんだ。結構過激だったよ」

Factoryはとてもクリエイティブだけども気難しい人々の集まりでしたか?
「FactoryやNew OrderJoy Divisionを見てあのビジネスモデルをまた使う事は出来ないと思うんだ。とにかくカオスな方法でいろんな人がいろいろやっていたからね。でも奇妙な事にそれは成功したように見えた。振り返ってみると、唯一言えることは楽しかったっていう事だよ。僕らはお菓子屋にいる子供たちのようだったよ・・・でもそのお菓子を作っていたのは僕らだったんだけどね」

http://www.gq-magazine.co.uk/entertainment/articles/2012-02/28/bernard-sumner-interview-2012-new-order

2012/03/14

2001年8月『MOJO』ニュー・オーダー

2001年7月東京。日本はメルトダウンしている。

 ソニーの四半期収益は90%下落。国の厚生プログラムは崩壊寸前。若者の暴力や失業率は記録的な高さ。明日の総選挙で勝つであろう男の仕事は、まず髪型をキメておくことだ。こんなことには何の関心も持たず、ホテルオークラの外にたむろしている中年欧米人の集団がいる。連中は遥かにレベルの高いことを考えているのだ。

 「ハローキティーショップはどこかなあ?」バーナード・サムナーはすぐ近くのタクシー運転手に頼み込む。「そこにやってくれ。キティーワールドに!」彼は怒鳴りながら飛び乗る。それから私を見てこう言い張る。「あれってラップ・ダンシングのクラブのことだよね?」

 そうです!少し前なら、ニュー・オーダーの童顔シンガー兼ギタリストは一晩中ラップ・ダンシングしまくったろうし、自分がおもちゃ屋にいたことをジャーナリストに手放しで認めていただろう。だが、これはニュー・オーダー第二部である。成長期なのだ。大人らしさというものはもっと早く来るもんじゃ ないかと思うかもしれない -何たってバンドのメンバーは皆40かそこらなのだから- が、1993年、つまり彼らが最後に注目されていた頃、「この20年間で最も文化的に重要なイギリスのバンド」(Uncut 誌)は傲慢なまでにティーンエージャー風の生き方をしていた。「みんないつもパーティーしたがってたね」とサムナーは振り返る。「俺たち楽しかったよ」

 音楽業界というのはそんな振る舞いにぴったりにできている、というか今でもそうだ。25歳になったこのバンドは、コールドプレイのどのメンバーよりも年上である。8年前に中断を迎えるまで、ニュー・オーダーは快楽主義まみれの17年を過ごしてきた。そして今、彼らは戻ってきた。「何が違うかって?」ドラマーのスティーヴン・モリスは言う。「全部。でなきゃ、何にも。俺たちはもうプロなんだ。」

 彼がプロと言うことの意味は、ニュー・オーダーはかつてのような過激色が薄れ、よりクリーンな暮らしぶりになったということだ。インタビューの途中で出ていく可能性は少なくなり、朝8時前に起きる可能性は高くなった。だが彼の言っていることはまた、ニュー・オーダーの4人、サムナー、モリス、ベーシストのピーター・”フッキー”・フック、キーボーディストのジリアン・ギルバートにとって、音楽は今や生活に対する意味での仕事なのだ、ということでもある。最近は家族のことが頭にある。ニュー・オーダーは8人の子持ちである。だからハローキティーというわけだ。

 「俺たち、キティーにハローって言うんだよ。キディー・ランドって店でね。何フロアかあるデパートで、えげつなく可愛いマンガのキャラでいっぱいの所さ。可愛らしいアフロ・ケンっていうけむくじゃらの子犬もいるんだ」

 ニュー・オーダー装填完了。フッキーはポータブルカラオケを発見、店内で「ワンツーワンツー」とでかい音をたててテストする。ゲームボーイをガチャガチャいわせて付近の子供を怯えさせる。それから繰り出したのは渋谷だ。ネオンだらけのショッピング・エリアで、ジャンクマニアが欲しいものは何でも売っている。サムナーは二つの同じような腕時計を前に錯乱。「どう思う?暗い文字盤かな白い文字盤かな?こっちはバックライト付きだ・・・」他のみんなは店の外で彼を待っている。一時間も。

 まもなく夜は加速。ニュー・オーダー関係者の食事会だ。中にはプロデューサーでバンドの長年の友人でもあるアーサー・ベイカー、ジリアンの代わりにライブの仕事を請け負ったフィル・カニンガム(ジリアンはイングランドにいる)、そして今では消滅したアメリカのゴス・ロック・グループ、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンがいる。コーガンは妙なことに、ニュー・オーダーの新LP「Get Ready」に参加しており、明日のフジヤマ・フェスティバルでもギターを弾くことになっている。妙な、というのは、ニュー・オーダーがどこまでもマンチェスター的なのに、一方のコーガンはとてもとてもアメリカ的だからだ。彼はマクドナルドのことを「ゴールデン・アーチ」と呼ぶ。

 ともかく、コーガンの主張で、私たちの一部はレキシントン・クィーンズで飲み直すことに。狂ったモデルで一杯の、とことんばかげたナイトクラブだ。「あいつはロックスターが出入りしてる場所って言ってたのに」サムナーは言う。「でもこれハード・ロック・カフェと同じようなもんだよね?」私がトイレに行くと、二人の女の子がヒステリックにしゃべっているのが聞こえる。「だからここに来ようっていったでしょ」一人が息をつく。「ビリー・コーガンがいるよ!」フッキーはすぐに出ていった。モリスは最初から来なかった。サムナーとコーガンは居座った。コーガンは水を飲み、女たちを受け流す。サムナーはペルノを飲んでリッキー・マーティンで踊る。結局、もう一軒バーを廻り、ホテルの回転ドアでくるくる踊ったあと、彼は寝床についた。朝の4時。45歳にしてはなかなかだ。昔からの癖はなかなか直らない。ニュー・オーダーはいつもと大して変わっていなかった。

 しかし次の日、違いがわかった。サムナーは10時に起きて、愛想を振りまくための準備を整えていた。プロモーション用のインタビュー7時間半である。以前は、彼はこんな面倒などごめんだったろう。でなくとも、そんなことはできなかったろう。サムナーの酒量は計り知れないが、彼はまた、アルコールに極端なアレルギー反応を示す。かつて彼は13時間連続で吐いてのけたことがある。それでも、彼は少なくとも明るい面を見ている。彼は自分の数多い二日酔い話をするのが好きで、3つを一気に話してくれた。一つ目は、愛車のBMW Z1の車内で耐えられず膝の間にゲロってしまったこと(「みんな俺を見るだろうからドア開けられなくてさ」)。二つ目は、目が覚めたらバケツに頭を突っ込んでいたこと。ベッドのそばに置いていたバケツに、夜気分が悪くなって上から寄りかかったら固定されてしまい、そのままベッドに戻って寝てしまったらしい。三つ目は、嘔吐物で満杯のショッピング・バッグをJFK空港の荷物検査機にかけてしまったこと(「他にどう始末したらいいかわからなかったんだ」)。そんなバカなと思うだろうが-彼は未だに聖歌隊の少年歌手のように無垢に見えるのだから-サムナーはレミー(・モーターヘッド)と同じくらいロックンロールなのだ。


 そしてニュー・オーダーの全てがそうであるように、彼は陽気である。インタビューの合間に、彼とフッキーは冗談や悪ふざけで私たちを楽しませてくれる。今日のメイン・ターゲットは、昨夜しこたま酔っぱらっていたプレス担当のジェインだ。フッキーは自分の半分の齢の人間が履くようなリーバイスをもつれたまま身につけ、部屋中をはね回り、ギターをつかんで即興でジェインの歌をつくる。サムナーの服と身振りは穏やかで、はるかに当たり障りのないやり方をするが、彼のウィットは同じくらい悪質だ。彼は、ジェインをカニンガムと一緒に見せしめにするためのお立ち台が必要だと決めつけた。カニンガムはヒースローでフッキーにひどくぶつかったので、フッキーは離陸前から飛行機のトイレ一面に吐いていたのである。ジェインは、インタビューに戻らなくちゃ、とサムナーを促す。

 「ああ、答えはもう通訳がみんな知ってるよ」サムナーは言う。「俺たちは行って、4番の答えを言ってやれ、って言うだけさ」

 こうしたユーモアとは違い、ニュー・オーダーの音楽は感情的だがクールで、機械駆動で、人工的である。そして彼らのイメージも、陰気なマンチェスター人という南部人の決まり文句のようなものがはびこっている。彼らの歴史もそうで、おふざけに読めるものではない。このバンドが最初に生まれたのは、破滅的で陰気なジョイ・ディヴィジョンとしてであった。サルフォードのクラスメートだったサムナーとフッキーが1976年、マンチェスターのフリー・トレード・ホールでセックス・ピストルズの演奏を見た後に結成したのである。彼らはイアン・カーティスの着ていたジャケットが気に入って(背中に”HATE”と書かれていた)彼をヴォーカリストとして引き込み、広告でモリスを雇った。バンドがアメリカ・ツアーに出ようとしていた1980年5月、てんかん持ちだったイアンは自殺した。彼はたった23歳だった。

 ジョイ・ディヴィジョンは解散し、数ヶ月後にニュー・オーダーとして再結成した。サムナーがヴォーカルとなり、モリスのガールフレンドのジリアンがキーボードとして加わった。新バンドはすぐに新しいサウンドを発見した。その一部は、彼らがニュー・ヨークのナイトクラブで楽しんでいたアメリカの電子音楽シーンに基づいていた。彼らはこうしたクラブに非常に感化されたので、1982年には自分たち独自のバージョンも作ってしまった。マンチェスターのホイットワース・ストリートにあるハシエンダである。「これでうちのマネージャーも行き場ができて、女にちょっかい出せるだろうってね。」彼らは毎晩クラブを開いた。誰も来なかった。ハシエンダは金が流れ出す傷口のようになった。そして1983年、ニュー・オーダーは「ブルー・マンデー」をリリースし、これは史上最も売れた12インチシングルになった。運悪く、ジャケットが高くついたため、レコードが一枚売れる度にバンドは金を損した。フッキーはその額が一枚あたり50ペンスだったという。ファクトリー・レコード社長のトニー・ウィルソンによれば1ポンドである。2ペンス程度というのが妥当なところだろうが、それでも総額は25万ポンド以上だった。

 80年代から90年代はじめにかけて、ニュー・オーダーはすばらしいレコードを何枚かリリースし、非常に売れたが、むしろさらに金を損した。彼らは「Dry 201」というバーをオープンしたが、週末には賑わうものの、平日には枯れ草のようだった。ハシエンダはアシッド・ハウスの頃は非常な人気を博したが、その後悪質な客の問題で潰れてしまった。しかし、銀行口座の残高が痛々しい状況でもなお、ニュー・オーダーのクールさは損なわれなかった。彼らは芸術的であると同時に大衆的でもあり、ダンスやロックのファンからサムナー曰く「サッカーのフーリガンやニキビ面の学生まで」アピールしたことで、申し分のない名声を獲得した。

 しかし彼らは単にファンを感化しただけではなかった。未来にも影響を及ぼしたのである。ハッピー・マンデーズはハシエンダの常連だったし、M-Peopleのマイク・ピカリングやDJ転じてライターのデイヴ・ハスラムもここからキャリアをスタートした。プライマル・スクリームやコーガンのスマッシング・パンプキンズに至る多様なバンドがニュー・オーダーに影響を受けたことを認めている。今でも覚えているが、私はニュー・オーダー第一部の最後となった1993年レディング・フェスティバルのギグを、ちょうどLoaded誌を立ち上げようとしていたジェイムズ・ブラウンと見ていた。彼は群衆を見ながら、「このオーディエンスは僕が自分の雑誌に考えている読者そのものだよ」と言ったのである。それはフーリガンと学生、汗くさい若者と頭でっかちな若者の混じったものだった。

 成功と天才の歴史を分かち合ったにも関わらず、ニュー・オーダーがそのレディングのギグを終えると、彼らはステージを立ち去り、その後まる5年間、会いもせず口もきかずに過ごした。三者 -モリスとジリアンはほとんど常に一体と見なされるからだが- のうち誰も、ニュー・オーダーが再結成するかどうかを知らなかった。今日、そうなっていることに彼らはまだ驚いているようだ。
 では何があったのだろう?
モリス:わからないよ。例によって誰も何も言わなかった。俺たちがアメリカ人か大陸系ヨーロッパ人だったら、泣いて頬をたたき合って抱き合ってたかもしれないけど、でも俺たちは北部の人間だからね。「口に出さず黙って耐えろ、部屋を立ち去ればそれで奴らにはわかる」ってやつさ。

 ニュー・オーダーは長い長い間部屋を出ていた。彼らがいない間、ブリットポップがあり、ブリトニーがあり、ビッグ・ブラザーがあった。大した価値もないお子さまバンドたち。ダンス・ミュージックはポップになり、インディー・ミュージックは衰退した。まだニュー・オーダーに居場所はあるのか?

 日本に来る前、バンドはカニンガムとコーガンをギターに据え、リバプールでウォームアップのギグを行った。会場は古顔で一杯になった。ハッピー・マンデーズのベズとローウェッタ、プライマル・スクリームのマニとボビー、ジャー・ウォブル、デイヴ・ハスラム。ジリアンはギグを照明用の机から見ていたら、後ろの男に声をかけられた。「あんまり動き回らないでくれませんか、うちの母が見られないんで」

 「うちの母って!」

後で私が会ったとき、ジリアンは笑っていた。笑っていたが怒っていた。文句を言った人は、ジリアンが実はニュー・オーダーのメンバーだということを明らかに知らなかったのだ。ジリアンは末娘のグレースが病気なので、ツアーには参加できない。彼女は置き去りにされたように感じている。「ランドール&ホップカークの幽霊みたい。白いスーツを着て出ていって、死んでないわよ!ってやったらいいかしらね」

 しかし問題はこうだ。ニュー・オーダーは死んだか?「Get Ready」から判断すれば、明らかにそうではない。わかるには二回聴く必要があるが、いつも通りキャッチーだし、硬質でギターの層が厚くなったサウンドに、サムナーのいつものおかしな(二つの意味でだが)歌詞がのっている。しかし、8年はポップの世界ではひと昔だ。リバプールでは、30歳以上の観客はニュー・オーダーの演奏を見て恍惚としていた。しかし30以下の観客は、このバンドとは実際何なのかがよくわかっていなかった。彼らはビリー・コーガンを見に来ていたのだ。バンドの関知しないところでは、BBCのRadio Oneが「Get Ready」からのファースト・シングル”Crystal”をプレイリスト入りさせることで、ちょっとした騒ぎがあった。実はこの曲はCリストだったのだが、二週間後にBリストに格上げされたのである。

 もちろん、当のバンドは自分たちがそれに「関与した」かどうかなどということは考えていない。本当にそんなことをやるバンドではないからだ。彼らは、空白期間がそれほど長いとは思っていないに違いない。結局この8年間、実際に働くのをやめたメンバーはいなかった。フッキーはリヴェンジとモナコという2つのバンドを作り、3枚のLPをリリースした。サムナーはジョニー・マーとエレクトロニックで2枚のアルバムを作った。モリスとジリアンはジ・アザー・トゥーとして独自に2枚のCDをものにした。さらに、こうした音楽とは別に、平たく言って生きるための人生というものがあった。フッキーはキャロライン・アハーンと離婚して、インテリア・デザイナーのベッキー・ジョーンズと結婚した。二人にはジェシカという子供がいる。サムナーは長年のガールフレンドであるサラと暮らしていたが「アシッド・ハウスのパーティーでシケた面をしていた。そしてそれから引きこもるようになった」。
 私たちは東京を引き払って、フジヤマ・フェスティバルが開かれる山間のスキー・リゾートに向かった。別のホテルの別のレストランで、サムナーがニュー・オーダーの失われた年月について語る。

「ただのバカげたちょっとした下らない敵意が俺たちを分け隔てていた」と、彼はマンチェスター訛りでつぶやきながら言った。「何千という間抜けで愚かなことがね。みんなに歩かれて磨耗した石の階段を見るようなものさ。そうなる過程を見ることはできないけど、結果は見ることができる。結果はリアルなんだ」

 サムナーにしつこく問えば最後には認めるだろうが、彼が耐えられないのは、フッキーのリンゴの食べ方(「ひでえじゃりじゃりいう音」)とか、スナックを一袋食べた後に指を一本一本しゃぶることとか、「俺の嫌いなレコードをツアーバスの中でかけること」であったりする。しかし本当の説明は、80年代の終わり頃、ニュー・オーダー、とりわけサムナーは、疲れ切ってしまったということだ。ギグを楽しむこととはほど遠い彼は(彼はライブ演奏よりレコーディングを好む)、ニュー・オーダーのどんちゃん騒ぎツアーのためにほとんど廃人寸前になっていた。ギグの後のアメリカ流社交辞令を景気づけるため、バンドは楽屋をちょっとしたナイトクラブにするのが常だった。それから彼らは本物のクラブに飛び込み、ホテルに帰ってもパーティーを続けた。「それで朝の7時になる」とサムナーは振り返る。「それで思うわけさ。よし、えっと、フライトが8時半だ。じゃもうまっすぐ飛行機まで行こう、ってね」

 サムナーは早く寝ようとしたこともあったが、意志が弱く、何とかそうした時は「カンザス・シティーのホテルに一人で座って56チャンネルもある下らないテレビを見てる」羽目になるのだった。こうしたことの全ても、ニュー・オーダーがビジネスとして破綻していなかったら、耐えることができたろう。彼は最後のアメリカ・ツアーから帰国するときのことを覚えている。フッキーとニュー・オーダーのマネージャーだったロブ・グレットンが彼に言ったのは、ハシエンダの凋落を止めるためにギグで稼いだ金を全額つぎ込まなくてはならない、ということだった。これだけ苦しんだのに何にもならない。「それで俺はもうキレちゃったんだ」

 1992年にニュー・オーダーが「Republic」を作っていた時には、緊急会議が毎週行われていた。ハシエンダは儲かっていたが、負債が巨額すぎるために、儲けでは利子を払うのがやっとだった。所有物を抵当に入れることは不可能だった。ファクトリー・レコードは、抵当に物を出すどころではない有様だったからである。

 もちろん全ては崩壊した。ニュー・オーダーには60万ポンドの未払い金があることがわかった。その後の地獄絵図の中で、誰かがファクトリー社長サイン入りの紙切れを見つけた。それにこう書いてあった。「音楽を所有するのはミュージシャンであり、我々は何も所有しない」これはつまり、バンドはこれまで作曲した全ての曲の版権に関して、また将来のレコーディングについて、莫大な契約を結ぶことができるということだった。ロンドン・レコードが、サムナー曰く「騎兵隊のように」ニュー・オーダー獲得に名乗りを上げた。全ては混沌としていた。その紙切れが、ファクトリー唯一の資産を債権者たちの手から首尾よく持ち去ったのである。サムナーは清算人たちの前に出ていったときのことを覚えている。
「彼らはこの紙切れの存在がただ信じられなかった。でもそれはあったんだ。契約はなかった。この紙切れだけだったんだ。彼らは、何日か前に俺たちがそれを書いたことにしようとしたけど、神に誓って、俺たちはそんなことはしなかった。だけど」彼はニヤリと笑った。「もしそれが存在していなかったら、書いてたかもね・・・」

 こんな苦痛の後でニュー・オーダーが姿をくらましてしまったのも無理はない。私は1993年の夏、モントリオールとロスクライドのフェスティバルで、彼らの最後の数日を共に過ごした。覚えているが、サムナーはサウンド・チェックで他の人たちを1時間半待たせていた。それから姿を現したが、コードを2,3弾いただけで立ち去った。考えてみれば、彼は1時間もどっちの時計にするかだらだら選んでいられる人間である。「俺は恐ろしく優柔不断なんだ」彼はうなずく。「それでいて、嫌なことを自分に無理強いはできないんだ。負けず嫌いなんだよ」さらに、サムナーには人を待たせる癖がある。彼は質問に答えるのに時間をかけ、追い打ちをかけるような質問などで気が散って都合が悪くなると、単にそれを無視してしまう。彼はやりたいことを、やりたいときに、やりたい間だけやる。実際の所、ニュー・オーダーに関しては、彼が到着するまでは何も起こらない。つまるところ、その点について言えば、バンドを分裂させたのは彼だったということだ。フッキーはツアーが好きだし、モリスは二年の中断の後にこういっている。「もう終わりだと思ったよ。時間が経てば経つほど、俺たちは元に戻りにくくなるね」

 サムナーは他のメンバーなしでも実にハッピーだった。彼はセイリングを始めた。サラとイギリス中を旅して廻った。子供と一緒に過ごした。時々グレットンからこんな感じの電話がかかってくることもあった。ダラスにいる男が、娘の誕生パーティーに演奏してくれたら1400万ドル出すって言ってるんだけど。だがバンドはそんなことはしなかった。「それほど俺たちは互いを嫌っていたんだ」

 5年後、グレットンが突破口を作った。彼はメンバー一人一人にこんなファックスを送ったのである。君たちのためにフェスティバルを開きたいそうなんだが、やらせてみたいかい?彼らは再会することにした。モリスとサムナーは同じ上着を着て現れた。彼らは皆極端に神経質になっていた。

 「何かかわったことあるかい、って俺は言った」サムナーは振り返る。「するとみんなは、おまえはどうだ?って言った。俺は、何にもないよ、って言った」

 フッキーはサムナーに10ポンド貸しがあると言い張った。その通りだった。3分で全ては再び良好になった。「一体全体何が起こったんだ?って感じだった」サムナーは言う。「今でも俺、起こったことに100%確信が持てないんだ」

 それが1998年のことだった。以来、ニュー・オーダーはゆっくりと仕事に着手し始めた。こちらで二つ三つフェスティバルのギグ、あちらで一つビデオ撮影、というように。彼らはLPを作ることに決めた。レコーディングはダービシャーにあるモリスとジリアンの農場のスタジオで行われた。

 どんな感じだったかモリスに聞いてみた。「連中はやってきて俺のスタジオをめちゃくちゃにしたよ。うええ、こんなミルク嫌だよ、こんなサンドイッチ嫌だよ、これちょっとイッちゃってるぜ、てな具合さ」

 レコーディングの間、モリスの行動は決まっていた。11時起床。誰かが現れるまで、音楽で遊んでみたり掃除したりする。それが1時か2時頃まで。2時半頃に全員が揃うと、仕事するが、5時頃には子供のために切り上げる。遅いプロセスだ。「だけど洗練されてるだろ。でも時間が経つにつれて、こんなのは全部なくなってしまう。サムナーが夜に歌詞を書き始めて、それでご承知の通りさ・・・」

 LPの制作中、バンドの「5人目のメンバー」で、ジョイ・ディヴィジョン時代からのマネージャーだったグレットンが心臓発作に見舞われ他界した。46歳だった。ニュー・オーダーは打ちひしがれた。そしてそれは、モリスが「悲嘆」と呼ぶものの始まりだった。立て続けに起こった出来事のため、彼はエキセントリックな酔っぱらいから、今のようなもっと陰気な男に変わってしまった。彼の父親が病死し、それから彼とジリアンは、18ヶ月になったばかりのグレースが珍しいウイルスに脊髄を犯されており、回復の希望はあるものの、ことによるともう二度と動けないかもしれないということを知った。すぐ後、モリスは食中毒になり、水疱瘡に罹り、背骨を傷めた。彼は酒を止め、寝る前にグラス一杯のワインを飲むだけにしている。「俺をキレさせるネタはもう出尽くしたよ」彼は不満でもなさそうに言った。

「もう・・・たくさんだよ」

モリスはニュー・オーダー第一部以降、最も変化した人物だ。それは特に、ジリアンがいないためである。二人は出会って以来、ほとんど一日も別々にいたことがなかった。「ニュー・オーダーのポール&リンダ・マッカートニーね」と考えもなしに私が言うと、モリスは畏縮した。このバンドはきれいに二つに分かれる。サムナーとフッキーは11の頃から友達で、やかましく目立ちたがりの煽り屋。モリスとジリアンは物静かで分かちがたいが、負けず劣らず無軌道。モリスは彼女がいないと、ちょっと打ちひしがれた感じだ。

「こいつ(バンド)はもう俺の人生じゃない」彼は言った。「俺の人生の小さな一部だ。昔とは違う。あの頃は、うまく行ってなくても、俺たちは家族だった」

 ああ、昔は良かった、って思うの?「いや、今そういうのやってる映画があるだろ、違ったっけ?」

 彼が言っているのは来年公開予定のマイケル・ウインターボトムの 24 Hour Party People のことで、1979年から93年までのファクトリー・レコードをひねった角度から見るはずの映画だ。ハシエンダを再現したセットに行ってみた?

「いや。ジリアンは行ったよ、俺は耐えられなかった。どっちみち、あそこに行って楽しかったことはないんだ。俺はオーナーなのに金を払わないと入れてくれなかった。連中は一度も俺が誰なのかわからなかったんだ。それは実際のところ、今だってそうさ。人が道を渡って俺のところに来るなら、それは俺にサインしてやろうと思ってんのさ」

 まだ死んでもいないのに、自分の人生について映画が作られるのは奇妙なことに違いない。「24Hour Party People」だけではない。アメリカでは、イアン・カーティスの未亡人デビーの書いた本から取材して、ジョイ・ディヴィジョンのストーリーを映画化するという話がある。トラヴィスのストーリーの権利を巡って闘う人間など、想像もできないだろう。しかしニュー・オーダーはそんな神話を作る気にさせる。彼らは全てを生き抜いてきた。死、ドラッグ、酒、破産、敵意、じゃりっとかじったリンゴ、末期的な仕事の遅さ。ニュー・オーダーは25年間、尊厳と信頼性を損なわずに何とかやってこれた。

 その秘密はもちろん、楽曲にある。ギグの前にコーガンは私にこう言った。「彼らはビートルズと同じ天上の存在だよ。彼らのレパートリーは圧倒的だ。」フジヤマでは、ニュー・オーダーのショーケースはこの圧倒的なうちの一部、90分いっぱいだった。サムナーは ‘Touched By The Hand Of God’ を演奏する前の語りでこう言った。「こいつはフッキーのベースが全てだ」フッキーは驚きのあまり倒れそうだった。ニュー・オーダー第一部では、サムナーはフッキーに一度も謝辞を捧げたことなどなかったからだ。私は ‘True Faith’, ‘Temptation’ そして ‘Love Will Tear Us Apart’を聴くために、群衆をかき分けて前に進んだ。最後の二曲では私は涙が出た。

 ポップ界一の激情家フッキーはといえば、自分を抑えることなどとてもできそうにない。彼はそれほど、復帰してこのバンドでプレイし、こうした曲をプレイするのが楽しいのだ。彼は自分で二つのバンドのフロントをやってみて、サムナーがどうしてあれほど物事を難しく思うのかがはじめてわかったと言う。「歌詞ってのはケダモノだよ」彼は簡潔に言った。「そして歌って演奏するってのは殺人的だ」ということは、今や彼はサムナーの努力に感謝するし、サムナーも彼のそれに感謝するというわけだ。「俺は2回奴に礼を言ったことがある」フッキーは言う。「25年間で2回だ。そのことを奴に言ったら、クセにならないようにしろ、だってさ。あのクソッタレが。だからこれほど好きなんだけどな」

 彼は別の酒を求めて出ていく。ニュー・オーダーの楽屋は例によって満員だ。しかしモリスと、驚いたことにサムナーも、もう部屋に帰って寝ていた。フッキーが戻ってくる。

「わかるだろ、生まれ変わったみたいだ」彼は叫ぶ。「ファンタスティックな感じだぜ。人生でこんなにハッピーだったことはない。ロブ・グレットンとイアン・カーティスのために神様に感謝するぞ。あいつら、空の上で俺を応援してくれてるに違えねえ・・・」

 生、死、愛、憎しみ。ポップのつやつやした感情でなく、血と喜びと恐怖と家族の優しさ。ニュー・オーダーの両親が死んだ今、フッキーはバンドが一生の絆を得たと思っている。ではサムナーは?

「家族に不幸があるっていうのは」サムナーは言う。「とてもひどいことだ。でも、時間は過ぎるものだよね。それは循環することの一部なんだ。そんなに傷つくことじゃない。俺にとっては、過去は夢のようなものだよ。だけど現在は、俺はそれがリアルだってことを知ってる。現在のほうがもっとエキサイティングなのさ」